予測不能のリビングデッド
「何だよ、伊和里ちゃん、そんなこと言いに来たのかよ」
「そんなことって……あたしはあんたを思っ――」
「かははっ、心配いらねぇよ。俺がそんなことで逃げ怯えるとでも思ったか? 生憎だけど、俺は俺で、俺なりの覚悟があるんだ。腹は括ってんだ」
伊和里の心配はむなしくも空をかいた。
憂馬は何も気にしていないような素振りをしていたが、実際、心境は穏やかではなかった。
しかし、七瀬 真草に殺されるかもしれないという恐怖を感じて乱れていたわけではなく、何の役にも立てずに負けてしまったことを酷く悩んでいた。
と言うのも、あれほど意気込んでいたにもかかわらず、惨敗し、さらには依頼主である花孫に救命される形で、初めて請け負った依頼を終えてしまったことにある種の後ろめたさを感じていたのだった。
ネガティブな思考とは対極的な人格を持つ憂馬であっても、あの敗戦を簡単に忘れて前を向くことなど到底できなかった。
易々と勝てる相手ではない、それは最初から承知していた。
都合よく何もかも上手くいくわけではない、それも最初から理解していた。
《放火狂人》との戦闘でさえ、最終的には伊和里の力を借りて勝利した――そして、今回は一対一の勝負で負けた。
それはつまり、憂馬が未だ一度も一人の力で誰にも勝っていないことを意味していた。
それが彼にとって、この上なく申し訳ない気持ちになると同時に、伊和里や依頼主に対して引け目を感じさせていたのだ。
《連続殺人鬼》と謳われようが、実際は何の力もない空っぽに過ぎない。
俺はまだまだ弱すぎる。
何もできずに、負けた――憂馬は己の無力さを呪った。
「あんたは弱い」
伊和里はそんな心境の憂馬を知ってか知らずか、単刀直入に言い放った。
「あんたは弱い、ゴミの役にも立たないゴミ。犬に食わすのさえ勿体無いと思えるほどのゴミ。ゴミの中のゴミ。いや、それだとゴミに失礼だから、あんたは埃や塵と同じだ。何の力もない、無力で非力で無能不能の存在だ」
伊和里は無表情に言った。
憂馬はまさかそこまで貶められるとは思ってもいなかったので、開いた口が塞がらなかった。
しかし、彼女が言うことは正しいと納得することもできた。
だから、何も言い返す言葉が見当たらなかった。
「けれど、あんたという存在は無二、唯一無二。確かに、あんたの《異常者》としての潜在能力は高いのかもしれないし、あたしなんかより遥かに優れているのかもしれない。けれど、そんな見えてもない才能や資質はないのと同じ。埋もれているのなら、ないのと同じ」
伊和里は続ける。
毒舌に拍車をかけるように続ける。
「でも、あんたの精神力だけは認める。あたしはあんたのそれが羨ましい――妬むほどに」
「……伊和里ちゃん?」
「あたしがあんたの立場だったなら、生きることさえ諦めてたかも」
「えっと、伊和里ちゃん……まさかとは思うけど、一応訊かせてくれないか」
「なに」
憂馬は上半身だけを起こしたベッドの上から、そっぽを向いてこちらに視線を合わせようともしない伊和里の横顔に言った。
「もしかして、俺のこと励ましてる?」
伊和里はそのまま沈黙した。
横顔から見て取れる、彼女の唇が少し尖った。
「不器用にもほどがあるだろ……」
憂馬は嘆息して、ギプスで固定されていない左腕を大きく上に挙げ、そのまま後頭部を抱くように回した。
伊和里ちゃんだって自分のことを情けないと思ってるはずなのに――と憂馬は考えた。
変な気を遣わせたのかもしれない、そう思うと余計に自分の存在がちっぽけで惨めに思えたったのだった。
「いつも助けられてばっかだな、俺は」
憂馬は独り言のように、遠い天井見つめる。
「……そんなことない」
「前回も今回も、伊和里ちゃんがいなかったら、俺は死んでるぜ」
「そうかもしれないけど、あたしだってあんたに助けられてる」
