不測不整のタッグマッチ
憂馬と伊和里はほぼ同時に走り出していた。
せーの、で飛び出したわけでも、事前に打ち合わせていたわけでもなく、阿吽の呼吸を感じ取っていた。
それが単純な偶然で合致した呼吸だったのかどうかはともかく、同時に走り出したところで、憂馬が伊和里に劣っていたのは至極当然のことであった。
《異常者》としての力を使いこなせていない――などと、嘯くつもりは伊和里に毛頭なかったけれど、少なくとも、純粋に戦闘という面において憂馬が未だ慣れていないのは言わずもがなのことだった。
潜在能力がどれほどあろうと、埋もれたままの才能であることに変わりはない――単純な身体能力をとってみても、未だに幼い――伊和里は駆けながらそんなことを考えていた。
それならば、世話役を買って出た以上、ここで憂馬を死なせるわけにはいかず、必然的にフォローをせざるを得なかった。
考えれば考えるほど、面倒くさくて、気鬱になりそうである。
しかし、そんな思いやりを見せる伊和里のことなど気にも留めてない憂馬は初めて行う主体性を持った殺人行為に胸を高鳴らせていた。
そして何より、緊張していた。
真の意味で命を奪われるかもしれないという危険性を隣に置く状況に、一種の病気のような、病的な心理状態に陥っていたとも言えた。
ランナーズハイとはまた違う、脳味噌の内側からじわっと溢れ出るアドレナリンを全身に感じていたのだった。
殺されるかもしれねぇ、けど、愉しい――憂馬の精神はここにきてようやく《連続殺人鬼》として相応しいとも言える領域に到達しつつあったのかもしれない。
「遅いよ、遅すぎるよ」
「遅いね、遅すぎるね」
伊和里が先陣を切り、一撃目――大きく踏み出した一歩から宙に飛び上がり、左手に握った短刀を振り下ろした。
しかし、それはあっさりと躱される。
憂馬は事前に伊和里から渡された柄の黒いアーミーナイフとナックルガードが付いたハンティングナイフを両手に構えていた。
人を殺すための、殺すためだけの得物を己の意思で握っていた。
「同じ喋り方すんじゃ――ねぇっ!」
一足出遅れて攻撃を放つことになってしまったが、結果的に見ると、伊和里の一撃を回避した隙を突いたような形になり、双子は表情を一瞬歪ませた。
躱し切れない――夜子は一歩前に出て、朝子を庇うように憂馬の剣戟を細い針で受け止めた。
「アイスピックで人が殺せるわけねぇだろ!」
「…………」
アーミーナイフとアイスピックの競り合い、そして少女と高校生という体格差――それだけを見れば、憂馬が夜子に劣る理由など皆無だった。
けれど。
けれど――
「お兄さん、弱いね?」
それが通用するのは”異常”ではなく、”日常”だけだろう。
《異常者》による戦闘において、得物の種類など本来どうでもいいことなのかもしれなかった。
自身に相応しく扱いなれた武器ならば、どんなものだって凶器となり得るということは、つまりそういうことである。
例え、容易く折れてしまいそうなか細い針だろうと、先端を尖らせただけの爪だろうと、それらは纏めて凶器であり、人を殺す可能性を秘めている――それは恐らく”日常”においてもそうだし、この異常な世界であるならば尚更、『そう』であった。
だからいとも容易く、憂馬は競り合いに負けてしまう。
「……ぐっ…………っ!?」
渾身の力を込めて押し返そうにも、夜子はぴくりともしない。
彼女がただ手を伸ばしているだけで、それだけで憂馬はじりじりと後退した。
ありえねぇ、ありえねぇ――憂馬は自分の剣戟を簡単に受け止められたことよりも、表面積の狭い針に押し返されている現実を理解することができなかった。
尚且つ、夜子はいたって涼しい無表情を貫いていた。
幼くも整った顔立ちが余計に違和感を助長させ、それに一瞬の恐怖を感じた憂馬はすぐさま後退して距離を取った。
「何だ、こいつの力はよ……」
「バカ、あんたが弱いだけでしょ」
伊和里も等しく距離を取り、二人が二人、互いに対峙する図を保ったまま、場は膠着した。
夜子と朝子は賢明なのか、慎重なのか、無闇な追撃はしないようで、同じく沈黙を保った。
「俺って、そんなに弱かったのかよ」
「だってあんた、真野も切れなかったでしょ」
「あー……そう言えばそうだっけ。なら俺は何でこんなにも自分のことを最強だって思ってんだよ」
「それは間違いなく気のせい」
「ははっ、間違いねー」
伊和里は緊張感に欠けるようなことを言う憂馬に溜息を吐いた。
しかし、暢気なのはともかく、気負う様子が全く窺えないので、それはそれでいいことなのだろうと伊和里は思う。
弛緩するのもどうかと思うが、それよりも恐怖を感じて逃げられるよりかはマシ――その程度の感覚で今はいいのかもしれなかった。
「で、伊和里ちゃん、この後どうするよ」
