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パラダイス・ロスト  作者: 三番茶屋
EpⅡ Paradigm Lost
22/44

 危機理論のイグゼンプリファイ

 辿り着いたのは暗い夜の、黒く深い海が見える海岸だった。

辺りには何もなく、まるで常夜の世界のような、絶望と失望だけが残滓(ざんし)する浜辺だった。

その”黒い世界”に反する白い砂場は、目が眩むほどに輝いていて、直視するには難しい。

 伊和里は虚ろな意識の中で、ここはどこだろう、と考えた。

 うつ伏せになった状態から立ち上がり、自分がどうやら海をたゆいたい、わけのわからない場に流れ着いたことを伊和里は知った。


「…………」


 穏やかで静かな波音がやけに心地いい。

その心地よさがいつの間にか伊和里を”日常”に帰還させていた。

薄汚れた体内の(けが)れが浄化されていく気分だった。

 この黒い世界には、伊和里が生きる”異常”の気配すらない。

危機感を覚えることも、何か見えないものに危惧することも、自身の未来を懸念することもしなくて済むような、それほどの静寂が伊和里を包んでいた。

誰かに殺される心配はいらないし、誰かを殺すようなこともしないでいい――それこそが、彼女がいつも憧れ恋焦がれてきた”日常”だったのだろう。

 しかし、どこをどう間違ってか、それは呆気なく崩れ落ち、破綻してしまった。

どんな経緯を辿り、どんな契機があってそうなったのかを伊和里はわかっていなかったが、少なくとも、自分が後天的ではなく先天性を持った《異常者》であることを認識していた。

 だから、”日常”を捨てざるを得なかった。

 だから、”日常”への未練を捨てきれずにいた。

 今では割り切ることも覚えた伊和里だけれど、そんな一般的で平凡な、凡俗と言ってもいいくらいの幸福な”日常”を目の当たりにすると、どうしても感傷的になってしまった。

センチメンタルと言えば、まるで女の子らしい感情だろうが、その裏に隠れた嫉妬心はどうしても否めなかった。

 どうしてあたしだけ、

 どうしてあたしだけ、とどれほど自分の運命を呪ったろう。

 どれほど自分に嫌悪しただろう。

 けれど、それでも《異常者》として”異常”を生きなければならない現実は待ってくれない。

たとえ割り切れずとも、たとえ自認できずとも、ただ目の前の道を真っ直ぐ歩む以外に生き残る術はなかった。

だからこそ、殺されそうになれば相手を殺したし、殺したくなったら相手を殺した。

 まるで”異常”を否定し”日常”に憧憬を抱く自分と、《異常者》として――《通り魔殺人鬼(ノープラン)》としての自分の二人が存在するようだった。

生きるためには、生き残るためにはもう一人の自分を心の最奥に押し殺さなくてはならない――そんなことは言われるまでもなく理解していたが、伊和里はやはり苦悩して苦悶したのだった。


 実のところ、そんな悩みや不安が払拭されたのはつい最近のことだった。

 もっと言えば、貴船 憂馬という、伊和里と似た境遇の先天性を持つ《異常者》と出会ってからだった。


 彼は後悔しなかった。

 彼は未練など一切捨てていた。

 彼は突然の不幸を嘆いたりしなかった。

 彼は突如自身に降りかかった悲劇を憎んだりしなかった。

 彼は隠れていた自分の本性を呪ったりしなかった。

 彼はその本性すらも自分自身だと堂々と胸を張らんばかりだった。

 何より、彼は《異常者》としての自分を心底認めていた。


 しかし、きっと憂馬にも葛藤することがあっただろう。

だが、それは心の中でぐっと押し堪えて、《異常者》であるならば――《連続殺人鬼(シリアルキラー)》であるならば”異常”を生きるしかない、と割り切ることに必死だったに違いない。

 それは伊和里にとって、少なくとも簡単にできることではなかったし、容易くやってのける憂馬がそこはかとなく輝いているように見えたのだった。

こんなにも醜く黒ずんだ狂った世界の中で、憂馬の姿が一際眩しく見えたのだった。


「あたしの中には二人の自分がいる――」


 それはそれでいいことなのかもしれない。

 たとえ否定的な自分がいようが、殺意に塗れた自分がいようが、それはそれでいいことなのかもしれない。


「あたしは、あたしだ……」


 伊和里は呟く。

 誰もいない、誰にも聞こえない浜辺で黒い天を見上げながら独白する。


「けれど、けれど――」


 そう――けれど。

 けれど、今自分がいるここは”日常”のそれではない。

 だからこそ、二人の自分の存在を認めながらもやらねばならないことがある。

 たとえもう一人の自分を殺すことになったとしても、後戻りすることすら許されない”異常”を生きる《異常者》として、ここで道を無くすわけにはいかない。


 道無 伊和里。


 その名が持つ意味を、あたしは理解しなくてはいけない――伊和里は強い眼差しを正面に戻し、深呼吸をした。

 強い自分であるために。

 強い自分であり続けるために。

 何より、”異常”を生きる《通り魔殺人鬼(ノープラン)》であるために。


 この先の道を歩むためにも。



「あたしは今日、もう一人のあたしを殺そう」


 そう言って。

 伊和里は歩き出す。

 (わだち)のない、真っ白な砂浜を歩き出す。

 誰も踏破したことのない道の先へ歩むために。



 伊和里の中の黒い世界はここでようやく晴れたに違いない。















        ◆














「ははっ、あははははっ! あははははははははっ! ぎゃは、ぎゃはははっ!」

  