「……はっ?」
伊和里の意外な返答に憂馬は天井に遣った視線をすぐさま伊和里に戻したが、変わらずの様子で、明後日の方向を眺めていた。
その中で、伊和里の長い睫毛に見蕩れてしまっている自分を認識した憂馬もまた、そそくさと彼女から視線を外した。
「なんでもない」
「かははっ、そうかよ」
「笑うな殺すぞ」
「はい……」
お互いに重傷を背負っているせいか、普段通りの覇気ある会話のような言い合いはできなかったけれど、それでも確かに通じ合う何かが生まれた気がしたのは、憂馬だけなく伊和里も同様だったに違いない。
互いのことはよく知らない。
生まれも故郷も、どんな人生を歩んできたかも知らない。
知りたくないわけではないけれど、わざわざ相手の領域に足を踏み入れてまで訊くことではない。
けれど、今ならそんなたわいのないことも話し合ってもいいかもしれない――沈黙の中、二人は同じことを考えていた。
特に取り留めのない会話でもいいだろう、意味もなく駄弁るのもいいだろう、”この世界”のことだけではなく、人を殺すことだけではなく、未練と憧憬を置いてきた”あの世界”のような弁舌をしてみてもいいかもしれなかった。
憂馬は妹について話そうかと思っていたし、伊和里は過去に所属した『無名』の話題を出そうかと思っていた。
しかし、それが話されることはなかった。
なぜなら、
なぜなら――
「何だ、お前たち仲がよかったのか。それは結構結構、大いに結構だ。年頃の男女、そうなるのもまた必然であり人の性とも言えるな。まぁ、俺からして見れば、そんなものは世迷言だが――」
ノックもせず、当たり前のようにドアを引き、まるでここが自分の家だと言わんばかりの堂々とした態度で、しかしそれでいてどこか謙虚さが滲む線の細い体躯をした――『コンパス』のような男が這入った。
グレーのスーツに同色のコート、刺し色として添えられた胸元のハンカチ、薄っぺらい身体がより上背を強調させ、しかしそれが余計に彼の薄さを強めていた。
しかし、その存在は希薄ではない。
毅然とし、勇壮とした態度や仕草は彼の厳格さを助長しているかのようだった。
それに、少なくとも憂馬にとって、彼の存在は非常に大きいものだった。
希薄なわけなどない。
彼は――
「おっと失敬、名乗るのが遅れた。俺は町屋 鶯だ」
くつくつと何かを企むような悪い笑みを零す町屋は、憂馬と伊和里の驚愕した表情を見て満足そうに頷いた。
その表情を待っていた、と今にも言い出しそうだったが、痩せこけた滑らかな頬を撫でただけだった。
「ど、どうしてあんたがここにいるの」
伊和里は問う。
痛みを全身で感じながら、町屋と対峙して身構えた。
「まぁ待て、俺はお前たちとやり合うつもりで来たのではない。派手にやられたと聞いたから様子を窺いに来てやっただけだ」
「……ふん」
伊和里は唾を吐き捨てるように鼻で町屋をあしらう。
しかし、町屋は相手にせず、自分の言いたいことを淡々と語るだけだった。
「勿論、見舞いに来たわけではないがな。弱者相手にどれほど苦戦したのか拝みに来たというわけだ。まぁしかし、結果は俺が望むものではなかったらしい。俺はお前たちの絶望を拝見したかったのだが、さすがにあいつらではそれも叶わないか」
「町屋……鶯……」
憂馬は憎悪を漏らすような声で言う。
その剣呑な視線は町屋に突き刺さった。
「憂馬くん、久しぶりだな。元気そうで何よりだ、いや、辛うじて元気な様子か」
「あんた、あんた……」
憂馬は体を震えさせ、拳を握る。
今すぐにでも町屋を殺さんばかりの殺意だったが、言うことを聞かない体と葛藤しているようだった。
しかし、その思いは声になる。
怒りに狂った声になる。
「あんたが母さんを、父さんを殺したのか!? あんたがあの時、殺したのかよ!?」
町屋は憂馬の敵意や殺意、憎悪や遺恨など気にもせず、
