白雪赤雪のラブロスト
憂馬と伊和里は今後についての話し合いにいい区切りがついたところで、繁華街へ向かっていた。
警察を訪ねるかどうかの迷いがあった憂馬は、真野 梶との一戦により悪い意味で開き直っており、それこそ『いい区切り』だと考えていた。
ある意味、ヤケクソになっていた。
真野を殺してしまった以上、もはや後戻りはできない――今まで通りの生活も戻っては来ない。
そんなことは誰に言われるでもなく、憂馬自身、ひどく理解していたのだった。
しかし、不安や後悔もない――そうなってしまったのなら、正しいと思える場所に身を置き、正しいと思い込むしかないのだから。
日常に回帰することなど到底叶わないと思っていた。
一度手放してしまったものは二度と取り戻すことができないと思っていた。
しかし――
「なぁ伊和里ちゃん、やっぱまずくねーか?」
「何が」
「いや、外に出ることが」
「何で」
「警察はきっと俺のことを血眼になって捜索してるはずだぜ?それなのに白昼堂々と繁華街をうろついて、見つからないはずがないと思うんだよ」
憂馬は昨夜の出来事と現在の状況をうまく紐付けて考えることができなかった。
『殺し合い』をする異常者が、一般人が行き交う日常に悠々と溶け込み、あまつさえ、彼らと何ら変わりない生活を送っていることが衝撃的だったのだ。
自分のような異常者たちはお日様から身を隠し、影で生きていくと勝手に思い込んでいた。
しかし、実際はそうではなく。
こうして伊和里と共に街中を闊歩している違和感は計り知れなかった。
「見つからない」
伊和里は隣に並列して歩く憂馬に目も遣らず言う。
「あんたは、この中にどれだけ『あたしたちと同じような者』が潜んでいるかわかる?」
「それは……」
「あたしたちは確かに《異常者》――けど、その前に《人間》でしょ。別にわざわざ隠れる必要も、引きこもる必要もない」
伊和里の私服は外見とは裏腹に、ボーイッシュな印象を与えるもので、憂馬はその間隙にひどく滅入っていた。
知的で落ち着いた、大人しい顔立ちからは想像だにできない着こなしを、伊和里は平然とやってのけた。
それが、それこそが所謂、『ギャップ萌え』というやつなのかもしれない。
裾幅の広いまるで作業着のようなカーゴパンツに、それまた男らしい安全靴を履き、花のワッペンが胸元に刺繍された黒のダウン、左手首に太い腕時計をして、小指と人差し指には光沢のあるシルバーアクセサリー――このファッションセンスを誰が想像しただろう、絶対的にスカートが似合うとわかりきった顔立ちと体躯なのにもかかわらず、あえてそうしているのか、とさえ疑うほどだった。
いや、ただ単純に好みの問題なのかもしれないが。
「でも、警察沙汰になると、それはまた別問題じゃねーか?」
「多分、問題ないよ。希望さんがうまくやってるはずだから」
「……ふぅん?」
「警察内部にも、あたしたちと同じような《異常者》は紛れているはずだから」
「へぇ、まぁ、伊和里ちゃんがそう言うならいいんだけどよ」
伊和里が憂馬を連れ出した理由の一つとして挙げられるのは、衣服の買出しだった。
殺人現場となった憂馬の自宅に易々と帰還できるはずはなく、厄介事に巻き込まれる可能性も少なからずあったので、それを避けるためにも必要最低限の生活用品は揃えるべきと判断したのだ。
かと言って、いつまでもこのまま自分の部屋に居候させる義理も皆無なので、暗に早く出て行け、と憂馬に示している。
しかし、そんなことを察することもできない憂馬は、
「あ、この服もいいな、気に入った。あーでも、伊和里ちゃん家、タンスとかねーもんな……あんまりかさばっても困るか……」
「…………」
むしろ、彼の男はいつまでも居候するつもりのようであった。
「服なんて何でもいい。着れるなら何でも同じでしょ」
「いんや、服はそいつのセンスを問うんだよ。何事もセンスは大事だぜ、服のセンスがないやつは大抵、何をやってもセンスがねぇーよ」
その言葉を聞いた伊和里は溜息を吐きながら、鈍感なやつがセンスを語るな、と思った。
