殺害報告のコントライブ
ずっと隠し持っていたわけではない。
予期せぬ事態を予め予想して渡されたわけでもない。
憂馬が握っていた、伊和里が愛用する短刀は真野の渾身の一撃を見舞った後、吹き飛ばされて地に突っ伏した時に彼女が無言で握らせたのだった。
どのような考えがあってそうしたのかはわからないが、少なくとも憂馬にとっては有難いことであった。
拳一つで大柄過ぎる真野に対抗するのは骨が折れるだろうし、到底敵うとも思えない。
それを見越してのことだったのか、しかし、当の本人はそそくさと公園から去ってしまっているので、助けるのか助けないのか、どっちつかずな行動は憂馬をひどく混乱させた。
まぁ、しかし。
同情というか、せめてもの救いというか、およそそんなところだろう――と、憂馬は考えた。
或いは、できるものならやってみろ、という挑戦的な考えからくる行為だったのかもしれないが。
兎に角、それが憂馬にとって救い以外の他になかったことは事実なので、感謝するべきなのだろう。
ただ、問題もあった。
手首を一瞬で切り落とすほどの切れ味を持つ短刀を使いこなせるかどうか、以前に、生前の人に向けたことがないそれを、『武器』として扱うことができるのかどうかが重大で深刻な問題だった。
あの時――死んだ両親を八つ裂きにした時は無意識と意識の狭間で浮遊していたので、あの感覚が人に刃を向ける場合の正解なのかどうかわからない。
それに今回は、違う。
あの時とはもう違う。
今は無意識ではなく意識的に、自らの意思と意図を持って、自らの肉体をもってして刃を振るおうとしている。
人を殺めるためだけに、切っ先を向けている。
心もとない、いとも容易く折れてしまいそうな細い短刀を渾身の力で握り締め、今まさに人を殺そうとしている感覚は今まで味わったことのない緊張感と危機感だった。
そして、それがどこか気持ちよかった。
胸の高鳴りも、速くなる心拍も、目頭が熱くなって脳味噌が溶けてしまいそうな感じも、下腹部から全身に伝わる嫌な気配も、きゅっと締まった肛門や粘ついた口腔内も、毛穴から吹き出るべとついた脂汗も――あの時、両親を裂いた時と同じ感覚で、そしてやはりそこはかとなく気分がよく、さらにはそれ以上に快感だった。
すこぶる愉快で、
嫌らしいほどに昂っていた。
貴船 憂馬というアイデンティティーが崩壊していく様は見事なほどに綺麗であっさりとしていた。
まるで高層ビルディングを爆破して倒壊させるかのように、ある種の芸術性を感じられるほどに雪崩れ落ちた。
落ちて、落ちて、
陥って、落ちていた。
それが。
それこそが。
日常を捨て、平凡を諦め、異常に踏み入り、異端を認め――人間であることをやめた瞬間だった。
「……はぁ……はぁ…………」
憂馬は真野との距離を適度に空けて、肩で呼吸をしていた。
握力も徐々に衰え、短刀を握ることすらままならないほどに疲労していた。
「どうしたよぉ、シリアルキラーァァァァァ! そんなもんかよぉ! その程度で啖呵を切ってたのかよぉ!」
「……ちっ」
戦況的には圧倒的に憂馬の方が有利だったに違いない。
憂馬は短刀を片手に、真野を切り刻んだ。
文字通り、切り刻んだ――はずだった。
しかし、それでも真野が痛がる素振りをすることもなく未だに両の足で地を踏んでいるということは、およそダメージは零に等しかった。
「何だよ……その服のせいかよ……」
真野は憂馬の剣戟を避けようともせず、むしろ自ら刃を受けるように自身の体で刃を止めていた。
黒尽くめ。
憂馬は自分の刃が真野の肉体にまで到達していないことを理解する。
ぼろぼろに切り刻まれるのは黒の服だけで、出血すら見受けられなかった。
「くくくっ、やっぱてめぇはまだまだ初心者だぜ。さすがにノープランのようにはいかねぇよなぁ!」
「…………」
「おっと、言い忘れていたが、別にこの服に特殊な加工をしているわけでも、内側に帷子を着込んでいるわけでもねぇんだぜぇ……ただ単純に、てめぇがそれを使いこなせていないだけだ」
「真野さん……嘘はよくないぜ……ぜってー切れねぇもん、それ」
「くくくっ、ふはははははっ! 悪い悪い、悪かったよ、嘘は確かによくねーよなぁ……ちぃっとばかし仕込んでるのは違いねぇ! はははははっ!」
「…………?」
真野は余裕が感じられるほどの豪快な笑い声をあげた。
しゃがれた、野太い嫌に耳につく声だった。
「ほら、もう終わりかよ。好きなように切っていいんだぜぇ? それとも何だ、反撃が怖いのかぁ? ははははっ、安心しろよシリアルキラー、お前が一人前になるまで付き合ってやるからよ!」
