起床天血のノースケアード
「痛っ……」
先に目を覚ましたのは伊和里であった。
全身に激しい痛みを感じ、どうやら寝返りで目覚めたらしい、と彼女は知る。
血が染みたシャツと手のひらを厚く覆う包帯を見るに、誰かが治療して運んでくれたのだろう――伊和里は重くなった体で溜息を吐き、起き上がった。
そして、そこが自分の部屋ではなく、見たことのない一室であることを理解する。
「…………」
簡易ベッド、点滴パック、慎ましい医療器具――そこは病室だった。
しかし、そこに清楚清潔という印象はなく、埃と汚れが目立つ急ごしらえで作ったような病室だった。
それが一般的な病院の一室ではないことを確信し、今にでも落ち崩れそうな天井を見上げ、伊和里は再度溜息を吐く。
溜息しかでなかった。
体を少しでも動かせば激痛を感じるし、何より、ずっしり重くなってしまったそれで動こうとする気すら起きなかったのだ。
伊和里はベッドの上で上半身だけを何とか起こし、変えられたばかりであろう真っ白な包帯が包む手のひらを見つめる。
そうすれば、自然とまた痛みを感じてしまうのも必然だった。
そして、自身の弱さを痛感するのも当然だった。
あたしは弱い、と胸が苦しくなるのも自然だった。
しかし、伊和里は決して弱いわけではないし、戦った夜子もまた同じくらい強かった――けれど、本人はもっと圧倒的な力量と技量を持ってして蹴散らすつもりだったので、自身が思い描いた戦闘と実際の戦闘との差異が余計に情けなく思えたのだった。
こんなにもボロボロになるなんて、あたしは弱いなぁ。
伊和里が自分の力を過信していたわけではない。
実際、朝子と夜子の強さを目の当たりにして、容易く勝てるとは思わなかった。
しかし、それにしても無様だと思えるのは、憂馬を助けるどころかフォローすらできなかった、きっとそのせいなのだろう。
自分で精一杯だった。
自分のことしか考えていなかった。
目の前の相手だけで一杯一杯だった――それが伊和里にとって悔しかった。
憂馬があそこまで簡単にやられたことについては誤算だし、彼自身がいきがっていた以上、むしろ驚き以外の他になかったけれど、それにしても気にかける余裕すらなかったのだ、後悔の念はやはり消えない。
加え、あの時の戦闘を思い出しても後悔はやはりしてしまう。
闇雲に攻撃して、短刀を振り回して、致命傷を貰う――自分で笑えてしまうほどに滑稽で哀れだった。
「あたしは負けた、あんなの勝ちなんて言えない」
自身を否定するかのように、
後悔の念をさらに積み上げるように、伊和里は独白する。
三度目の溜息を吐こうとしたところで、ドアが薄っぺらい音を立てて叩かれた。
「お邪魔するわよッ」
寒気がするような音色と共に現れたのは、いつもと同じ奇妙で奇抜な身なりをした希望だった。
《依頼主》――空乃 希望だった。
「ご無沙汰してます、希望さん」
相変わらずの無愛想な挨拶に、希望は少し微笑んだ。
そのまま中に這入り、ベッドの横に置かれた、希望が座るには心もとない細いパイプ椅子に腰をかける。
伊和里は無様な醜態を晒してしまったことからそれ以上何も言うことはなく、ただじっと正面の汚れが染みた壁を見つめる。
希望もまた彼女の思いを察しているのか、投げ掛ける言葉を探しているようだった。
依頼主と請負人、ただそれだけの関係ではなく、二人は互いのことをすでによく知っているからこそ、余計に何も言えなかった。
しかし、こうなれば伊和里がてこでも口を開かないということを希望は知っている。
希望は語りかける言葉など、最初から考えていなかった。
「存外、派手にやられたわねぇ……」
傷口に塩を塗るかのような発言をした希望だったが、伊和里はその言葉を聞いて少し戸惑った様子を見せた後、ふっ、と鼻で笑った。
「希望さん、あなたはいつもらしいですね」
「……らしいッ?」
「いつ見ても希望さんは希望さん、ということです。あたしはいつも自分が一体何なのかで悩んでいるのに」
「なによッ、悩み事? それともアタシをバカにしてるのッ?」
「ふふ、まさか」
辛うじて見せた笑顔だったが、少し安堵した希望はいつもの調子で言う。
しかし、まさか伊和里がここまで憔悴しているとは思ってもいなかった希望は、余計な気遣いをさせまいと明るさを振舞った。
伊和里もまたそれを感じ取り、妙な明るさについては何も言わない。
そんな配慮をされるなんて、きっと今のあたしの顔はとんでもなく不細工なんだろうな、と伊和里は測り知る。
「お見舞い、というわけではナイのよッ」
「知ってますよ、それくらい」
気の抜けた笑みを零す伊和里に、希望は負けじと続けた。
「とりあえず、事後報告させてちょうだい。宵 夜子、朝子は死んだわッ。それと、赤ヶ坂 行方と花孫 和花にはお礼をしておきなさいよッ」
「どうしてですか、あたしたちが感謝される側なんですけど」
「アナタをここまで運んでくれたんだから、そういうこと言わないのッ! 応急処置がなかったら、今頃失血死よッ!」
伊和里がぐう、と押し黙ったのを見て、希望は微笑ましく思った。
しかし、次の言葉を発する希望の表情は一瞬にして強張った。
先ほどまでに浮かべていた柔らかい微笑は失われていた。
「それと……」
