超越道中のイマジナリー
あたしは何をやっているんだろう――伊和里は味気ない手料理を食べながら、ふとそんなことを思う。
元々、味の濃い食べ物が好みでない伊和里だったが、急ごしらえで作った野菜炒めはいつも以上に味気のない、薄味どころか無味と言っても過言でないくらいだった。
味見をした時はいつもと同じ、いつも通りだったというのに、いざこうして口にしてみれば、全然おいしくない。
食べ物であるのに、野菜炒めという立派な料理であるのに、伊和里にはどうしてかそれが人間が食べる物として捉えることができなかった。
それもこれも、旨味が全くないからなのかもしれない。
「そうじゃなくて、きっと……」
あたしの舌が馬鹿になったんだろう、そんな風に伊和里は思い至った。
その理由ははっきりとしていた。
自覚し自認できるほど明確で、単純明快だった。
伊和里は憂馬のことが気掛かりで仕方なかったのである。
あんな別れ方をしてしまって、そして自分の気持ちを一切伝えることができず、あれほど居心地がよかった憂馬の隣を離れてしまったことに、伊和里は溜息を隠せなかった。
しかし、そこに何か思春期でよく見られるような色恋沙汰の感情があるわけではなく、伊和里にとって、純粋に彼の隣にいることが心地よかったのだった。
いや、実際はそうではなくて――それは建前みたいなもので、厳密に言ってしまえば、憂馬の隣にいることで得られる『自信』に依存していただけだった。
《通魔殺人鬼》としての道無 伊和里と、《伊和里ちゃん》としての道無 伊和里――その両者間をゆらゆらと浮遊し、それが故に苛まれ、悩まされた。
けれど、憂馬の隣にいることでそれでもいいのだと、さらに割り切ってもいいのだと、グレーでなく白黒はっきりさせてもいいのだと、そう理解させられた。
立ち直り方を教えてもらったかのように、伊和里は憂馬の姿を見て、『何か』を得たのは間違いなかった。
そして。
離れてしまえば。
別れてしまえば、また一人。
いつものように。
また一人ぼっち。
あの頃から、あたしはずっと一人ぼっちだ――伊和里は箸を持つことを止め、低い天井を見上げる。
「…………」
そうしている内に、自分はいつからこんな狂った世界で生きていただろうか、とふと疑問を抱く。
しかし、そんな自問をわざわざせずとも、伊和里には鮮明な記憶として脳内に刻まれた日付を覚えていた。
それは五年前。
五年前の、ちょうど今と同じ雪がちらつく季節だったろう。
伊和里が十三の頃、通っていた学校でクラスメートが屋上から飛び降りて死んだ。
鮮烈に強烈に、生々しく刻まれた記憶を想起してみれば、投身したクラスメートの小さな体躯はコンクリート地に打ち付けられた衝撃でばらばらに四散した。
その第一発見者であった伊和里は、突然目の前に現れた無残な死体に身が竦み、腰を抜かして唖然とした。
立つことも、身動きすることもままならず、果てには呼吸すら危うくなり、永遠と感じるほどの時間をその姿勢で過ごしたのだったが、経た時間は永遠とは程遠く、実際には数分後、異様を感じ取った教職員に介抱され、自宅へと帰されたのだった。
その職員に保健室でいくつか質問されたが、伊和里にはそれが言葉かどうかさえ理解できていなかった。
むしろ、言語かどうかさえ怪しかったし、わからなかった。
右から左へと突き抜ける単なる音――何の意味も持たない音としての認識しかなかったのである。
それも当然、十三歳の少女には強烈過ぎる光景だったに違いない。
その日の晩、伊和里は眠ることができなかった。
昼間に帰され、自室で何をするわけでもなくベッドに潜り込み、そのまま晩御飯も食べずに目を瞑ってみたけれど、一向に睡眠はできない。
