混乱動乱のリアリティ
「――っ!!」
悪い夢でも見ていたかのような気分だった。
悪い夢に魘されていたような気分だった。
憂馬は瞬間的に脳を回復させて、上半身を起こした。
まるで仮死状態から復活するように、反射的に目を醒ました。
しかし、目覚めたはいいものの、それは脳の覚醒を意味していなく、憂馬の瞳は虚ろで意識も意図もそこには存在しなかった。
「…………」
上半身だけを起こした姿勢からどれくらい経過しただろうか――その間、憂馬は真っ白になった頭の中とは向き合わず、ただただじっと体勢を保っているだけだった。
その後、はっと意識を取り戻したのは額から流れ落ちた嫌にべとつく汗が手の甲に落ちた時である。
「……え、えっと」
衝撃的な光景を目の当たりにした人間は一時的に記憶を喪失することもあるらしいのだけれど、憂馬の場合はそうではなく、むしろまるで現実で起きたかのような悪夢の記憶が脳裏に焼きついて離れなかった。
そう。
それは実の両親が殺害された夢だった。
父さんは首を切断されて、母さんは関節が捻じ曲げられていて――
その後、俺は――
憂馬は悪夢を消し去るために頭を揺らした。
焦げ付いて離れない『黒』を直視することができなかったと言えば正しいけれど、しかし、彼にはまた違う意味での記憶の欠落があった。
違う意味。
憂馬は自分がベッドの上で寝ていたことを理解し、毛布と掛け布団を被っていたことを知る。
それを不思議に思い見渡せば、そこは自室でもなんでもなく、見覚えのない殺風景な一室だった。
箪笥などの収納家具は存在しない。
暗がりの中で最新ニュースを寂しく報じているテレビと冷蔵庫、キッチンと思われる場所からは水滴が一定のリズムを刻んで零れているようだった。
本棚も鏡台もない。
唯一の家具と言えば、今まさに憂馬が使用しているベッドと簡素なテーブルくらいである。
それはまさに最低限の一人暮らしをするためにあえてそうしたとしか思えないほど、何もない部屋だった。
その光景に、憂馬はまたしても呆然とした。
そして、過去回想。
記憶を辿る。
過去へと遡る。
「……父さんと母さんが――そんで、俺が――……夢、じゃなかったのか?」
独白して、自問自答。
まさか、と憂馬は思った。
まさかあんな非日常的で非現実的な光景がリアルだったなんて露ほど思えなかった。
リアリティの欠けたリアルに、憂馬は戸惑いを隠せなかった。
そしてもう一度、頭をさらに激しく左右に振る。
認めたくない、嘘だと信じたい、あれが現実であるはずがない――その思いと裏腹に、徐々に想起してくるのが、手に残った感触だった。
手に残った感覚だった。
何かを強く握り締め、何かに向けて強く振り下ろした衝撃が微かに残っていた。
それは。
それはつまり――
「夢、夢、だよな……」
心の声が漏れた瞬間、憂馬の横から鋭い声が聞こえた。
「夢なはずないじゃん、バっカじゃないの」
艶やかで艶やかな黒色の長髪。
見る者を一瞬で虜にするほどの滑らかな陶器のような肌。
繊細さの内側に透明感を有する、白色の素肌。
真っ白のキャンパスに際立って映えるのが血色のいい唇。
赤い、薄い唇。
目鼻立ちがはっきりとした――女の姿がそこにあった。
風呂上りだったのか衣服は身に着けておらず、下着姿のまま肌理の粗いバスタオルで髪を力強く乾かしている。
憂馬は声にならない驚きを覚えた後、せっかくの綺麗な黒髪が台無しになると、そんな余計なお世話に近い感想を抱いた。
それにしても、線が細い。
およそ同年代の女の子だろうが、贅肉は皆無である――しかし、そこには貧相という印象は含まれていなかった。
