相反天秤のメディカルキュート
《快楽殺人》 薬師 友人との邂逅からほどなくして、伊和里の噂が憂馬の耳に飛び込んできたのは、彼が与えられた自室でジュリィの首に鎖を繋ごうとしている時だった。
「ギャーッ! キャーッ! 憂馬クン、それはちょっとやめ……やめてヨー!」
「あんたが毎日毎日、何回も何回も何回も言ってるのに聞かねぇで俺の寝込みを襲うからだろ!」
ジュリィは、だってー、と言い訳を始める子供のように頬を膨らませたが、憂馬はそれに構わず、ジュリィの細い首に巻かれた革製のチョーカーに鎖を引っ掛ける。
呆れ顔の憂馬に対し、ジュリィは拒絶しながらもどこか愉悦に浸っていた。
「何で頬が緩んでんだよ。言ってることと表情が全然違うじゃねーか」
「アッ、いや、それは……」
課せられた鎖で自由を失い、ジュリィはフローリングに項垂れる。
高身長の彼女が横になると、そのスタイルの良さが余計に目立った。
「ったく……」
『血まみれの血統』に加入し、根無し草だった憂馬に部屋が与えられて以来、ジュリィは夜な夜な鍵を巧みに開錠し、彼のベッドに潜り込む――この一週間、毎日欠かさずその儀式を続ける精神と、拒絶されても尚諦めない忍耐力に、憂馬は心底呆れていた。
いや、もはや呆れを通り越して、一種の尊敬を抱いた。
しかし、抵抗すればあっさりと引き下がるので、ジュリィのそれに一体どんな目的があるのか、或いは積極的なのかそうでないのか、憂馬にはわからなかった。
と言うより、初めて出会ったその時から、彼女の心理状態が理解できていない。
そう考えると、憂馬は『血まみれの血統』の活動内容やメンバーの素性など、何一つ知らない。
無知とは言わないまでも、一際仲良く(?)しているジュリィのことさえ、憂馬はほとんど知らないのだ。
それも当然、破格の条件で加入したので、それが故に憂馬は『チーム』の目的を達するためにメンバーと共にする必要はなく、ないのだから他のメンバーと関わりを持つことがなかった。
名前と顔を知っている者と言えば、
夏焼 潤とジュリィ・ケイト・ロックハートだけである。
例外として、メイドの出雲 瑠衣もそうだが――それにしても、数えることが億劫になるほどの大勢がいる中で、面識があるのはその三名だけなのだから、憂馬は自身の社交能力の低さに驚愕していた。
いや、と言うより、社交能力以前の話になるのだが。
「憂馬クーン、これ取ってヨー」
「駄目だ」
「取ってくれたら、すっごい情報教えちゃうんだけどナー。今、一番憂馬クンが欲しがってる情報、道無 伊和里ちゃんのことなんだけどナー」
「伊和里ちゃんの……?」
ジュリィは床に肩肘をつき、扇情的なポーズ。
故意にやっているのだろう、その姿勢のまま艶かしく舌で薄い唇を撫でた。
「でも教えないヨ、だって憂馬クン意地悪するから」
「元はと言えばだな――」
「そんなの関係ないヨ! 人畜無害って言葉は、人間が家畜って意味じゃないんだからネ!」
「そんなの最初から知ってるから! こちとらジュリィちゃんより長くこっちで生活してんだよ!」
何で外人に日本語の教示を受けなくてはいけないのか、憂馬は突っ込みながら嘆息する。
「だからこそ、ニッポンジンより知ってることもあると思うけどネー」
ジュリィはじと目に憂馬を見つめる。
どうやら、外人だと差別的に言われることを嫌うようだった。
「で、何だって? ジュリィちゃん、その情報……どういうことだよ? つーか、何で薬師 友人が出した条件のことを知ってんだよ」
薬師 友人。
《快楽殺人》から出された条件――憂香の情報を与える代わりに、伊和里との顔合わせを取り付けるということだった。
敵であるところの『深刻数字』との邂逅で、周囲に気を配っていた憂馬だったので、近くにジュリィがいたとは思ってもいないことだったが、
