心酔陶酔のサイコパシィ
場所は変わらず、閑散とした公園である。
どうやら本当に薬師は戦う意思がないようで、肩透かしを食らった二人は公園のように静寂な気持ちに襲われた。
静寂というか閑散というか、どこか物寂しいような――いや、戦闘を避けることができるのならそうするべきなのだろうが、大方せざるを得ないと予想していたので、それも必然と言える。
しかし、薬師の言葉を聞いた限り、伊和里と戦闘することになるだろうと考えていた憂馬にとって、この展開は理解し難いものだった。
それを問うと、
「あれは君に約束を完遂してもらうために吐いた嘘に決まってるじゃないか。僕がプランちゃんを狙っていると知れば、嫌でも動くしかないと思わないかい? 僕って頭が切れるんだよねえ」
などと、流行に乗った髪をさらりと掻きあげるのだった。
そして、憂馬が彼に対して抱いていた印象の一つに『切れ者』とあったが、それはどうやら間違いだったらしい。
本性を露にした今となっては、すでにただの『馬鹿』であり『変態』でしかなかった。
「あんた、本当に一体何なの」
「はははー、僕は《快楽殺人》の薬師 友人さ。それ以外の何者でもないよ。たとえ僕の存在意義について問うているのなら、それは答えるまでもないなあ。僕は君の――プランちゃんへの愛の化身さ」
「はいはい、《快楽殺人》の薬師 友人ね」
「はーっ、いいねいいねえ、もっと罵ってくれても構わないよお」
「……気持ち悪い」
伊和里は憂馬に救いを求める表情で見つめるが、それも虚しく、
「いいじゃねーかよ、ケツを蹴るくらい。こいつはそれで満足するんだし、伊和里ちゃんもストレス発散になるだろ。別に減るもんじゃねぇしな。何だったら俺が代わりにやってもいいんだぜ?」
唯一の頼みの綱までもが乗り気だった。
それを言うと、「馬鹿か! 貴様に蹴られる尻などない!」と本気で憤怒する薬師であった。
しかし、と憂馬は考える。
こんな奇天烈な展開が繰り広げられるとは想像だにしていなかったことで、つまり、薬師を倒して得ることができるだろうと思っていた妹の情報と七瀬 真草の情報を果たして彼がすんなりと教えてくれるのだろうか、ということだ。
確かに、薬師との約束は果たしたことに間違いはない。
けれど、どうやら彼は満足していないらしい――伊和里に尻を蹴って欲しいという懇願は彼にとって非常に重要なことのようで、その執着心と執念深さは恐怖を覚えるほどのものである。
恐らくそれは伊和里も感じているのだろう、引き攣った苦笑いで頑なにそれを拒んでいる。
果たして、どうだろうか。
満足していない薬師に情報を教えろと迫っても、きっと拒絶するだろう。
せめて、伊和里が彼の尻を満足するまで蹴れば、妹と七瀬の情報を手に入れることができる――そのことを察した憂馬は、伊和里に催促する。
「伊和里ちゃん、あいつの尻を蹴らねぇと七瀬の居場所がわかんねーよ。妹の情報だって教える気ねーぞ」
「そうだねえ、確かに、僕ならその両方を知っている。けれど、僕の言う通りにしてくれないと、それも無理だなあ」
薬師はまるで自分が優位に立っているかのような素振りだったが、言っていることがそもそも格好つかないことなので、伊和里はただただ呆れるばかりだった。
「頼むよ、伊和里ちゃん。七瀬の居場所が知りたいんだろ?」
「頼むよ、プランちゃん。僕の尻が蹴りたいんだろ?」
「頼むよ、伊和里ちゃん。妹の情報も欲しいんだよ」
「頼むよ、プランちゃん。僕の尻も蹴られたいんだよ」
「お願いします!」
「お願いします!」
「こいつの――」
「僕の――」
「ケツを蹴ってやってくれ!」
「尻を蹴ってやってくれ!」
一糸乱れない整ったコンビネーションに、伊和里の肩は地面に引っ付く。
どこでいつ何があって、そんな連携が取れるようになったのか――そもそも、敵であるところの『深刻数字』と一体全体何をやっているのか、伊和里には理解できない。
いや、理解が追いつかないどころか、どんな経緯を辿ってこんなことになってしまったのか、と己の不運を嘆くばかりだった。
しかし、抵抗はあるが背に腹は変えられない。
尻を蹴るだけで、七瀬 真草の居場所がわかるのなら、我慢してでもやるべきなのだろう――伊和里は眼前で無様に土下座する二人を遠い目で眺めながら決心する。
「わかった」
「え、やった、やったぜ! なぁ、薬師!」
「あぁ、やった、やったよ! シリアルちゃんのおかげだ!」
「あんたたちいつの間に仲良くなってるの……」
薬師、スタンバイ。
