呪術奇術のストロードール
憂馬は表情を激変させた様子の朝子に一瞬の戸惑いを覚えた。
まさか、泣き叫ぶように声を上げるとは思ってもいなかったし、しとやかな印象を持つ彼女が怒りに任せた挙動をするとも想像だにしていなかったことだった。
朝子は乱暴に、横暴に、まるで人を痛めつけるかのような暴力性と遺恨を感じさせながら、握り締めていた藁人形を引き千切っていた。
動物の皮を剥ぐが如く藁をむしり取る朝子の表情は、誰がどう見ても狂っていた。
首と手足の関節部分で絞められた麻糸さえも千切れ、もはや人形はそれの形をなしていない。
腹部からは内臓が飛び出たように刺々しい藁が外側に向かって剥き出て、片腕は落ち、両足は有り得ないほどに捻れ、本来ならば不可動域であるはずの地点で停止している。
「……はぁ、はぁ…………」
ぽとり、と。
微かな音を立てて地に落ちたのは頭部だった。
いや、もはや頭部としての形を保っていないそれは、よくわからない藁の塊に過ぎなかった。
解け落ちた藁の塊は、枯葉や落ち葉と一緒に軽やかな風に攫われた。
その様子を無言で見つめていた憂馬は心のどこかで朝子のことを哀れんでいただろう。
しかし、少なくとも同情をしているわけではなかった。
ただ、朝子の姿が妙に悲しく、可哀相に思えたのだった。
「お兄さん……ねぇお兄さん、この藁人形はお兄さんの将来を示すものなんだよ。近くない未来、お兄さんはきっとこうやって死ぬよ」
「何を言ってんだ……?」
憂馬は目を細める。
「もうすでに遅い、遅すぎるよ。今更何をしたって無駄だよ。お兄さんの体はすでに『これ』と一体化してる」
朝子は装束の懐からまた新たな藁人形を取り出し、乱雑に握って示した。
憂馬には彼女が何を言っているのか、微塵も理解していなかった。
「ははっ、朝子ちゃん、まさかその人形で俺を殺そうとしてるのか? それってつまり、本当に俺とお遊戯がしたってことか? わかんねーけど、そんなので俺が――」
憂馬は余裕綽々だった。
まさか、殺し合いにおいて人形が用いられるなんて思ってもいなかったし、笑い話にしてもいささか面白味に欠けると、鼻で笑っていた。
しかし。
それも一瞬。
余裕の笑みは一瞬にして消え去る。
余裕の笑みは刹那、曇る。
「《奇術殺人》、『五寸釘』」
朝子は怒り狂った歪な表情で釘を藁人形に刺す。
右腕の中心――丁度、肘に当たる位置に太い釘を打ち込んだ。
どすっ、と一発。
「……っ、が…………!?」
何も憂馬が油断していたわけではない。
確かに余裕はあっただろうが、決して気を抜いていたわけでもないし、弛んでいたわけでもない。
朝子の動作に注意して、集中して、不測の事態に対応するべく体勢を保っていたのだ、それは正しく、間違いではない。
しかし。
不測の事態を予期していたところで、まさかこのような『不測』が起こるとは想像だにしていなかったことだった。
見れば、憂馬の右腕――釘を刺された藁人形と同じ箇所からおびただしいほどの出血があった。
そして、一瞬にして意識が遠のきそうになるほどの激痛。
「な、ど……ぐっ…………」
憂馬は右手に握っていた黒い柄のアーミーナイフを落とす。
身体の末端から末端まで走る電気のような痛みに耐え切れず、右手は機能を放棄していた。
動かそうにも、脳がそれを拒絶していた。
右手が命令を無視するかのように、握力は失われていた。
今まで経験したことのない苦痛に憂馬はその場で膝をつく。
辛うじて意識は保たれていたが、身体の危機を反射的に脳が感じ取っていた。
まるで全身から血が吹き出たかのように滲む嫌な汗が、憂馬の冷静さをさらに損なわせた。
「どう、お兄さん、これが相手に触れることのない殺人だよ。この人形はお兄さんの体そのもの――折るに容易く、切るに手軽く、潰すにたわいない」
