決意焦燥のピュアプレイ
「――っ!!」
いつの間にか気付かない内に眠っていたのだろう、伊和里は薄ら目で、藤羽の声がこだまする頭を揺すった。
けれど、払拭しようにもされないそれは、いつまでも彼女の脳内で鳴り続ける。
果たして幻聴なのか、或いは本当に遠くから聞こえてくるのか、いや、それを言ってしまえば、まるで耳元で囁かれているような感覚――実際、その音量は囁く程度でなく、むしろ、鼓膜を突き破るかのような勢いで、頭痛すら催すものだった。
藤羽 早百合――伊和里は決して彼女のことを見殺しにしたわけではないけれど、確かに言われてみれば、仇討ちもせず一人でひそひそと隠れながら生き延びていることに対して、非難があってもおかしくはないだろうと考えていた。
なぜならそれは、逃避であるからだ。
逃避行ならぬ、現実逃避――いや、ただ自分が死ぬことを恐れているだけなのかもしれない。
そしてさらに、七瀬 真草に恐れをなしているせいだろう。
全てを七瀬に奪われた伊和里は、彼のことを殺したいくらいに心底憎らしく思う反面、事を成すべき力が自身にないことを認識している。
どうしてかあの時、七瀬は逃げる伊和里を見逃したが、次に遭った時はそうはいくまい。
結果、それが意味することはつまり、七瀬に返り討ちに遭い、殺される予想図だった。
「……はぁ」
伊和里は自分自身で、もう二度と大切なものを失いたくないと、そう思い願い、自らあえて全ての関係性を断ち切り、孤独に生きてきた。
しかし、裏を返せば、それはただ再び七瀬の標的になることを避けていたということにもなるだろう。
大切な人を作れば、また七瀬 真草に奪われる。
大切なものを作れば、また彼に奪われる。
その恐怖心がいつのまにか伊和里の心の隅に植えつけられていたのかもしれない。
「けれど、もう遅い……」
そう。
そうなのだ。
確かにその通り、たとえ伊和里にそのような恐怖心があり、自身に都合のいいように解釈したとして、しかし、彼女にはすでに大切とも言える人がいた。
今までずっと避けていた仲間作りを、気付かぬ間に成していた。
貴船 憂馬。
伊和里と似た境遇を経て《異常者》として生きていかなければならなくなってしまった彼――伊和里の心に知らぬ間に入り込み、遠慮せずに居座り、躊躇いなく住まい、我が物顔で内側に踏み込んだ彼。
伊和里が抱く信念などお構いなしだった。
憂馬にとって、『あの時』から伊和里はすでに仲間だった。
そして、なかなか心を開こうとしない彼女の様子を察しながらも、憂馬は関係を続けた。
最初は一方的なものだったかもしれないし、違う角度から見れば、それはただ図々しいだけのように思われるかもしれないけれど、しかし、それは運よく功を奏したと言えるだろう。
その結果、仲間などもう作らないと考えていた伊和里の側には憂馬がいた。
憂馬がどんな凄惨な経緯を辿って《異常者》になってしまったのかを既知としていた伊和里は、だからこそ彼のことを認めていた。
加え、羨ましいと思い、尊敬と似たような感情もあった。
その上で、妬ましくもなったり、妙に敵視してしまう感が否めなかったり、認めているからこそ余計に失望してしまったり――そんな人間らしい感情を、伊和里は憂馬のおかげで思い出していた。
一人が長く、忘れてしまいそうになっていたそれを思い出したのも、彼が異常な世界や黒い懐の中と向かったり、折り合ったり、割り切ったり、兼ね合ったりして、《異常者》である自分もまた自分であると認めようとしていたからだろう。
すぐ隣にそんな人物がいるのだから、感化されて当然だろうし、伊和里にはないものを憂馬は持ち合わせていたからなのだろう。
けれど。
そんな憂馬とも別れてしまい。
伊和里は再び一人ぼっちに陥ってしまった。
そして、思う。
卑劣で醜悪な腹の内側が露になるように、思う。
「このままあいつのことを忘れるなら、あたしはもう何も失うこともないんだろう」
「いっそのこと忘れてしまって、なかったことにして、何もかもふりだしに戻して全てを零にすれば、あたしが失うものなんて何もないんだ」
憂馬がどこでのたれ死のうとも。
誰に殺されたとしても。
たとえ七瀬が憂馬を非道に蹂躙しても――
「そうすれば、あたしには無関係なんだ」
このまま忘れてしまえば、
このまま忘れ去ってしまえば、
どれほど楽なのだろう――
「でも――」
伊和里は独白する。
冷め切った料理を横に、膝を抱えながら独白する。
「そんなの、できるわけがない……」
誰に聞かせるでもない震える声がどこかに消え入り、伊和里は顔を上げた。
しかし、そこに涙はない。
滲みもない。
淀みもない。
伊和里の瞳は強固な決意と凝固した意志で満ちていた。
全て忘れて零に戻すような、そんな後戻りはすでにない――退路を自ら絶つ、意志の表れだった。
「あたしが……」
伊和里は立ち上がり、花柄のワッペンがあしらわれたホルスターに収納された二本の短刀を確認する。
真冬には少し寒いが、機能性と運動性を重視した薄い上着を羽織り、玄関の扉を開けた。
温まっていた顔面を刺すような冷気に、伊和里の鼻が少し膨らむ。
それを躊躇なく吸い込み、大きく息を吐いたところで、彼女の決意が声にでる。
声になる。
言霊として現れる。
「あたしが殺せば全て終わる」
そう。
全てはあたしから始まったんだ――伊和里の眼差しは固い。
「あたしが七瀬を殺せば、全て終わるんだ」
伊和里の決意により、真冬の闇が少しだけ明るみを帯びたような気がしたが、それはきっと気のせいだろう。