準備万端、準備完了である。
薬師は膝に両手を乗せ、そして軽くそれを曲げながら、人間が最も蹴り上げやすいであろう位置にまで腰を落とす。
そして、尻を突き出した。
「あのさ……」
「ん、何だい、早くやってくれて構わないよ」
「こっちに顔を向けるのはやめてくれない?」
「顔を向けないと君の蹴る瞬間の表情を見れないじゃないか」
「…………」
薬師は首を限界まで回転させ、横目に伊和里の表情を捉えていた。
それが気になるのか、伊和里は蹴るのに躊躇する。
「それと、罵倒も忘れないでねえ。何でもいいからさ、『この豚野郎』とか『この変態野郎』とか、『貴様の○○○を×××にしてやろうか』でもいいし、『あたしの□□□で△△△してやろうか』でもいいからさあ」
「……気持ち悪いんだけど。そんなの言えないんだけど」
「ほら、ほら、早くしてくれ。何でもいいんだよ、何でも。力加減もする必要ないし、思い切り頼むよ」
「……はぁ…………じゃぁ、本音で」
「え? 本音?」
「どういう――」
薬師の言葉を待つまでもなく。
一瞬の戸惑いを顔色に出した彼の絶叫が、閑散とした公園内にこだました。
「ズボンの下半身に変なシミ作るなボケェーーーーーーーっ!!」
一転して喧騒に包まれた公園を、軽く十メートルは飛んだ薬師を見て、憂馬は感嘆の声を漏らす。
「伊和里ちゃん、ナイスシュート」
「さすがに、あいつ気持ち悪い。さすが『深刻数字』、変態ばっかり」
「はははっ、だな。ところで、変なシミって何?」
「…………」
「伊和里ちゃんにはあのシミが何に見えたんだ? あれってさっきあいつが涎を零したからだったと思うけど……伊和里ちゃん、もしかして――」
「あんたも蹴られたいの?」
「いえ、何でもないです……」
憂馬と伊和里はうつ伏せになり動かなくなってしまった薬師の側に寄り、顔を覗き込んだ。
その瞬間、憂馬は仰向けにした体を下の状態へと戻す。
「……なんでこいつ笑ってんの。と言うか、完全に気絶してるよな、意識飛んでるよな。快楽の果てに旅立ったのか?」
「蹴られて気持ちいいって、どうかしてる。バッカみたい」
それから、愉悦と快楽の果てに飛んでいってしまった薬師が帰ってくるまでに三十分ほどかかった。
ただ気絶するだけならまだしも、触れたくもないほどに気持ちの悪い笑みを浮かべていたので、二人は彼をそのまま放置して、遠くの方からベンチに座り眺めていた。
その間、公園内を徘徊する小汚い野良犬がうろうろして様子を窺ったり、ランニングに勤しんでいた青年に声をかけられたりしていたのだが、それを告げるとまた面倒なことになりそうだったのでやめる。
遠くで呆れ果てていた二人はできる限り関係者と悟られぬよう、ゆっくりと起き上がる薬師を確認して、
「あ、歩きながら話そうぜ、な?」
と、憂馬が強引な催促をしたが、薬師は何も言わずにただついてくるだけだった。
記憶が欠落しているのか、それとも何らかの怪我を負ってしまったのか、もしくは脳に異常をきたしたのかはわからないけれど、素直に言うことを聞いてくれているということは、概ね大丈夫なのだろう。
仮にも、《異常者》――伊和里の蹴りを一発食らったところで死ぬほど柔ではない。
「ってかよー、あんた、何で伊和里ちゃんに蹴られたいとか言い出したわけ?」
「……愛しているからに決まってるじゃないか」
薬師はおぼつかない足取りながらも返答する。
「初対面なのは否定しないけれど、プランちゃんのことは前から耳にしていてねえ。まぁ、この世界に彼女の名前を知らない者はいないだろうけどさ――とんだ荒くれ者だって聞いて、それで、いてもたってもいられなくてね」
「あんたマゾかよ」
「否定はしないさ」
ところで、と薬師は続ける。
どうやら蹴られたことに満足したらしく、先ほどまでに醸していた間抜けな雰囲気は皆無で、真剣な面持ちだった。
「キラーちゃんの居場所と、君の妹の居場所だったねえ」
と、自ら切り出す辺りが彼の殊勝さを表現している。
馬鹿で間抜けで変態だが、彼なりのポリシーがあるのかもしれない。
約束に対する義務というか、仁義というか、そういうものを最もとしているのだろう。
「その前に僕からも訊きたいことがある、七瀬と会ってどうするのさ?」
「倒すんだよ、いや、殺す」
「殺すねえ……あぁ、そうかそうか、町屋ちゃんが言ってたのはそのことだったんだね。キラーちゃんが狙ってる人物――それが君たちってわけだ」
「そういうことらしいね」
「でも、彼、強いよ? 君たちじゃ到底敵わない相手だと思うよ? それでも戦うのかい?」