希望は神妙な面持ちで言う。
「戦闘の後、それを見ていた者が一人いたわ――」
「……?」
伊和里は不思議に首を傾げた。
希望の表情から妙な違和感と悪い予感を覚えたのは言うまでもなかった。
「見ていた……誰がですか」
「《殺人鬼殺人》七瀬 真草」
「――――っ!?」
声にならない声で目を見開く伊和里に、希望は落ち着くようにと語りかける。
その名前は、
その通り名は、
忘れるはずのない、『敵』の名前だった。
七瀬 真草――過去に殺し合った中で、伊和里が勝てなかった相手の内の一人。
そして何より、過去に伊和里の友人を殺した仇であった。
伊和里は何もずっと一人で”異常”を生き抜いてきたわけではなく、彼女はかつて『無名』というチームに属していた。
その中で、唯一、友人と言える《異常者》がいた。
その彼女を殺した――七瀬 真草。
しかし、敵討ちがなされることはなく、伊和里は真草に退けられたのだった。
「七瀬 真草……今度の標的はあいつ……」
「そうかもしれないわねぇ」
あいつ、という呼び名で希望も理解していた。
それが意味するのは、貴船 憂馬だった。
そう思えば、伊和里は体が震えてしまっていた。
七瀬 真草がこれから行おうとしていることを予期して、戦慄せざるを得なかった。
そう。
あの時と同じように。
あの時、友人を殺された時と同じように。
あたしの友人をことごとく奪っていくつもりだ――伊和里にはそう思えてならなかったのである。
「これだからあたしは……」
と、伊和里は力なく俯いた。
『無名』が解体され、潰れた後でも彼女がどこか別の『チーム』に所属することはなかった。
ましてや、友人を作るわけでもなく、その時から一人で生き抜いてきた。
哀れに逃げながら、隠れながら、生き抜いてきた。
しかし、伊和里がこれまで生き延びてこれたのも、七瀬 真草との戦闘のおかげとも言えた。
彼と引き分けたことにより、伊和里が只者ではないということを知らしめたのである。
その結果、命を狙う輩は減り、また自然と危険性は少なくなっていた。
今まで『チーム』に属さず、友人の一人も作らず、孤独に戦ってきたのも、全ては奪われることを避けるためだった。
こうして、自分の大切とも言える人を巻き込みたくなかったからだった。
そして何より、失った時の悲しみを二度と味わいたくなかった。
しかし、友人を亡くすのは辛いから――実際はそうでなく、感傷的になってしまった自分が酷く脆く、弱々しいことを経験して知っていたからだった。
これ以上、自分の惨めさと向き合うことができない、伊和里にはそう思えてならなかった。
だからこそ、抱えるものは少ない方がマシで、重荷も軽いことに越したことはないと考えていたからこそ、孤高にして孤独を維持してきたのだ。
けれど、それもいつしか破綻していた。
いつの間にか、伊和里の側には憂馬がいた。
そして気付かぬ間に、伊和里の心には憂馬が住み着いていた。
あの時に味わった悲しみや辛さ、悔やみや憎しみを伊和里が忘れていたわけではないけれど、憂馬はそんなことなど気にもせず、気付かないまま内側に足を踏み入れていた。
それに気付かなかったのは、憂馬ではなく伊和里の方だったのかもしれない。
そう。
拒絶しても尚、殺そうとしても尚、憂馬がいつしか隣にいて当たり前になってしまっていることに、気付かなかっただけだった。
あたしのせいで、また友人が殺される。
伊和里はそんな後ろ向きな思考を余儀なくされる。
「憂馬くんなら大丈夫じゃないかしらッ」
希望はどんどん暗い面持ちになる伊和里を見て、穏やかな声調で言った。
「きっと、憂馬くんなら《殺人鬼殺人》なんかに負けないでしょッ」
「希望さん、七瀬 真草はあたしなんかより全然強いですよ。絶対にあいつじゃ勝てない」
「そうかしらァ……なら、アナタたち二人で勝ちなさいよッ」
「えっ……?」
伊和里は思ってもいなかった希望の発言に小さく声を上げた。
「別に憂馬くん一人で正面勝負しなくてもいいじゃないッ! アナタも手伝ってあげれば、ねッ?」
「…………」
確かに、その通りだ、と伊和里は考える。
一対一の真剣勝負に拘らずとも、卑怯な戦法で姑息に戦って、醜くとも勝てばそれで済むことだった。
「それにきっと、憂馬くんは自分が狙われているかもしれないってこと、全然気にしないと思うわよッ?」
「ふふっ、そうですね」
かもしれませんね、と伊和里は淑やかに笑った。
知的で大人しい印象を与える容姿とマッチした、伊和里にしては珍しい笑顔だった。
「あいつは?」
「もう起きてるわよ、行ってらっしゃい」
希望はわかったように催促した。
そして、慣れた手つきで点滴パックに繋がれた針を抜いた。
これで伊和里は自由に体を動かすことはできたが、まだまだ癒えていない傷は酷く痛んだ。
それでも、歯を食いしばりながらも、伊和里は地に足をつける。
「希望さん、ありがとうございました。行ってきます」
思い通りにならない体で浅く頭を下げた伊和里は逸る気持ちを抑えながら、希望に教えてもらった憂馬の病室へと急いだ。
「憂馬くんとなら、アナタに怖いモノなんてないでしょッ」
希望は揺らめく小さな背中を見送った後、誰もいない一室でそう呟いた。