「…………っ!」
憂馬は真野の安い挑発に安易に乗り、右手の短刀を振り上げた。
渾身の力で。
全身全霊を懸けて。
躊躇いはない。
迷いもない。
今はただ、目の前にいるやつを殺すために。
人を殺すために――振り下ろす。
短刀を、振り下ろす――
「おっと」
真野は振り下ろされた憂馬の手首を握った。
「かかかっ、まだまだガキだなぁ、おい。こんな挑発に乗るなんて、てめぇ喧嘩とかしたことないのかよ」
「……ぐっ…………」
「そろそろ終わりにしようぜぇ、なぁ、シリアルキラー……最後の最後に全部種明かししてやるからよぉ!」
右手を真野に握られて拘束されている憂馬はただならない気配を感じ取って、逸早く脱出しようと試みるがびくともしない。
真野の土手っ腹に蹴りをお見舞いしても、頑丈な肉体に弾かれてしまう。
まるで岩を相手にしているようだった。
「無駄無駄ぁ、そんな腰の抜けた蹴りが俺に通用するかよ」
真野はくつくつと笑う。
何かを企み、何かをしようとしているようだった。
「あぁ、そうだぁ……てめぇに一つ教えてやるよ。さっき俺に殴られた時、てめぇは疑問に感じなかったか?」
「…………?」
「どうして俺が握り拳ではなく、切り落とされた腕の方でてめぇを殴ったのか」
「――っ!!」
「てめぇの勘違いを正してやるぜぇ……お前の顔面は俺の血で塗れているんじゃねぇんだよ……てめぇの顔面から滴り落ちるその液体はな――」
憂馬ははっとした。
確かにそうだ。
言われてみれば確かにそうなのだ。
どうしてわざわざ真野は切り落とされた方の腕で、その傷口で殴ってきたのか――考えてみればおかしいじゃないか。
相手に与えるダメージを考えても、明らかに握り拳で殴った方がいいに決まっているのに。
どうして。
どうして――
「きひひっ、くくくっ、それなぁ、実は――」
「灯油」
真野は憂馬の耳元で、静かに、そして目一杯の恐怖を込めて枯れた声で言った。
憂馬はその言葉を聞いて戦慄するが、すでに時は遅かった。
目の前がぼんっ、と急に明るくなる。
真夜中だというのに関わらず、視界が一気に爆発する。
赤と黄、白や青――明るみを帯びた様々な色が混じり合った視界に飛ばされた。
一瞬の出来事で何が起きたのか理解できなかった憂馬は、その刹那後にようやく理解する。
いや、理解することすらままならない、そんなことを思考している余裕などどこにもなかった。
どこにも――あるはずがなかった。
次の瞬間に襲ってきたのは、
「ぐぎゃああああああああぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁああっっ!!」
憂馬の顔面は一瞬にして炎に包まれた。
火という名の炎。
炎という名の火。
焔であり、焰だった。
熱。
熱。
熱。
熱。
熱。
「ふはははっ、ひひひ、ははははははっ! 愉快だぜ、愉快痛快の喜劇だ! 燃えろ、燃えろ! まずは命を絶つ前に、人間として殺す! 醜い顔を晒して生きる辛さを味わえよ! ぎゃははははっ!」
ほんの数秒だった。
いや、一秒にも満たない燃焼だった。
あまりにも短い火に真野は不思議な様子で、その場に倒れこんだ憂馬の髪根っこを掴み上げ、軽々と宙に吊るした。
「あぁ……なんだよ、どういうことだぁ……?」
「こういうことだよ! デカブツ!」
吊るされた憂馬は瞬間、体格差で届くことのなかった顔面に目掛けて蹴りを放つ。
さすがの真野でも人体の急所である頭部への攻撃には痛みを感じるようで、呻き声と共に憂馬を解放せざるを得なかった。
「……ったく、熱いぜ。まさか灯油を顔面に撒かれていたなんて誰が気付くかよ……っと」
憂馬は手放した短刀を拾い上げ、切っ先を再び真野に向ける。
痛みがないはずはなかった。
余裕振った態度はやせ我慢に近く、内心では今にも逃げ出したかった。
それでも、それを許さなかったのは己のプライド故なのだろう――いや、プライドと言うより、伊和里への罪悪感があったからかもしれない。
助けてくれた伊和里の気持ちを無碍にするようなことを言ってしまった。
自分のことを考え、短刀を忍ばせてくれた優しさに気づかなかった。
両親が殺されたあの日、依頼があったからとは言え、意識を失った自分を運び出してくれたのは他でもなく伊和里だった。
それなのに、
それなのに――
「おいおい……それはどういうことだよ……何で、てめぇは燃えねぇ……」
「不燃性物質でできてるからじゃねーか?」
「ふざけるな……ガキが」
今度は真野がそんな安い挑発に乗って、憂馬に飛び込んだ。