「その私服、俺はすげー好みだけど、またなんでそんな男臭いセンスなんだよ、伊和里ちゃんは」
「動きやすいから」
「そんな理由で私服を選ぶ女なんているのかよ!?」
「いつ戦闘になるかわからないし」
「あぁ……なるほどね……頭の中はそのことばっかりなんだな……」
憂馬は適当に服を漁り、下着を含めカゴ一杯になった商品をレジに運んだ。
男女二人の買い物となると、やはり周囲からは恋仲のように思われているだろうし、そしてやはり、どんな穿った見方をしたところで、デート以外の何でもなかった。
伊和里はそう思われるのが気に入らないのか、終始一貫、ぶっきらぼうで無愛想である。
素っ気無い返事、冷たい態度――しかし、憂馬にとって、今更そんな接し方をされても普段と同じようにしか思えず、特に気に留めるべき点ではなかったようだった。
伊和里が直接的に、ストレートに、オブラートに包むことなく、「もうあたしに関わらないで」と言えない理由は主に希望からの依頼があったからである。
憂馬の面倒を少しの間見るだけで莫大な報酬が貰える。
それに長い付き合いである希望の依頼を私情で断るなど到底できなかった。
だから、無愛想に振舞うのもせめてもの抵抗であり、幼い反抗だった。
しかし、かと言って、たとえ希望からの依頼がなくとも、きっと伊和里は憂馬の面倒を見ていただろう――義理人情に篤いとか、同情してしまうとか、そういう理由ではなく、ただ単純に多少の興味を憂馬に対して抱いていたからである。
興味というか、好奇心に近いのかもしれない。
突如、開花してしまった己の内側に潜む鬼との折り合いをうまくつけている憂馬が気になっていた、と言えば正しいだろう。
過去の自分はあんなにも否定的で、《異常者》としての自分をなかなか認めることができなかったのに対し、憂馬はあっさりとそれを受け入れ、認識した――どうしてそこまで簡単に気持ちを整理できるのかを伊和里は知りたかったのだ。
だから、結局は同じことで。
依頼があろうとなかろうと、憂馬と暫くは共に行動していただろう――伊和里は溜息を吐きながら、そう思った。
「伊和里ちゃん、やべぇ、今気づいたけどさ――俺、お金持ってないんだけど……」
「あ、そうだった、渡すの忘れてた」
「……?」
伊和里は肩にかけた小さなカバンから分厚い茶封筒を取り出す。
「これ、昨日の報酬」
「……報酬? 何で俺に?」
「希望さんからあんたを守るように依頼されてたんだけどね、まぁ、結果的に達成できたけど、一時は職務放棄したし」
「でもそれは希望さんが伊和里ちゃんへの報酬として渡したものだろ?」
「希望さんが半分あげろってさ。それに、あたしがあのまま助けなかったとしても、きっとあんたは自分一人の力で真野を殺してたと思うよ」
「…………」
憂馬はそれを聞いて、何とも言い難い表情を浮かべた。
確かに、たとえ伊和里がいなくても、たとえ一人になったとしても、あのまま真野と『殺し合う』つもりだったのだ。
明確な意思と意識を持って、殺意を振り撒き殺すつもりだった。
しかし、それは《人間》ではない、己が《異常者》だと認めることと同義でもある。
憂馬自身、ほんの少し迷ってはいる――対して、伊和里は少し過大評価をしているのだろう。
簡単に割り切れるはずはなく、易々と受け入れることもできず、当然として、認めることも難しい。
しかし、微塵たりとも後悔はなかった。
一切の後悔はすでに『あの時』、置き去りにしてきたのだと、憂馬は感じていた。
「え、え、え……えぇ!?」
憂馬は手渡された茶封筒の厚さに驚愕する。
「お、お、おい、伊和里ちゃん……これ、いくら入ってんだ……?」
「百五十人の先生たち」
「……まじかよ」
つい最近まで普通の高校生としての営みを送っていた憂馬は、勿論、そんな大金を手にしたことは一度もなく、あまりの衝撃に体を震わした。
「まぁ、好きな物何でも買えばいいんじゃない。あ、間違ってもタンスとか衣装ケースとかは買わないでよ」
「は、はい……」
「あと、下着とバスタオルは別々で洗濯して」
「は、はい……わかりました……」
「料理はあたしがしてあげるけど、洗濯と掃除はしっかり毎日すること」