憂馬と伊和里は覚悟を決めた表情で沈黙する。
返答せずともそれは肯定を意味していた。
「ふぅん……僕の主義からすれば本当に理解できないけれど、まぁ、それでもって言うなら教えてあげるさ。約束も果たしてもらったしね。しかし、キラーちゃんは神出鬼没、どこにいるのか僕にだってわからないんだよ」
「おいおい、同じ『チーム』だろ、メンバーの動向くらい把握しろよ」
「『チーム』であっても、僕たちは仲間じゃないからね。そういうのとは無縁さ。今日のことだって、僕の独断だしねえ。まぁ、でも、会えないってわけじゃあないさ。方法はある」
「……方法?」
薬師は足を止める。
しっかりとした足取りができるまで回復するにはまだ時間を要するらしい。
「キラーちゃんは強い者にしか興味がない。逆に言うと、弱い者には興味がないということさ。つまり、君たちが強ければ、自然と彼からその機会は作られる。けれど、ただ悪戯に暴れまわるだけじゃ意味がない。最も効果的なのは、彼が今興味を持っている《異常者》を先に殺すことだねえ」
そして、側のベンチに座り、さらに続ける。
「名前は、深淵 灯と言う。そいつを殺せば、そいつよりも強いことが証明されるだろうさ。そうなれば、キラーちゃん直々に出向いてくれるだろうね」
「しんぷち……ひのと……」
「せっかくだしそいつの情報も教えてあげよう。『生贄宛』所属、通称《死神》。今は確か、中学校に通ってるんだったかなあ。場所は花宮第三中学――あぁ、でも今の時期だと冬休みかな?」
「ちゅ、中学生!?」
憂馬は薬師の言葉に驚愕する。
「中学生で《異常者》なのか?」
「そうだよ、別に不思議なことじゃないけれど、それが何か? この”世界”じゃ大人も子供関係ないさ。強い者だけが生き残るんだからね。とりあえず、そこにいけば会えるかもしれない」
あぁ、それとそれと――と。
薬師は饒舌に語る。
伊和里の蹴りがよほどよかったのか、上機嫌のようだった。
「シリアルちゃんの妹――生憎だけど、詳しいことは僕にもわからないんだよ」
「は!?」
「あぁ、ごめんごめん、別に約束を破るつもりじゃないさ。僕よりもさらに詳しい人物を紹介しようと思ってね――」
薬師はごそごそと上着のポケットを探り、くしゃくしゃになった紙切れを手渡した。
そこには電話番号らしきものと、簡素な地図が手書きされている。
そして、名前も――
「鴫野 真希……こいつが妹のことを?」
「そう、少なくとも僕よりかは詳しいはずさ。しかし、彼女は『深刻数字』でもなんでもない。どこの『チーム』にも属していない身で揉め事も嫌うようだし、できる限り丁重に扱って欲しい。僕の顔を立てる気持ちで頼むよ」
「……そっか、わかった」
それで一仕事が終わったとばかりに、薬師は大きなあくびと共に背筋を伸ばす。
間髪いれずに話したこともあってか、それとも伊和里に蹴られたダメージが思いの外大きかったのか、ひどく疲れているようだった。
その様子に憂馬は、
「なぁあんた、何でここまでしてくれるんだ?」
「……ん? つまり?」
「約束があったのは確かだけど、そこまで協力してくれるとは思ってもなかった」
あぁ、と。
彼は何かを思い出すように、何かを思い浮かべるように、天を仰いだ。
「別に、ただ君たちを見ていると感傷的になってしまっただけさ。同情したのかかもしれないねえ。キラーちゃんに殺されるかもしれないっていうのに暢気だし、危機感なんてなさそうだし。それが重なったのさ、きっと」
曖昧な相槌を打った憂馬はそれ以上のことを訊くわけではなく、懐かしさに浸る薬師を見つめるだけだった。
その後、薬師は鼻歌を混じりに公園を一人で去っていったのだが、その際、「尻を蹴りたくなったらいつでも呼んでくれ」という言葉を残していき、もはや二人にとって彼がただの良い変態でしか見えなくなったは言うまでもない。
七瀬 真草と会う方法は見つかった。
憂香の情報を得られる手段も見つかった。
少しずつではあるが、進捗する状況――それが憂馬と伊和里にとってただひたすらに喜ばしいことだったのは言うまでもない。
しかし、それが進捗するということは、つまり、自分たちが殺される日も近いということでもある。
そのことは重々理解していたが、それをお互いに口に出すことはなかった。
死にそうになったら逃げればいい、それも当人の力だ――いつか言っていた、夏焼 潤のその言葉に文句をつけるつもりは毛頭ないけれど、しかし、二人は自身が生き残れると、そう信じて止まなかった。