細いなりに、薄いなりに、引き締まっているのである。
細さの中にハリがあったのである。
目立った筋肉はなかったけれど、それでも矮躯とは言えない体格に憂馬は心なしか見蕩れていた。
「ほいっ」
と、黒髪の女は冷蔵庫を開けて、小さな一言を発しながら憂馬に向けて缶コーヒーを投げた。
それを受け取った様子を窺った後、彼女は風呂上りの一杯を楽しむ中年のようにコーヒーを一気に飲み干す。
容姿からは想像していなかった音を喉で鳴らし、加え飲み干した後に発した吐息はさながらオヤジだった。
こういった場合でも『ギャップ萌え』は当てはまるのだろうか――なんて、憂馬は心の中で密かに黒髪の彼女に幻滅したのだった。
缶コーヒーを飲み干した後、彼女は特に何か喋るわけでもなく、そそくさと衣服を身につけ、その上から花柄がプリントされたエプロンを着た。
そして後ろ手に髪を結い、黒髪のポニーテールの完成である。
さすがに鼻歌混じりではなかったけれど、どうやら彼女は料理をするようで、一人暮らし用の小さな冷蔵庫から食材を取り出して、包丁を握った。
とんとんとん、とリズムの良い小刻みな音が聞こえた。
フライパンを揺する音が聞こえた。
食材が加熱される音が聞こえた。
そして、たちまち仄かにいい香りが部屋を覆った。
「…………」
ごくり、憂馬はその香りにつられて生唾を飲み込んでしまう。
そう言えば、意識を失ってからどれくらい経過したのだろうか――あれが夢だったにしろ、そうでなかったにしろ、憂馬を襲う空腹は並大抵のものではなく、胃が活動を再開するかのように腹が鳴り止まない。
男子高校生とは言え、比較的小食な憂馬にとって初めての経験に近いそれは、どこか嬉しくも思えることだった。
あぁ、そうだ……と。
俺はちゃんと生きてるんだ、と。
空腹感に襲われただけでそんな風に思えるのだった。
片手を腹に、そこはかとなく『生』への実感が沸いたのを感じて、何気なくテレビに目をやって日付を確認すれば、昨日に起きた事件を取り上げたニュース番組が放送されていた。
ここで憂馬は自分が一日弱、二十四時間程度、意識を失っていたことを知ったのだが、それ以上に驚愕したことが――
《昨日、午後五時頃、市内のとある住宅において殺人事件が発生しました。被害者は二名で――》
映っているのは。
そこに映り込んでいるのは――見間違えようがないくらいに他ならぬ、憂馬自身の自宅だった。
父親と母親、一つ下の妹と家族四人で暮らしていたあの家だった。
「夢、じゃない……」
そう、夢なんかじゃない。
夢なんかじゃなかったのだ。
あれは夢でも何でもない、ただの現実。
首のない父親も、可動式フィギュアのような母親も――現実。
惑うことなき、紛れもない紛うことなき現実だった。
父親も母親も、殺されてしまったのだ。
妹も――
「…………」
憂馬はテレビに視線を遣ったまま、ふと思い返した。
直視したくない過去を、掘り出したくもない記憶を遡ってみれば、気付いたことがあった。
妹。
そう言えばあの時、妹はどこにいたのか――
すでに帰宅していたのか、自室に篭っていたのか、或いはまだ学校だったのか、どこかをそぞろ歩きでもしていたのかはわからないけれど――けれど、確かに言えることがあった。
一つだけ確かな記憶があった。
もはやすでに混乱して、信用できるほどの記憶ではないかもしれないし、自分の都合の良いように無意識の内に捏造している可能性もあり得るけれど、憂馬は一つだけ覚えていたことがあった。
町屋 鶯という奇怪な男との邂逅を経て、自宅に帰還し、鍵を回して扉を開け、玄関で靴を脱いだ――その時、憂馬は両親の履き古した靴の隣に並べられた黒の学生靴を視認していた。