「気配くらい簡単に消せるヨ! まぁ、彼の方は多分気付いていたと思うけどネ!」
と、言った。
やけに上から目線で、見下すような物言いだったけれど、しかし、彼女の姿はあまりにもひどく滑稽だったので、その効果は発揮されていないようである。
チョーカーから繋がれた鎖は憂馬の手にあり、さながらペットのようで、しかし、主人に飼われるはずのペットがそのようなふてぶてしい態度と誘惑するようなポージングを決めるはずがないので、彼はどちらが場の支配権を手にしているのか曖昧に思えて仕方がなかった。
憂馬は力でジュリィを抑制し、ジュリィは情報で憂馬を制していた。
そのどちらがより強い支配力を持っていたか、それは言うまでもなく、
「わかったわかった、それ解いてやるから教えてくれよ、ジュリィちゃん」
願ってもいなかった情報を得ることができるなら、と憂馬は素直にジュリィのチョーカーに手を伸ばす。
とりわけ負けず嫌いでも、意固地なプライドも有していない憂馬にとって、見下されようが構わないことだったけれど、それは相手がジュリィだからという理由が大きいだろう。
敵ならばともかく、これほどよくしてくれているジュリィに対して邪険にするのは失礼極まりない。
かと言って、その好意のお返しとして憂馬が彼女を甘やかすと、それはもうあっという間に手のひらを返して調子づいてしまうので、いずれにせよ飴だけでなく鞭も必要なのであった。
ジュリィが何を考えているのか、憂馬にはほとんど理解できない。
だからこそ、コントロールできるのならそうするべきである。
憂馬がチョーカーに手を伸ばし指先が首筋に触れた瞬間、んっ、とジュリィは愛らしい声で鳴いた。
それを目の前で聞かされた憂馬は気まずさが故に沈黙してしまったが、彼女も彼女で何か思ってしまったのか、赤面してわざとらしい咳払いをする。
「はい……」
「あ、うん、ありがとネ……」
どんよりとした空気が二人を包んでいた。
憂馬はやはり、ジュリィのことが理解できない、と改めて思う。
突拍子もなく襲ってくる割には一線を越えようとはしないし、時にはこうして恥じらいを見せたり、純情さを露にしたり――実際、彼女の深層は無垢で埋められているのかもしれなかった。
とは言っても、そんな純情無垢があってなるものか、という話である。
いや、あえて言うならば、新しいツンデレの形なのかもしれなかった――と、憂馬は沈黙の中で考える。
さて置き、二人は目を逸らしつつ、姿勢を正して向き合った。
ジュリィは大きく息を吐いて、
「道無 伊和里の情報、というより噂みたいなものなんだケド――」
やけに神妙な顔つきになるジュリィに、憂馬はついつい生唾を飲み込む。
「どうしてかはわからないし、どうしてそうなってしまったのか全然わからないんだけどネ……道無 伊和里――彼女、次々と《異常者》を殺してるみたいヨ」
「…………」
「彼女は今まで、あんまり表に出るようなタイプじゃなかったんだけどネ。何があったのカナ? もうすでに四人殺されたらしいヨ。しかも、無差別ネ」
「……ふぅん?」
憂馬は冷静を装いつつ相槌を打ったものの、内心は穏やかでなかった。
当然のことだ、伊和里が無差別に人殺しをするような人物ではないと思っていたし、何より、自分を助けてくれた彼女がそんな暴挙に出ていることが信じられない。
「そんなことをしていたら勿論、道無 伊和里は目の敵にされるヨ。今では”異常”に生きるみんなが彼女のことを探してるし、復讐を企ててるネ。だって、そこには人情や義理もない、ただの人殺しロボットだもん」
「伊和里ちゃんはそんなんじゃ――」
「んん?」
――ねぇよ。
と、憂馬は否定することができなかった。