糸が緊張したように神経が研ぎ澄まされていたのか、いつもでは聞こえるはずのない音が遠くの方から聞こえた。
走行車の騒音だったり、隣家の生活音だったり、窓の向こうからする人の声だったり――いつもなら気にならない音がやけに耳につく。
しかし、それは恐らく普段の日常生活で散々耳にしているはずの音なのだろうが、その時の伊和里はまるで身体全体が敏感な耳になったかのような感覚に陥っていた。
聴覚を経由して聴こえて来るのではなく、脳が直接それを聞いているようだった。
時計の針が大小共に天を指しても眠れない。
一時間過ぎても。
二時間過ぎても。
それでも眠ることができなかった。
夜はすっかりと更け、雑音が消失した次には耳鳴りが襲ってくる。
脳の中に音を埋め込まれたような、頭の中から聴こえて来る何とも表現し難い音は、伊和里の睡眠をさらに抑制した。
耳鳴りが止むことはない。
周囲は無音なはずなのに、どうしてか耳の奥の方――付け根よりもさらに奥の、頭蓋骨の中の方で痛みを伴う音が鳴っている。
いや、痛みではない――もはや、それが痛いのか痛くないのかさえ、伊和里にはわからない。
ノイズのような不快音から逃れようと布団を被り、頭を抱えてみたが収まらない。
頭を強く揺すってみても鳴り止まない。
耳たぶを引っ張ってみても鳴り続け、こめかみに拳を宛がってみても鮮明に聞こえ、耳を手で塞いでみても霞むことはなく、永遠に延々と静寂であるはずの夜中が有り得ないほどに騒がしかった。
そうすれば。
頭を抱えて布団に潜り込めば――自然と、あの時の光景が目に浮かんでしまう。
ばらばらになった死体を。
四散した身体を。
折れ曲がった体躯を。
潰れた頭部を。
裂けた腹部を。
飛び散った血液を。
真っ赤な血溜まりを――
醜く歪んだ、苦悶の表情を浮かべたままで固まってしまった――クラスメートの顔面を。
「あ……あ、ああ…………」
脳裏に焼きついたそれが剥がれることはない。
目に焼きついたそれが剥がれ落ちることはない。
深く刻まれたそれが剥離することはない。
夢なんかではなく、
日常とはほど遠い現実の、
しかしそれでいてある意味身近な現実の、
夢のような、
絵空事のような、
冗談で地獄のような――
「は、はは……ははは……」
布に包まって蛹になった伊和里から吐息が漏れる。
「はははっ、あはは……あはははははっ!」
自分自身、どうして笑っているのか伊和里は理解していない。
何もわかっていない。
何かをわかろうともしていない。
「あは、あははっ、ぎゃはははははははっ!」
伊和里は数枚重なった厚い布団を払い除け、ベッドから立ち上がる。
まるで羽化したかのように。
まるで蛹が成虫へと進化したかのように。
そんな風に高らかに笑いながら、伊和里は勢いよくベッドから飛び降りた。
その衝撃が膝に伝わるのを感じて、さらに笑みが零れる。
さらに下品な笑い声が漏れ出す。
「興奮した、あたしはすごく興奮した! あんなのこれから先もう二度と見れないかもしれない! あはははっ!」
「でも、でも!」
「今日の偶然の事故が、もし必然で、誰かに起こされた事故だったら――あははっ」
「あたしなら、あたしなら――」
伊和里の鼻歌はその日、早朝まで続いた。
翌日、授業を終え下校し、自宅の鍵を開け玄関に這入ると、そこには二つの死体があった。
一つは、まるで線香を立てたように、腹に突き刺さった包丁を天に向ける母親。
もう一つは、その母親に首を絞められている父親。
二人は折り重なるように、信愛するように――寄り添って死んでいた。
「…………」
しかし、眼球の半分が飛び出るほどに引ん剥いた両者の顔は決して安らかとは言えなかった。
その時、伊和里がつい吐いた溜息に、一体どんな意味があったのかは考えるまでもないことだった。