妹の、黒のローファー。
そして、思い出した。
玄関横に設けられた下駄箱の戸が僅かに開いていたことも――
「い、妹――憂香は――」
憂馬は冷静さを欠いた自分を理解できないままにベッドから降りる。
降りようとしたところで、
「ほら、食べなよ」
と、脇から差し出された細い腕にそれは阻まれた。
エプロンと同様、花柄をあしらったプレートに載せられた皿――肉野菜炒めと思われる料理が目の前に出されたのだった。
その瞬間、憂馬は取り乱した自分を見つめなおし、ベッドに再び腰を下ろした。
人は空腹には勝てない、その現実をはっきりと突きつけられたような気分だった。
妹の憂香の心配より自分の空腹を満たすため、その優先順位をつけた自分に罪悪感を覚えてしまう。
それでも躊躇いを見せる憂馬に、黒髪の女は言う。
「何も食べてないんでしょ、味は保証できないけど、まぁ、十分食べられるから」
差し出された割り箸を受け取り、憂馬は恐る恐る一口。
「…………」
あぁ、と。
あぁ、こんなにもご飯がおいしく感じることなんて今まであっただろうか、と憂馬は感傷的になった。
「どう、おいしい?」
「あぁ、うん……」
憂馬の反応にくすっと微笑みを返す彼女。
その表情に一瞬見蕩れてしまった憂馬は、恥ずかしさを隠すためにも目の前の料理にかぶりついた。
「それさー」
女は言う。
黒髪の女は微笑みを消した無表情で言う。
「結構評判いいんだよ、肉がいいらいしいね、どーも」
「……ふぅん?」
「何の肉だと思う?」
「豚か、牛か……いや、鳥?」
憂馬は口一杯に放り込んだ肉野菜炒めを咀嚼しながら答えた。
「いや……――」
女は言う。
黒髪の女は微笑みを消した無表情で言う。
「それ、人の肉」
「…………………え?」
「ふふっ」
それを聞いた瞬間、まるで胃が捻じ切れるような感覚を覚えた憂馬は手のひらで口を抑えざるを得なかった。
まるでポンプのように働く胃の中から食べ物が逆流してくる。
嗚咽が止まらない。
口腔内から溢れる唾を飲み込んで必死に吐き気を抑えようとしたがそれはどうやら不可能に近かった。
「トイレ、あっち」
と、女が指差す方向に駆け出し、憂馬は便器に顔を突っ込んだ。
声にならない嗚咽。
声にならない嘔吐。
消化すらままならない状態で吐き出されたそれは、嘔吐物というより固形物に近く、びっくり人間がするような所業だった。
胃液だろう、粘膜に覆われた肉や野菜が口から飛び出していく。
鳴り止まない喉なりは余計に吐き気を煽って、涙が止まらない。
鼻水も垂れ流れ、口周りは涎か胃液だかわからない苦い液体に塗れ、全身の毛穴という穴の全てから衣服にべたつく嫌な汗を感じた。
もう、出ない。
食べた分は全て吐き出した。
けれど、それでもまだ吐き気はおさまらない。
嗚咽は止まらない。
ぐるぐると回る視界と同様に、絞り捻られたような胃はそれでも何かを吐き出そうとしている。
徐に、憂馬は自分の顔を触ってみた。
涎と胃液に塗れた顔面を確かめるように触ってみた。
「なんで、なんで――」
なんで俺は笑ってんだ。
憂馬の口角は嘔吐しながらも上がっていたのだった。
「あんたさー」
開けっ放しになったトイレの扉から声がする。
憂馬は反応し、便器に突っ込んだ顔を上げて振り返った。
「本当に《連続殺人鬼》?」
彼女の言葉の意味を、憂馬は何も理解することができなかった。
それでも、
それでも憂馬は、
「……はっ、へっ…………へへへっははははっ……」
自己制御が効かない不気味な笑顔で、
「人の肉って、案外うめぇんだな……」
そんなことを言ってみせるのだった。