朝子は苦悶の表情を浮かべる憂馬を見てご満悦の様子で、憎悪と愉悦が混ざった陰のある微笑みを向けた。
「呪い、って知ってる?」
憂馬にゆっくりと近づきながら、朝子は問う。
「お兄さんは、ボクに呪われちゃったんだよ」
「呪い……?」
すでに憂馬の右袖は血液で滴っていた。
ぽたぽた、と地に赤い斑点を描いている。
「今時、そんな霊的殺人があるかって思うよね? でも、あるんだよ、確かにあるんだよ。だって、ボクは《異常者》なんだから。《奇術殺人》宵 朝子なんだから――あれ、お兄さん、もしかして納得してない、できてない? 呪いのこと、本当に信じてない?」
「信じるわけねぇだろ……」
「ふぅん……」
朝子は反骨精神を見せる憂馬を嘲るように、鼻で相槌を打った。
「じゃぁ、これでも、信じない?」
五寸釘を打ち込まれた人形の右腕。
朝子はその右腕を――
「が、ぎ、ぎやあぁあぁぁぁぁっああぁぁっぁぎあっぁぁぁぁあぁぁぁっぁぁ!」
人間であるならば絶対的に可動しない域――関節の部分から直角に後方へと折り曲げたのだった。
それは必然的に、憂馬の右腕も同様、有り得ない方向へと折り曲げることを意味していた。
「……あぁ、がぁぁぁぁっ……ぐ、が、あぁ……」
「ほほほほほほほほっ! ひひひひひっ!」
憂馬の意識が遠のく。
途絶える。
間断する。
断続する。
意識と意識の、
間が、
徐々に徐々に、
とお
のいて――
意し
識が
あ、これは
やば
「ひひひひっ、《連続殺人鬼》、所詮は名前だけのド素人だよ! ボクがこんなやつに負けるはずがない! 偽物の赤眼に殺されるはずがない! ほほほほほっ!」
朝子は笑った。
奇妙な笑い方で、快活に活発に、有象無象を吹き飛ばすかのように声を上げた。
赤眼の憂馬を倒したことで、これでようやく自分も赤眼を手にすることができるかもしれない、と興奮したのだろう、朝子は高らかに勝利を誇るように声を大にした。
そして、そのまま視線を横に遣る。
動く気配のない血を流した人形から、真横へ――そこには二人の影が重なるようにして倒れていた。
血まみれの二人が重なって倒れていた。
上に伊和里。
下に夜子。
両者とも、生気は感じられなかった。
いや――
「え……」
朝子はぽつりと声をあげた。
無意識の内に漏れた声だった。
そして、呆気に取られた表情は次第に歪む。
理解し難い状況を目の当たりにして、頬が引き攣る。
僅かに動いた気配があった。
僅かに体を起こした姿があった。
微かな生気を保った者がそこにいた。
微かにも血気を維持した者がそこにいた。
「よ、夜子……?」
朝子はまさか夜子が負けるとは思ってもいなかった――いや、信頼こそしていたが、相手が伊和里ということもあり、僅かにでも負けるかもしれないと心のどこかで考えていた。
しかし、夜子の実力をよく知る朝子はそれを信じて止まなかったし、たとえ負傷することがあろうとも、殺されることはないだろうと疑わなかった。
だから、彼女が起き上がった時、信頼するパートナーの生還を確信した。
折り重なる二つの影の一つ、それが夜子であると心の底から信じていた。
疑いなど微塵もなく、気にする些細なことなど何一つなく、起き上がるそれが夜子以外の何者かであるかどうかなんて、露ほど考えていなかった。
考えていなかったのだ。
考えていなかったのに。
「な、なんで……どうして……」
まるでスロー再生した動画のような速度で体を起こしたのは、折り重なった影の上――紛れもなく、伊和里だった。
朝子は影が分離したことにより、夜子が未だ地に伏したままであるとはっきりと認識することができた。
