道草道中のイマジネーション
「そう、あたしはきっとあの時から自分がおかしいのだと知った――」
伊和里はセンチメンタルとは程遠い感情で過去を回想しながら呟く。
思えば、その時点から全ての歯車が狂いだしたのだろう、当たり前のように訪れると思い込んでいた明日が全く異なるそれとなってやって来るなんて、想像だにしていないことだった。
生きる意味なんて考えたことすらなかった当時は、やはり惰性のように毎日を過ごしていたのだ、だからこそ、当初は一変し変貌した世界の訪れを受け入れることはできなかった――いや、それは今でも尚、未だ受け入れ切れていないのかもしれない。
両親の死後、伊和里は遠い親戚の家に引き取られ、義務教育を終えた。
その間、伊和里は日常と異常の狭間を不安定に浮遊していたのだが、それを終えると、彼女の前から日常を消え去った。
学業という日常が消え、最後に残ったものは”異常”という世界だけだった。
全身を余すところなく”異常”に浸けるまで、そう長くはなかった。
理解できないまま命を狙われ、無知のまま生死の境を彷徨い、右も左もわからないまま抵抗した――まるで迷子の羊のような様だったところを、空乃 希望が手を差し伸べた。
「アタシがアナタを生かしてあげるッ」
伊和里もまた憂馬が初対面で抱いた思いと同様、希望の奇抜過ぎる容姿に心底気が引けたのだが、日常に回帰することができない伊和里が生活する為には必要なものも多く、胡散臭い話であろうと、巧みな口車だろうと乗る以外に他なかった――結果的に、希望が信頼を置くに足る人物であるということを知り、それ以来、彼には世話になりっぱなしであった。
丁度、その頃だろう。
希望から『チーム』に参画するべきであると告げられ、少なくとも、同じ意志を持つ仲間を作るべきだと助言されたのだ。
異常な世界を孤独に生きることがどれほど難しいかを、希望は知っていたが故に、天涯孤独の道を歩もうとする伊和里にそんな言葉を投げ掛けたのがきっかけだった。
きっかけ。
契機。
経緯。
そう、そのきっかけによって、伊和里は初めての友人を得ることができた。
未練を残しながらも日常を捨てた彼女にとって、初めてとも言える仲間ができたのだった。
彼女の名前は、藤羽 早百合という。
藤羽 早百合――彼女もまた自分の異常性を許容することができず、それに酷く苛まれていた。
それが共通点となり、伊和里と藤羽が意気投合するまでに要した時間はほんの僅かで、しかし、そんな僅かな時間だけで十分だった。
完全に互いを理解することができていたかと言えば違うのだろうが、少なくとも、両者が相思していたことは確かに言えることだった。
彼女ら二人が創り上げた『チーム』を、『無名』と呼んだ。
二人だけの、
二人きりの、
二人のための『チーム』――『無名』。
大層な名前など持たない、一端の一端、末端の末端である、名の無い彼女らにはお似合いの『チーム』であっただろう。
目立った活動はせず、誰か他に仲間を増やすこともせず、ひそひそとしんみりと営むだけの、些細な『チーム』だった。
彼女らからすれば、『チーム』のあり方なんてことには興味がなく、それはただ単純に、仲の良い友人と『チームごっこ』をしているような感覚でしかなかったのだろう。
しかし、それもすぐに終わりを迎える。
誰が聞いても知りえない『無名』が、瞬間的に有名になってしまった。
それはまさしく、『有名』であり『有名』だった。
そうなってしまった要因は偶然にも伊和里にあったのだが、しかし、後から思えば必然だったのだろう。
こじんまりとした枠の内側に囚われるほど小物ではなかった。
ちっぽけな存在で留まり続けることができるほど小物ではなかったのだ。
当時の伊和里は自分が何者であるかなんて理解していなかったし、それこそ、自分に一体どんな力があるのかさえ無知だった――もっと言えば、自身がどんな《異常者》かなんて知るはずもなかった。
「なに、これ……」
伊和里は鏡に映る自分の顔を見て唖然とする。
「これってどういう――」
ひび割れた鏡に映る眼。