「はい……」
「ゴミ出しもあんたの仕事ね。それと、食材とかの買出しも今後は全部あんたの担当」
「え、あ……はい……」
「今日はあたしが起こしてあげたけど、明日からはあんたが必ず六時ちょうどにあたしを起こすこと」
「…………」
「缶コーヒーはあたしの好きなやつを常に二十本用意して、毎朝温めること。お風呂上りにはキンキンに冷えた缶コーヒーを用意すること」
「……は?」
「暫く、あたしが面倒みてあげるから。その間に妹を探すのも手伝ってあげる」
「面倒見てるのほとんど俺じゃねーかよ!」
「嫌なら出て行って。そして路頭に迷って死ね」
「…………怖ぇよ、伊和里ちゃん」
衣服類や生活用品を最低限揃え、両手一杯になった買い物袋は人の手二本では足らず、必然的に伊和里も持つ羽目になってしまったのだが、それについては何の文句も吐かなかったので、憂馬は彼女に対して好感が持てた。
ああだこうだと言いつつも、きっと根は優しいのだろう――憂馬は今更ながらにそんな感想を抱いた。
繁華街を抜け、住宅街へと入り、そこからさらに歩いて、伊和里ちゃんのアパートが視界に入ったところで、目の前に小さな影を捉えた。
どうやら伊和里のアパートの入り口付近で立っているようで、その小さな影はこちらに向かって大手を振っていた。
憂馬と伊和里は一度後ろを振り返り、影が他でもない自分たちにアクションを起こしているということを知る。
近づいて。
近づいて。
さらに近づいて。
伊和里の表情は徐々に険しさを増し、緊張感のある雰囲気を醸した。
憂馬もまたその光景を不審に思い、慎重に歩みを進める。
影は果たして誰に向かって手を振っているのか――《貴船 憂馬》と《道無 伊和里》に対してなのか、それとも、《連続殺人鬼》と《通り魔殺人鬼》に対してなのか、そのどちらかによっては今後の対応が必然的に大きく変わってくる。
遠くの方で声が聞こえた。
恐らく、影がこちらに向かって声をあげているのだろう。
女性と思しき声が反響する。
「おひさしぶりっー! 伊和里さーんっ!」
対象まで、およそ十メートル付近にまで近づいて、その影が女性であることを確信する。
短めの茶髪をした健康的な容姿をした女。
「お久しぶりですね! 伊和里さんっ!」
彼女は、さくらんぽのヘアアクセサリーを揺らしながらそんな風に声を上げ、満面の微笑みをこちらに向けたのだった。
「…………」
「…………」
眼前に到達して、憂馬と伊和里は沈黙する。
「あれ、どうしたんですか。元気ないですねぇ?」
「……何しに来たの」
伊和里は暢気な面をする女に問う。
より一層、剣呑な眼差しになった伊和里を見て、憂馬は敏感にただならない雰囲気を感じ取った。
「依頼ですよっ、依頼!」
「あんたに頼まれることなんてない」
「えー、そう言わずに聞いてくださいよぉ……わたし、危機一髪なんですぅ……」
「あっそ、ってことは何とか難を逃れたんだ」
「あ、いえっ! そうじゃないんですよ……ホントにピンチなんです……」
感情の起伏が激しい女はそんな風に肩を落とした。
俯いた顔を上げ、憂馬に視線を遣った彼女は、
「初めまして、ですね。憂馬さん――いえ、《連続殺人鬼》さんっ!」
「…………」
憂馬はそう呼称されることにより、やはり、と嘆息した。
彼女は《貴船 憂馬》としてではなく、《連続殺人鬼》として自分を見ていることに、昨夜と同じ異常なる世界に再び回帰したことを思い知らされた。
つまり、彼女もまた自分と同じように――
「わたし、花孫 和花って言います。今日はお二人の力を信頼して頼み事に来ました」
憂馬と伊和里はさらに沈黙する。
それは依頼の詳細を聞く姿勢であるのを意味していた。
「ある人物を助けてください。わたしの、たった一人の友人なんです」
花孫は笑顔を振り撒いたが、その裏に隠れた悲壮感がそこはかとなく重々しい空気を演出していた。
憂馬は何も考えず、ただ依頼されたからという理由だけで、適当な相槌を打った。
「別にいいけど」
その瞬間の花孫の屈託のない笑みはまるで天使のように見え、憂馬は止まった時間の中で暫く固まってしまった。