いや、認識するまでもない――最初から、心の隅ではそれが夜子ではないということを理解していた。
理解してはいたけれど、簡単に許容することなど到底不可能だった。
だから。
「あぁぁぁぁぁ……っ!」
朝子は叫んだ。
これこそ号哭と言わんばかりに泣き叫んだ。
それこそ、年相応の子供のように。
双子で。
相愛で。
二人で一人で。
二つで一つで。
息と域を共にしてきた朝子と夜子。
生と死を共有してきた彼女ら。
離れることなどなく、離れるはずなどなく、別れるもなく、ましてや死別するなど有り得てはならず、共に生き共に死ぬことを誓い、先天性を有する《異常者》に劣等を感じながらも二足歩行で道を行き、逸脱しながらも支え合い、助け合い、互いが信じるものを互いが信じ、絶対的な信頼と相対的な信用を置きながら励み合い、”異常”に折り合いをつけ、正当化し、間違いだとしても受け入れそれが正しいと願い、どれだけ毒されようと、どれだけ侵されようと、どれだけ感化されようと、どれだけ悪に染まろうと、自分が自分であり、自分が確かにここに存在しているということを互いに認識し、心を通わせた――《瞬間殺人》と《奇術殺人》。
その片割れ。
宵 夜子は、朝子の幼い泣き声が響く中で死んだ。
死んでいった。
「この……殺人鬼……っ!!」
しかし、心は常に共にある――朝子はそう信じて疑わなかった。
せめてもの報いを、
せめてもの償いを、
せめてもの手向けを、
せめてもの報復を、
復讐を――
「――あぁぁぁっぁぁっ!!」
朝子は駆け出していた。
自身の右腕を庇いながら駆けていた。
視線の先には起き上がった一つの影がある。
ふらふらと千鳥足でやっとの思いで立っているであろう伊和里の姿がある。
もはや、藁人形を用いて呪い殺す暇などない。
そんな余裕などどこにもない。
自分の殺人スタイルなどどうでもいい。
それすらも放棄したくなるほど、今すぐにでもこいつを、こいつを――朝子は憎しみを咆哮に変え、懐刀を左に握りながら突き抜けて行く。
伊和里は朝子を見ようともしない。
意識が薄れいているのか、それとも見るまでもないのか、そんな疑問を抱くことさえないほど朝子は冷静さを失っていた。
咆哮に気付いた伊和里はちらりと朝子を横目で視認した。
「……ふっ」
虚ろな瞳のまま、伊和里は微かに鼻で笑った。
そして、視線を再び動かない夜子の方へと戻し、震える腕を伸ばして短刀を拾い上げる。
さすがの伊和里も、自分の危機的状況を理解していた。
この身でどこまで戦えるのか、自分ですらわからなかった。
しかし、相手が不得手とするであろう接近戦で勝負を挑んできたのなら勝算はある――加え、冷静さを失い知慮に欠けた相手ならば、容易く殺すこともできるだろうと考えていた。
立っていることすらままならないと言うのに、伊和里は何かに突き動かされるが如く、戦闘態勢に入る。
暴力しか知らない獣のように。
暴力という牙を剥き出す獣のように。
獲物を見つめる瞳。
しかし、そこに赤色の灯火はなかった。
「死ねぇぇぇぇぇっ! 殺人鬼!」
「……死ぬのは、あんたの方」
ずさり。
刺し違えるように、二人は交差した。
交錯して、違った。
一瞬だった。
そして、それだけで十分だった。
決着を着けるのはその刹那だけで十二分だった。
「あたしの道の上に、立つな」
伊和里の足元で安らかな表情をしている夜子の側に寄り添うように――まるで添い寝をしておやすみを言うように、朝子は倒れた。
「あぁ……夜子、こんなにも、近いのに……遠いんだね」
朝子の言葉に血が混ざる。
そして、捨てたはずの心もまた混ざっていた。
「おやすみ、夜子……明日にはおはようを言うね……」
朝子の伸ばされた手が、夜子の手に届くことはなかった。