「どうするって?」
「俺はともかく、伊和里ちゃんの攻撃すら通用しねぇーじゃんかよ」
「あたし、まだ本気じゃないから」
「おい、本気を出せよ!俺はいつだって本気だぜ!?」
「……本気であれってどうなの」
もはや伊和里には、憂馬がその場その場で適当なことを喋っているようにしか思えなかったけれど、戦闘意欲はどうやらまだ健在らしく、両手のナイフを再び強く握り締めた憂馬を見て、再度体勢を整えた。
相手からは攻撃の気配はない――どうしてかはわからないけれど、それならばそれで、こちらから先手を打つだけ、と伊和里が再度駆けようとしたところで、
「あ、そうだ、伊和里ちゃん」
と、憂馬がふと声を上げた。
「……なに」
「各個撃破でいこうぜ」
憂馬は隣の伊和里に対して不適に微笑みを見せた。
それに何やら嫌な予感と気配を感じ取った伊和里は、不審に思いながら問う。
「どういうこと?」
「伊和里ちゃんは夜子、俺は朝子、一対一でやろうぜ」
「……どういうつもりなの、あんた死にたいの?」
「いんや、死にたくねぇし、死ぬつもりもねぇよ。でも勝算はあるぜ」
「……だから何」
さらに不審。
さらにさらに不審。
伊和里はすでにこの時点で、憂馬の言葉を話半分に聞いていた。
「ほら見ろよ、朝子の方――あいつ、武器らしい武器持ってないだろ、それなら俺でも勝てるってこと。夜子の方はさっき見た感じではやべぇ。あいつは無敵の伊和里ちゃんが相手してくれ」
「あんた本当にバカ?武器なんて隠すこともできるし、たとえなくても、殴れば相手は死ぬ――要するに、結局、殴られてあんたが死ぬんだよ」
「よっし、よーっし、そうと決まれば即実行!作戦スタート!」
「あ、え……ちょっと!」
憂馬は伊和里の制止を背中で黙殺して、駆け出した。
やると決めたらやる。
やらないと決めたらやらない。
それが憂馬のアイデンティティーであり、自己を保つ術でもあった。
自分にそう言い聞かせることで紛い物の信念を貫くことができる――しかし、そんな建前の裏に潜むのは『簡単に生きるため』ということだった。
できないのではなく、やらない。
できることであっても、やらないと決めたらやらない。
そうすることで、己の弱さを甘やかしてきた。
けれど。
けれど、違う――今は違う。
今、まさに憂馬は自分の意思と意識を持って、明確な目標と対象を据えて、やろうとしている。
できないでも、やらないでもなく。
初めて『やろう』としている。
初めて『生きよう』としている。
「……かはっ、ははははっ! ひひひひっ!」
憂馬は笑っていた。
心の底から可笑しく、心の奥から面白く、何より主体性を持って愉しんでいた。
『楽しむ』ではなく、『愉しむ』だった。
「朝子ちゃん――だっけ。なぁ、朝子ちゃん、そんな仏頂面だと男にモテないぜ? こんなにも楽しい状況なんだからさ、ちょっとは笑えよ」
「…………」
憂馬と対峙する朝子は沈黙を保った。
変化のない表情からは何も窺うことはできなかった。
「この緊張感がたまらねぇーよな。殺されるかもしれねぇ、けど、殺せるかもしれねぇ……かと言って、俺はまだ伊和里ちゃんが言うところによると開花してないみたいなんだ――だから、ここであんたに捻り潰される可能性もある、いや、むしろ、その可能性が高い。けれど、どうしてこんなにも俺は胸を高鳴らせてるんだ、どうしてこんなにも笑っていられるんだ?」
朝子は憂馬の言葉の半分以上も理解することができず、無防備な構えのまま直立不動である。
そんなことなど気にも留めず、憂馬はさらに続けた。
「俺がこんなにも狂いだしたのはいつからだろう、そんなこと考えるまでもねぇーんだよ。俺は最初から『こう』だったに違いねぇ。だって、両親が殺されたことなんざ、今となっては悔やんでねぇもん」
朝子はその言葉にようやく反応を示して、
「だから何かな、《連続殺人鬼》のお兄さん」
「そうそれ、それだよ、朝子ちゃん」
夜子の方はというと、すでに伊和里と戦闘を開始していた。
憂馬の長話が功を奏したのか、当初の目的通り、分断することには成功したようだった。
「本当に俺がその《連続殺人鬼》ってのなら、今からあんたは俺に殺されるわけだ」
「殺せない、殺せないよ」
「殺せないのは、朝子ちゃん――あんたが俺を、ってことだぜ?」
その台詞を皮切りに、憂馬は飛び込んだ。
隙しかない朝子の胴体を目掛けて飛び出した。
両手に握る無骨なナイフ――その切っ先を彼女に突きつけるために、ただそれだけのために。
「お兄さん、ボクの名前は覚えてるよね――」
朝子は眼前から襲い掛かる憂馬の攻撃に目もくれず、にやり、と不適に微笑んだ。
「《奇術殺人》という名は、相手に触れず殺す異名だよ」
朝子はきひっ、と奇妙な音を喉から鳴らした。