決死決別のディザスター
結局、憂馬が欲していた情報を、柳凪は持っていなかった。
いや、持っていたとしても守秘義務がある、と彼はそれを拒んだに違いない。
その点、医者らしいと言えばそうなのかもしれないが、憂馬は柳凪がどのような人物かを老人から聞いているので、そんな建前に溜息を吐くばかりだった。
柳凪もまたまともな医者ではないということを知っているからこそ、彼が何の情報も教えてくれないことに不服でならなかったのだ。
しかし、柳凪は縁の細い銀眼鏡のレンズを丁寧に拭きながら、失望の色を見せる憂馬に溜息混じりで言った。
「とは言ってもまぁ、君のような《異常者》に恩を売るのもいいかもしれないなぁ。医者として果たすべき義務なんてものはとうの昔に捨てたしね」
細長い足を組み、美麗な動作で眼鏡を仕上げた柳凪は満足そうにそれをかける。
曇りが消えたレンズの奥には切れ長の目がある――憂馬はその視線にある種の剣呑さを感じ取っていた。
物静かな雰囲気の裏側に隠れた『危なさ』――いや、『危うさ』のようなものをはっきりと感じる。
「貴船 憂香かぁ……彼女の所在については僕も詳しくは知らないんだよなぁ」
「はぁ」
「さすがに僕だって君たちが絡む厄介事には首を突っ込みたくないからなぁ。そこは勘弁して欲しいよねぇ」
柳凪は深く意を込めるように、でも、と一段声調を変えて続けた。
「彼女が今どこの『チーム』に属しているかくらいは知っているよ」
「ど、どこっすか!」
身を乗り出して迫る憂馬だったが、柳凪は邪険にそれをあしらった。
「まぁ、落ち着きなよ。確かに僕は彼女が所属しているであろう『チーム』を知っているけれど、しかしそれだけであって、彼女が今どこで何をしているかまでは知らないんだよなぁ」
「それでも構わねぇ……っす」
「うーん、そうだねぇ……教えてもいいけれど、君は一体それを知ってどうするつもりなんだい?」
「どうするって……」
「妹なんだっけ、その子」
「俺は両親を殺されたんですよ。その真相を知ってるかもしれねぇ」
「ふーん、妹が両親を殺した、のではなく?」
「その可能性も否定できねぇっす……」
「その時はどうするつもりなんだい?」
「…………」
思えば、憂馬は何も考えていなかった。
憂香の所在を確かめることに躍起になっていて、その後どうするか、ということまで考えが至っていなかった。
憂香を探して事件の情報を得る。
そのことだけが頭を巡っていたのだろう、憂香がまさにその親殺しの犯人だった場合のことなんて露ほど思ってもいなかった。
仮にそれが憂香でなかったのなら、その犯人を捜索して復讐でもすればいいけれど、仮にそれが憂香であったなら――その時はどうすればいいのだろう、と憂馬は柳凪の言葉に沈黙した。
沈黙せざるを得なかった。
目先のことだけに囚われていた自分がいたことを自覚して、先のことなど考えてもいなかった自分を自認して、そうすれば返す言葉が見つからない。
そもそも、返す言葉すらなかった。
「『深刻数字』、彼らが知っている」
柳凪は沈黙する憂馬に対して、端的にそう告げた。
シンプルに、単純明快に、しかしそれが故に、憂馬はその言葉が持つ重さを胸で感じた。
そして、やはり、と憂馬は思った。
町屋との会話を思い出してみればその可能性は十分にあった。
どうして彼がわざわざ憂馬のところまで出向いたのか、その回答は考えるまでもなく、憂香を餌にして釣るということだったのだろう。
「…………」
憂馬が浮かべる表情に活力は皆無であった。
可能性でしかなかった憂香の行方が確定し、安堵できるはずがなかった。
『深刻数字』にいるということは。
そこに所属しているということは。
そこで生きているということは。
――憂香が《異常者》として生きているということが断言できる。
断言できてしまう。
そして何より、憂馬が目の敵にしている町屋 鶯の『チーム』であり、敵だということ――それはつまり、憂香もまたそれに等しい存在になるかもしれないということ。
憂馬にとって、それが胸の内を痛めつけていた。
両親を殺した犯人が憂香でなかったにしろ、敵視している『チーム』に所属する《異常者》であることに変わらないということを考えるだけで、目の前が真っ白になりそうだった。
