軽率迂闊のロードランナー
「……ちっ」
「……ほほほっ、お姉さん、強いんだね」
伊和里は苦戦を強いられてた。
いや、客観的に見れば何も苦戦している風ではなく、むしろ圧倒的な手数で優勢を保っていた。
しかし、短刀を幾度となく振るったところで、その刃は夜子には届かず、華麗にいなされ、軽やかに躱されるのだった。
伊和里の攻撃が遅いから回避されるということではなく、純粋な戦闘能力として、夜子と伊和里は拮抗していたのだろう。
かと言って、夜子の攻撃もまた届かないのだから膠着するのも至極当然だった。
しかし、冷静な夜子に対し、いささかそれに欠ける伊和里は苛立ちを隠しきれず、もどかしさに襲われていた。
そんな心情の乱れが刃を曇らせていたのかもしれないが、それ以上に、攻勢に転じることこそが自分のスタイルであると言わんばかりの攻撃は、己の体力をひどく奪っていた。
賢明で慎重な夜子は機会を窺ってカウンターを放つばかりで、自ら積極的に攻めることはせず、不適な笑みを浮かべながら、余裕の様子で伊和里の剣戟を捌くのだった。
「チーム『遊戯中毒』、そんなの聞いたことないんだけど、詳しく教えてよ」
伊和里は膠着状態に陥り、自ずと適度な距離があいた夜子に向かって問うた。
「ひひひっ、教えないよ、教えるわけがないよ」
「リーダーは一体誰なの」
「教えても意味がない、教えることに意味がない、だって今からお姉さんは殺されるんだから。今から死ぬ人に何を教えても意味がないよ」
「……そう」
伊和里は肩を竦めて、それ以上の質問を投げることはしなかった。
溜息を吐いて。
一回。
二回。
三回目に頭を垂らした伊和里に、そこはかとない不気味さを覚えた夜子は再度身構えた。
いつでも攻撃をいなせるように。
いつでも攻撃を躱せるように。
いつでも反撃できるように。
いつでも攻勢に転じられるように。
「答えないならそれでいい――」
伊和里は笑った。
夜子を嘲笑うかのように鼻を鳴らした。
「答えはあんたの腸から直接を引き摺り出す」
その目は。
その瞳は。
その眼球は。
やはり、透き通ったビー玉のように赤く、また赤ワインのように深く、今にも血涙が流れそうなほどに鮮血が迸っていた。
一見して、赤。
そして、一見して、鬼。
その様はまさしく、鬼の形相だった。
「殺す! あんたをここで殺す! あたしはあんたを殺してこの先の道を生きる!」
伊和里は濁った咆哮と共に、両者の間にあいた距離を縮める。
両の手には、血が滲むほどにまで強く握られた黒い短刀がある。
刃に触れた者を引き裂き、布切れにしてしまうほどの切れ味を有する短刀がある。
それを目にしたら最後、伊和里が歩む道中に立つ者はことごとく逸脱していく――それほどの強さを、《異常者》としての強さを、伊和里は秘めていた。
伊和里が今までに殺すことができなかった人物が三人いる――貴船 憂馬、幟荻 肆季、七瀬 真草、彼らは《異常者》として特殊であったからこそ、殺すまでに至らなかった。
しかし、それは敗北という意ではなく、一度殺しあった結果、引き分けたということだった。
だからこそ。
伊和里が持つ辞書に、敗北という二文字は存在しない。
過去を回想してもそうだったし、それならばこれから先も負けるつもりはなかった。
何より、殺されるつもりなど、毛頭なかった。
「――ぁぁぁああっ!!」
伊和里は雄叫びをあげながら左の短刀を振るう。
かんっ、と金属同士がぶつかり合う甲高い音が聞こえた刹那、隙だらけの胴体に右腕を伸ばした。
伊和里の一撃目をアイスピックで防いだ夜子に二度目の攻撃を凌ぐ術はない。
たとえ、どうにか防いだところで、必然的に己の肉体を傷つけるはずである。
はず、だった――
「ボクが《瞬間殺人》と言われる所以はこれだよ」
と、夜子は余裕の笑みを見せる。
伊和里の伸ばした右腕――短刀の切っ先が自身の胴体を貫いているのにもかかわらず、夜子は同じように左腕を伸ばした。
左手には伊和里の一撃目を凌いだピック。
右手には――
「……は、ぁ…………」
右手には、伊和里の腹部の中心を貫いた――二本目のピック。
「迂闊だったね、軽率だったね。まさかボクが正々堂々と殺し合うと思った?」
「……か…………」
「お姉さん、そういうことを考えるのは苦手なんだね」