咆哮と唸り声と共に、両手を広げて飛び込んだ。
憂馬には、真野が次に何をしようとしているのか理解することができた――一体どうして、彼からガソリンの臭いが漂うのか、そんなことはすでにわかりきっていた。
そして、真野の手首を切り裂くほどの短刀を用いてもかすり傷程度のダメージしか与えられない理由も判然としていた――《放火狂人》、真野 梶は、全身に灯油を染み込ませている。
灯油。
ガソリン。
燃料。
全身の隅々まで染み込ませたガソリンはその名の通り、《放火狂人》が故なのだろう。
対象を燃やし、燃やし尽くし、焼き焦がすためだけに仕込んだ、彼流の殺人。
そこまで理解すれば、後は簡単だった。
憂馬にとって、対処法はいくらでも思いついた。
真野に触れられなければ燃やされることもない、そうなれば、相手が攻撃する術を失うのは必然だった。
しかし反面、距離を取るということはつまり、憂馬もまた同様に攻撃をする術を失うという意味でもある。
刃が肉を裂くほどの距離ならば、真野もまた憂馬に触れることができる。
それはお互いに膠着状態を生み出す結果となってしまうだろう。
そうなれば。
そうなれば、憂馬は真野を殺すことができないし、真野もまた憂馬を殺すことができない。
「…………」
「…………」
互いの距離をおよそ二メートルほど保ち、二人は沈黙した。
真野もまた、憂馬に逃げられると触れることができないので、下手に追い回すよりかは相手の出方を窺うことに徹した方が賢明だという判断だった。
「真野さん、何であんたは引火しねぇんだよ」
「耐火スーツだからに決まってんだろうがよぉ……」
「へぇ……いや、待てよ、違ぇよ。そもそも、引火してないじゃん」
「…………」
あぁ、なるほど。
そういうことか――と憂馬は思い当たる。
「ひひっ、あぁ……なるほどねぇ。そういうことかよ、真野さん。何だよすっかり騙された……あんたのそれ、実は灯油なんかじゃねぇのな」
「…………何を言ってんだよ、あぁ?」
「真野さん、知ってる? ガソリンってさ、液体そのものは燃えないんだぜ?」
憂馬は余裕の笑みで言う。
短刀をくるくると回す様を見ると、扱いには徐々に慣れてきたようだった。
「気化した気体が液体の表面上で燃えるのがガソリンなんだよ。だったら真野さん、あんたが俺に火をつけた時、必然的にあんたも火達磨になるはずなんだよ」
「……試してみるかよ、あぁ?」
「ひひひっ――やってみようじゃねーか」
憂馬は走り出した。
逃げるためではなく、背中を向けてではなく、真正面に真野を捉え、見据え、一直線に、そして最適で最短の距離とルートを計算して、一秒でも速く、刹那よりも早く彼の元に辿り着くために走り出した。
純粋な突進。
単純な突進。
誰がどう見ても、どんな穿った見方をしたところで、短刀を片手に特攻しているようにしか見えなかった。
いや、そもそも元よりそのつもりだった。
憂馬は自身でもただ真野に向かって突進攻撃をしているだけと理解していた。
そう理解した上での行為である。
しかし。
憂馬が考えていた策はその先だった。
短刀を片手に突進した後の策は用意していた。
そう――
「うおおおぉぉぉぉぉぉぉ――らぁっ!!」
真野の体から滴る液体がガソリンなら、彼はきっと憂馬を捕らえるだろう。
気は進まないかもしれないが、強引に抱きしめるなりするだろう。
本当に彼のそれがガソリンなのかどうかはともかく、そもそも避ける必要性はないかもしれない――けれど、けれどどうだ、目標が頭部ならば一体どうだ。
いくら頑丈な肉体を有しているからと言って、頭部への攻撃は致命傷に違いない。
それならば、
それならばきっと。
一撃目を避けて、そのまま捕らえるだろう。
憂馬は真野の眼前で飛んだ。
およそ二メートルはあろう巨体の頭部を目掛けて飛ぶ。
「ふん……遅いぜぇ、おい」
案の定、その渾身の一撃はいとも容易く躱され、憂馬はそのまま空中で羽交い絞めにされる。
腰の位置で両腕で固定された憂馬は、まるで子供をあやすような図で停止した。
「そんな賭けが通用するとでも思ったのかよ……アホガキ」
「ひひっ」
「……あぁ?」
「やっぱ、ガソリンだったんだなぁ……ひひひっ、かはははっ! あんたなら、そうしてくれると思ったぜ!」
憂馬の賭けはここまでだったわけじゃない。
賭けはここで終わったわけじゃない。
憂馬が命を賭けたのは、ここからだった。
「伊和里ちゃん――殺人、開始」
「気安く呼ぶな、命令すんな」
音もなく忍び寄る赤色の影は、真野の頭部に短刀を突き刺したのだった。