彼女のことを信頼こそしているものの、しかし、ジュリィの情報が嘘偽りであるとは思えなかったのだった。
「どうしてそんなことをしてるのか、全然わからないネー。この世界を独りで生きていこうとしているなら、ちょーっとやり過ぎカナ。運良く『血まみれの血統』から犠牲者はでていないけど、それも時間の問題な気もするし。そうなったら最後、リーダーも黙っちゃいないと思うネ」
「時間の問題か……その情報が本当だってんなら、伊和里ちゃんの目的は何だ? そんなことすれば、自分の命が危ういってのに……」
さぁネー、とジュリィは深刻な表情をする憂馬に対し、暢気に返答した。
確かに、伊和里の目的など考えるだけで理解することができないだろう、しかし、憂馬は彼女の行動に伴う強烈な違和感がどうしても気掛かりだった。
しかし、その感覚の詳細を説明することはできない。
伊和里ちゃんは人を殺すことができる。
それも躊躇いなくできるだろう。
リスクを犯してでもリターンを求めることができる。
殺す相手を明確な基準で選択しているわけでもないだろう。
そう考えれば、伊和里が無差別に殺人を犯したからと言って、別段不思議ではないのかもしれない。
依頼があればやってみせるだろうし、誰かのためなら尚更、行動にでるだろう。
しかし、憂馬には伊和里が何か特別な事情を抱えているようにしか思えなかった。
それは勘というより、不安に近い――思い違いかもしれないが、伊和里と離別することを決断した後に見せた、彼女の憔悴した様子を、憂馬は鮮明に記憶していたのだ。
それが原因で伊和里の心理状態に何らかの変化が現れたのだとしたら、そうさせてしまった責任を感じざるを得ない。
「ジュリィちゃんはあいつのこと全然知らねーだろうけどさ、それでも、なかなかいい女なんだぜ?」
憂馬は笑った。
「いい女って、ワタシより? と言うか、そんな話してないんだけどナッ!」
「ぶっちゃけ身体はジュリィちゃん、あんたの方が好みだけど、顔は伊和里ちゃんだな」
「ガーンッ!」
ワタシは身体だけの女、身体目的の女。
と、ジュリィは顔色を真っ青に変える。
「憂馬クン、もしかしてそれだけの理由で彼女の事情に首を突っ込もうとしてるネ……?」
「うん」
「不純ダヨ! そんな不純な動機が許される法律なんてこの世にないヨッ!」
否定する余地がないほどに、それは正論だった。
「男の動機なんて大抵そんなもんだって。可愛い女を横に連れて歩きたいし、スタイルのいい女は眺めたいし、肌の綺麗な女には触ってみたい――そんなもんだって」
「それ最低ッ!」
「そうそう、男って最低だからな。かははっ、でもそんな理由で助けが来るんだから最高だろ。《異常者》としての能力にも先天的なもんが関わってくるのと同じなんじゃねーの。生まれ持って人生のアドバンテージを獲得してんだから」
「内面は、内面は関係ないのネ!?」
「ははははっ、そんなもん、後からいくらでもついてくるだろ」
ジュリィは顔色を青から白へとさらに変化させて、項垂れた。
憂馬の言葉がこれっぽっちも理解できないようで、まるで神様へ懇願するように体の中心で十字架を描く。
「んじゃ、そういう理由で、今から俺は出かけるから」
「彼女に会いに?」
「いんや――」
憂馬はベッドから跳ね降り、直立してから背筋を伸ばした。
妙に心地のいい音が背骨から聞こえ、そして、深呼吸をする。
ジュリィの目は点となっていたが、勿論そんなことには構わず。
「助けに行くんだよ」
憂馬は用意を済ませ、部屋を出た。
その瞬間、背後から罵声が聞こえてきたが、それを黙殺する。
真冬にはそぐわない薄着なので、冷たい外気に体が硬直してしまうが、戦闘することになった場合のことを考えると俄然その方が適しているだろう。