本当は今すぐにでも飛び出し、わけもわからず走り回って、手当たり次第に『深刻数字』を捜索して、戦って、殺して、憂香を見つけ当てたかった――けれど、そんなことができるほど強くない、むしろ自分がこの上なく弱いということが余計に惨めに思えた。
たった一人すら――伊和里ちゃんすら守れなかった俺が今すぐ駆け出しても返り討ちに遭うのが関の山だ、と憂馬はひどく自虐したい気分に陥っていた。
そうは言っても、
だからと言っても、
かと言っても、
この”世界”には泥沼に陥った弱者を救い上げる者など存在しない。
そんな者は存在しない中にも存在しない。
だから。
だからこそ――
「じゃ、あたしはこれで。もう二度と逢うこともないね」
道無 伊和里。
《異常者》として”異常”という名の日常を生き、平凡に恋焦がれ、憧れ、嫉妬と憎悪の狭間を浮遊する彼女は、ある程度自由になった身体を伸ばして、無表情に言う。
無表情であるものの、それに隠れたもの悲しい様子を憂馬は察知していた。
「あぁ……ごめん、伊和里ちゃん」
「なんで謝るの」
「え、いや……」
一方的な別れを切り出した憂馬であったが、内心は迷っていた。
これまでに度重なる危機を救い、協力してくれた伊和里とこんなにも呆気なく離別してもいいのだろうか、と自問していた。
「あんたにとって、あたしはもう必要ないってことでしょ。今更、謝られたってもう手遅れ」
「いや、そんなつもりで言ってるわけじゃねぇよ……ただこれ以上、俺の自分勝手な目的のために伊和里ちゃんを巻き込みたくないってだけで――」
廃れたビルディング、柳凪が開いた診療所の前で、憂馬と伊和里は互いに距離を開けて向かい合う。
伊和里の背後から覗かせる夕日により、彼女の表情は影になっていた。
「優しいんだね、あんた」
「…………」
「でも、その優しさは弱さに等しいよ。弱いからあたしを守れない、弱いから自分自身を守れない……そんなんじゃ、妹だって守れない」
「そう、かもな……」
伊和里との別れがこんなにも胸を苦しませるとは憂馬にとって思ってもいないことだった。
それも、今まで彼女にどれほどの世話をかけたかを自認しているからだった。
少なくとも、花孫の依頼は伊和里にとって何のメリットもなかっただろう、それなのに協力を惜しまず、自身の命を惜しまず、リスクを犯してまで付き合ってくれた恩を返さないままに決別することに、後悔と似た感情に駆られるのは必然とも言えた。
けれど、けれど。
だからこそ、憂馬はこれ以上の協力を依頼することなんてできなかった。
文句を言いながらも、利他の精神を発揮する伊和里を巻き込むことなんてできるはずがなかった。
「本当のことを言うと、希望さんからの依頼があったから、あんたの世話をしていた」
伊和里の穏やかな声調に憂馬はひどく感傷的になってしまう。
「けれど、あんたの側にいて、あたしは色々と気づかされることがあった。今まで自分と向き合わずに生きてきたこんなあたしでも、自分を受け入れることができた」
「…………」
「あたしはあんたのために戦ってきたわけじゃない。あたしはあたしでいるために戦ってきたつもり」
「俺のためじゃなく……」
「《通り魔殺人鬼》としてのあたしと《道無 伊和里》としてのあたし、どっちが本当の自分なのか、その答えはきっとあんたといれば見つかると思ってたから。別に最初からあんたのために戦ってるわけじゃない」
伊和里は踵を返して、憂馬に背を向ける。
「でも、依頼はもう終わり。まぁそんなことはすでにどうでもよかったんだけど……」
そのまま伊和里はゆっくりと歩みを進めて遠ざかった。
振り返ることはなく、それ以上のことは言うまでもなく、小さな背中を憂馬は沈黙して見送るしかなかった。
「伊和里ちゃ――」
憂馬が伸ばした手は届かない。
半歩にじり寄ったとしても、その血にまみれた手が届くことはなかった。
「ありがとう」
それから――
「死なないで」
そんな伊和里の小さな声が遥か彼方から聞こえたような気がした。
憂馬はその場で唇を噛み締めながら、震える拳を握るしかできなかった。