まるで、血涙を流したかのように赤い、ワインレッドのように深い、鮮血が迸る瞳だった。
視界はいつもと変わらないというのに、確かに自分の眼が深紅の色をしている――その違和感に、伊和里は暫くの間、無言でそれと向き合う。
どんな契機があったのかはわからない。
どんな経緯があったのかもわからない。
けれど、はっきりとわかることは、ただどうしてか自分の瞳が赤く染まっているということだった。
それからの展開は非常に早かった。
藤羽が殺され、『無名』が解体するまで、ほんの数日足らずだっただろう。
先天性の《異常者》の中でも特別、特殊の中の特殊である『変色眼』を持つ伊和里の前に次々と刺客が現れた。
その者のほとんどは手足を折ってでも自分の『チーム』に強制的に参加させる算段だったのだが、伊和里はそれに負けなかった。
守るべきものがあった。
守りたい者がいた。
伊和里は『無名』と藤羽を守るべく――何より、”異常”の中でやっと見つけた穏やかな生活を奪われたくなかった。
捨てざるを得ないと、未練を残ざるを得ないと思っていたそれが、自分で考えていた以上に近く、手の届く距離にあったのだと知らされた、それを守らなければ、またあたしは独りになってしまう――伊和里はその思いだけで苦難の連続を乗り越えた。
けれど。
けれど。
最後の最後に、最大の壁が眼前を塞いだ。
七瀬 真草。
《殺人鬼殺人》七瀬 真草――彼は伊和里の激昂した姿を見たいがために、藤羽を人質に取り、そして、殺した。
彼からすれば、藤羽のことなど虫けらのようにしか思えず、伊和里が本領を発揮するならばとそんな悪逆非道な行為に及んだのだが、結果、それは成功であった。
守るべきものを失い、守りたい人を失い、自分を見失い、自我すらも見失い、伊和里は七瀬 真草と対峙する――
「あんたをここで殺す!」
「俺様、すげぇ楽しみ」
どれほど打ち合ったか、どれほど斬り合ったか――最終的に両者共に引き分けた。
いや、そうではなく、具体的にその時の戦闘結果を描写するならば、あまりにも手強いと判断した伊和里は七瀬に背を向けて敗走したのだ。
《殺人鬼殺人》と称されている七瀬だったが、伊和里が思いの外善戦し、一歩間違えれば自分が殺されかねないと判断し、それ以上追うことはなく、彼女の小さな背中を無言で見送ったのだった。
「ふはっ、これから楽しみじゃねーか」
七瀬の声は余裕に満ちていた――とは言い難いものであった。
伊和里は怪我を負いながらも、命辛々逃げ延びることができた。
しかし、後に待っていたのはやはり後悔だった。
後悔以外の他に何もなく、自分の無力さを痛感するには十分で、伊和里はその夜、わんわんと子供のように泣いた。
己の無力さを嘆いた。
世界の不条理さを呪った。
異常を恨んだ。
七瀬 真草に憤った。
何もかもを失ってしまったことに狼狽した。
自分のせいで何もかもを失ったことに泣いた。
自分のせいで藤羽が死んだということに心臓が潰れた。
そう、何もかも自分のせいで――
全部あたしのせいで――
あたしが弱いせいで奪われて、失って――
もう二度と彼女の笑顔を見ることができない。
もう二度と彼女とたわいのない会話ができない。
絶え間ない会話で次に何を話すかわかったり、時に傷つけたり、時に慰め合ったり、或いは傷を舐め合ったり、一緒にいるだけで笑えて、一緒にいるだけで悲しくもなったり、そんな感情を共有して協調し、共同で生き、いつまでもこんな関係が続くのだと思ったり、対して心のどこかではいつ終わるかわからないと不安になってしまったり、永遠を目指し、永劫を夢見、永久を望んだ――そんな藤羽は死んだ。
死んでしまった。
無残にも目の前で。
その醜態を晒して。
あたしが弱いせいで――
あたしが守れなかったせいで――
「ねぇ」
「ねぇ――」
「ねぇ、伊和里――」
「どうして」
「どうしてなの?」
「どうして私を見殺しにしたの?」
「私を見殺しにして、どうして伊和里はのうのうと生きているの?」
「伊和里なんか死んじゃえ」
「伊和里なんか大嫌い」
そんな言葉が伊和里の脳内に反響した。