「俺ではない」
と変わらずの口調で言った。
しかし、「だが」と続ける。
「間接的に関わっているのは確かだから、俺がやったと言っても過言ではない。勿論、直接俺が手を下したわけではないが、そうやって恨まれても同然かもしれんな」
「……あ、あんたを――殺す!」
「『あんたを殺す』ふん、殺せないよ、お前には」
「この怪我が治ったら、すぐにでもあんたを殺してやる」
町屋は嬉しそうにくつくつと再び笑った。
殺意を向けられても、存外、楽しそうだった。
「憂馬くん、あれをやった犯人を知りたくはないか。知りたいのなら教えてやるが、俺が殺されるとなればそれも教えることができんな」
「は、は……」
憂馬は突然の投げ掛けに驚きを隠せなかった。
「本当はわかっているのではないか? 『あれ』をやった犯人が――」
「ゆ、憂香なのか……?」
「くっくっくっ、そいつが今どこにいるか、何をしているのか、知りたくはないか?」
「教えてくれ! 憂香はどこにいるんだよ!」
「ちょっ、あんた、口車に乗せられるな」
憂馬の藁にも縋るような口ぶりに、伊和里はそれを制した。
それは、町屋がどんな人物なのかを知った上でのことだった。
町屋 鶯――彼が何の条件もなく、美味い話を持ってくるわけがない、伊和里にはそう思えてならなかった。
「『口車に乗せられるな』ふん、だがしかし、嘘ではない。はっきり言ってやろう、俺はお前の妹がどこにいて何をしているのを知っている。あいつのことは全て知っている。どうしてあんなことをしたのか、あれからどうなったのか――俺はそれを知っている」
「あんた、どういうつもり……」
伊和里は問うた。
臨戦態勢は解いていない。
「単調直入に言おう。そいつを知りたければ、『深刻数字』に参画しろ」
「なっ……」
驚きの声の主は伊和里だった。
「そうすればお前の妹のことを教えてやる。それに、お前たちが命を狙われることもなくなる。七瀬には俺からそう伝えてあるからな」
町屋は続けた。
己の立場を理解し、理解させるような調子だった。
まるで自分が上かと言わんばかりに、まるでお前たちが下であると言わんばかりに。
「道無 伊和里、お前もだ。そうすればお前の大切な『友人』が傷つかずに済む。それに俺はお前のことをこの上なく気に入っている。好きに等しい」
「なっ……」
次、驚きの声の主は憂馬だった。
「ロリコンかよ、あんた……」
「あたしはロリじゃない!」、そんな突っ込みが普段ならば聞こえてくるはずであったが、場合が場合ということもあり、伊和里は何も発しなかった。
「今すぐに答えを出せとは言わんが、少なくとも、七瀬に殺される前に決めておけ。あいつを鎖で繋ぐのも限界がある。いや、七瀬だけではない、幟荻もまたお前たちのことを気にしているみたいだからな、くっくっくっ」
「…………」
憂馬と伊和里はそれ以上何も言うことができなかった。
町屋の圧倒感と気迫に押されてしまい、口を開くことができなかった。
町屋 鶯――飄々としているが、その存在感は絶対的だった。
希薄どころではない、『気迫』そのものだった。
一瞬にして場を支配し、自らのペースに持ち込んでいた町屋もまたそれ以上何かを言うわけでもなく、踵を返し、堂々と二人に背中を向けて去って行く。
去り際、ドアに手をかけてところで、
「貴船 憂香、あいつはもうすでに覚悟している。お前はいつまでそんな底辺をうろうろしているのだ。俺たちは蟻ではない、人だ」
鼻につく笑みを浮かべながら、言いたいことを言って去った町屋の背中を見送った憂馬と伊和里は、妙な静けさを感じながら、複雑に掻き混ぜられてしまった心境を整理できず、ただただ唖然とするだけだった。
「あいつ、ロリコンだったのかよ……」
ぼそっ。
憂馬が呟いた言葉など、伊和里には聞こえるはずがなかった。