ホルスターに収納された二つのナイフを確認しながら階段を下り、錆の塊にも見える鉄扉を開け、憂馬は立ち止まった。
眼前を塞いだ人物がそこにいた。
メイド服を身に纏った――
「お出かけですか、憂馬様」
「あぁ、瑠衣ちゃんか……」
「憂馬様、私の顔を見る度、露骨に嫌な雰囲気を醸されますが、別に私は害を与えるつもりなどありませんよ?」
「…………」
確かに害はないのだろうが、初対面の一件以来、憂馬は彼女のことを避けるようになっていた。
それもそのはず、出雲 瑠衣から滲み出る『危ない』空気を一度体験してしまっているからだった。
「瑠衣ちゃんは……買い物帰り?」
それでも、こうして顔を突っつき合わせてしまっている以上、そして日常生活をサポートしてくれている以上、ぞんざいな扱いはできず、当たり障りのない会話で適度な距離関係を維持するしかない、と憂馬は考える。
「えぇ、日頃からお世話になっている『ツール&ツール』に少し用事がありましたので」
「ふぅん、何かよくわかんねぇけど、見た感じ、何となく察するよ」
買い物帰りと言うから食材が詰められたビニル袋をぶら下げているかと思いきや、そうではなく、瑠衣が手にしていたのは黒いアタッシュケース二つだった。
推測でしかないが、よくない物が入っている気がする――憂馬はそう思った。
しかし、買い物でアタッシュケースを使用する場面なんてそうそうないと思うのだが、中には兵器や武器でも入っているのかもしれない。
「憂馬様、何やら思いつめたような顔をされていますね。具合が優れないのですか?」
憂馬の心境など露知れず、彼女は問う。
あざとく首を傾げて、指先を唇に持っていくあたりが彼女が持つ危うさを助長している。
「そうじゃねーよ。ただ、これから人命救助に行くもんで先行きが不安なんだよ。あ、それと今晩はメシいらねぇから、よろしく」
「あら、そうですか。今日は腕によりをかけたハッシュドライスだったのですが……残念ですね」
「……あぁ、うん、悪いね」
まさかこの世の中にハヤシライスのことをハッシュドライスと呼ぶ人物がまだ存在しているとは思わなかった、と憂馬は曖昧な謝罪をしつつ、
「んじゃ、もう行くわ」
と、片手を挙げて別れようとした寸前、瑠衣はそれを制した。
「憂馬様がこれから何をなさろうとしているのか、私には想像だにできませんが、あなたの命が危機に晒される可能性があるというのなら――」
これを、と瑠衣は手に持っていた一つを渡した。
黒いアタッシュケース。
中身は勿論、わからない。
「これ何?」
「開けてからのお楽しみです。くれぐれも興味本位や好奇心で開けないで下さいね。それを開ける時は、憂馬様の命が危うくなった場合と、友人の命が危うくなった場合のみ……それを約束してください」
「えっと……」
よくわからない、とばかりに憂馬は頭をかいた。
「例えばそれを今この場で開けてしまうと、状況認証機能が作動して不適当だと判断され、それを中心とした半径五百メートル圏内に衛星から放射光線が放たれるようになってます」
「嘘つけ!」
「嘘です、失礼致しました……」
「どんな嘘だよ、何でそんな嘘つくんだよ……」
やはりこの女どこか危ない、憂馬は改めてそう思う。
瑠衣はとにかく、と仕切り直し、
「約束は守って下さい。そうすればきっと、憂馬様の危機を救ってみせましょう」
と、胸に手を当て、誓うように言った。
判然としない憂馬だったが、それでも一応の礼を述べ、彼女に別れを告げる。
しばらく歩いてから振り向くと、瑠衣は丁寧に手を前に組みながら頭を下げたままの姿勢を保ったままだった。
その様はまさにメイドの鑑と言えるだろうが、憂馬にとってその礼はまるで今生の別れを意味するもののように思えたのだった。