肉を切らせて骨を断つ――古くから伝わる故事ことわざがあるが、それは非常に理に適った攻撃手段の一つだろう。
この場合。
夜子は自らの右脇腹を贄とすることによって、いとも簡単に伊和里の急所を貫いたのである。
腹部の中心。
臓器と臓器が密集した、人体の急所であり――それが意味することはつまり、致命傷であった。
伊和里は痛みなど感じていない。
痛覚が死んだわけではないのに、どうしてか痛みを感じなかった。
まるで貫かれた腹部に熱湯をかけたように、炎で熱せられたかのような高温度を感じただけだった。
麻痺しているのだろう。
脳髄から分泌されたアドレナリンがそれを感じさせないのだろう。
そして何より、人の死に際は快楽で得られるそれと同等のものを脳が分泌すると言う――その意味においては、少なくとも、快楽愉悦を味わうことはできなかったけれど、苦悶することはなかった。
痛みも感じないのに。
気力は存分にあるはずなのに。
それでもどうしてか、足腰に力が入らない。
立っていられない。
膝が笑う。
そうすれば崩れ落ちるのも必然で、無様に顔面をコンクリート地に突っ伏すのも当然だった。
「まるで獣だね、お姉さんは」
白装束の半身を血で赤く染めた夜子は、眼前でうつ伏せに倒れた伊和里を見下ろして言う。
冷酷な笑みで。
残酷な微笑みで。
非道なる表情と共に。
不気味な白い歯を覗かせた。
「《通り魔殺人鬼》、その名も所詮はこの程度ってことだね、うん」
夜子もまた致命傷でこそないものの、戦闘を続けることすらままならないほどの傷を負っていた。
しかし、やはりそれが表情に出ることはなかったし、むしろ余裕の笑みを浮かべるだけだった。
痛覚が死んでいる、痛覚が麻痺している――それ以上に、彼女の場合、神経が死んでいるのかもしれなかった。
いや、脳の構造から他人とは違う、狂いに狂った異世界の細胞で組織されているのかもしれなかった。
とは言っても、朝子と憂馬の戦闘に参戦し、加勢することは暫くできそうにない夜子は、目の前に転がった『もの』が壊れて動かないことを確認して、神社の境内にある石垣にゆっくりと腰を下ろした。
いくら致命傷を避けることができたからと言っても、開いた傷口が簡単に塞がるわけはなく、紅白に彩られた装束を半身脱ぎ、それを胴回りで結ぶことにより応急処置をする。
その程度で止血などできるわけがないが、一時凌ぎとしては十分に機能するだろうとの考えだった。
伊和里は動かない。
一挙一動、ぴくりとも動かない。
精巧なフィギュアのようで、しかしそれでも、動く気配すらない。
命が未だ奪われていないとしても、文字通り、再起不能の致命傷を負ったのだ、それでも尚活動できるとするならば、それこそ化け物だろう、それこそ鬼だろう――夜子は遠い目でそんなことを思った。
人であり、人でない《異常者》。
しかし、命は皆平等に一つ限りであり、皆等しく『死』を享受しなければいけない。
それが偶然にも今回は伊和里であっただけで、次に地面に突っ伏すのは自分かもしれない、と夜子は珍しく感傷的な気分に陥った。
そんな感情、とうの昔に捨てたはずだったのけれど。
狂った世界で生きるには己も狂うしかない、そう信じて止まなかったけれど。
数え切れないほどの血を浴びてきたけれど。
やっぱり。
やっぱり、死ぬのは嫌だよ――そんな弱気な感情に夜子が駆られるのも、伊和里が倒れた姿を見ているからだった。
これが例えば、何の興味や関心も抱かない相手ならばともかく、少なくともこの”世界”に名を馳せ、知らない者はいない《通り魔殺人鬼》という称号を得た伊和里ですら、一歩間違えるだけで容易く命を落とし、希薄な存在に成り下がる――そのプロセスをこうして目の当たりにすると、狂った人格者である夜子ですら、やはり同情してしまうし何より悲しくなるのだった。
『死』というものは呆気ない。
呆気に取られるほど呆気ないし、味気ない。
気味の悪い後味だけが残るものだ。
「お姉さんの分までボクが生きてあげるよ。お姉さんの道の先をボクが歩いてあげるよ。そうすればきっと、お姉さんが死んでも、その道は未来永劫、ボクが死ぬまでずっと続いていくよ」
夜子の追悼の言葉が伊和里に届くはずはなかった。
その耳はすでに、血に浸かっていた。