 おびただしいほどの出血量は、伊和里の顔面から血の気を奪っていた。

腹部から流れ出した血液により、まるでその一面にペンキを撒いたかのように、血溜まりができあがっている。

 その中で。

 笑う膝と震える身体を何とか言い聞かせ、伊和里は立ち上がった。

 立ち上がっていた。

 顔面蒼白の、鬼の形相を保ったまま、身の毛もよだつほどの赤眼を晒しながら――


「ぎゃは、ぎゃははっ!」


 そんな風に、歪んだ笑みを浮かべるのだった。

 少し距離を置いたところに腰を据えていた夜子は、聞こえるはずのないであろう伊和里の声に混乱していた。

しかし、致命傷を負って立つこともままならないはずの伊和里が再起している光景を目の当たりにすることで、その困惑も払拭された。

 夜子もまた不適に微笑む。

 その笑みが一体何を意味していたのか、伊和里にはわかるはずがなかったし、わかろうともしなかったのは言うまでもないことだった。

 相手のことなど理解するに及ばない、ましてや、今から殺される他人のことなど理解したいとも思わない――伊和里ははっきりとした意識の下でそんな風に考えた。

 痛みがないわけではない。

 もっと言えば、今更ながらに痛みが襲ってきていた。

きっと内臓はぐちゃぐちゃにかき混ぜられているだろうし、臓器の一つや二つにぼっかりと穴が空いているに違いないけれど、そんな痛みなどそれこそ今更で、伊和里にとってはどうでもいいことだった。

むしろ、今となってはその痛みが心地よく、『生』の実感が沸いていくるように感じたのである。


「なかなかしぶといね、お姉さん」

「…………」

「お姉さんは化け物だね、まさに鬼の化け物だね。その怖い形相、怖い眼、ボクを殺そうとしていることがはっきりと伝わってくるよ。そう考えると、今までは本気じゃなかったのかな、どうなのかな?」

「…………」

 伊和里は答えない。

 応えない。

 ぴくりとも反応せず、ただ直立不動の姿勢を保ったままだった。

「そんなことどうだっていいか、いいよね、うん。お姉さんにはもう一回死んでもらえばそれでいいんだし、そうだよね」

「…………いよ……キ……」

 伊和里は顔をあげる。

 血に塗れた顔面で見せる剣呑な眼差しを夜子に遣る。


うるさいよ(・・・・・)クソガキ(・・・・)


 伊和里は助走もつけず、少しの屈伸運動の直後、飛び跳ねた。

 文字通り、飛び跳ねて、宙を舞ったのである。

自らの体から血の雨を降らしながら跳躍し、夜子との距離を零にした。

 零。

 零距離。


「――っ!!」

 夜子は一瞬の跳躍に表情を歪め、懐のピックを咄嗟に取り出して反撃をする。

 伊和里はまだ宙を飛んでいる――空中で取ることのできる防御姿勢など高が知れている、夜子は握った短刀を振りかぶる伊和里のがら空きになった体に目掛けて右腕を伸ばした。

 体の中心を目掛けて。

 それは、心の臓が位置する箇所であった。


「きひっ! ぎゃははっ! 甘いよ、クソガキ!」


 尖ったピックの先端が伊和里の心臓を目掛けて飛んでくる。

 その瞬間、伊和里は右手を突き出し、手のひらでそれを受けた。

手のひらの中心から手の甲にまで貫通するピックをそのまま右手で握り締め、夜子の右手の自由を奪ったのだった。

それは必然的に己の肉を切ることになり、必然的に両者の右手が封じられたことを意味した。

「《瞬間殺人(フリック・ホリック)》、大した名前だと思うけど、あたしの殺人(キリング)だって常に一瞬さ」

 宙を舞った零距離での攻撃。

 体勢を整える必要などない。

 ただこのまま左手に握った短刀を、対象に向けて振り下ろすだけ――ただそれだけで、相手は死に至る。

殺人は簡単で単純だ。

だからこそ、自分もまた簡単に殺される。

 けれど。

 けれど――


「この先の道を行くのはあんたじゃない、あたしだ」

「…………っ!?」


 伊和里の短刀は、夜子の首根っこを捕らえた。

 断末魔は聞こえなかった。



 血の雨を浴びながら、伊和里もまた夜子と重なるように力尽きたのだった。



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