殺人過程のアブサーディティ
静まり返った閑散な住宅街の公園でこだました絶叫の主は伊和里でも憂馬でもなく、真野だった。
《放火狂人》――真野 梶の野太くしゃがれた叫び声だった。
伊和里が握る短刀の刀身より遥かに厚みのある真野の手首は、まるで作り物のように地面に落ちた。
ぼとり、と。
一瞬の出来事で、刹那の現象のようだった。
まるで風にさらわれたかのように、それが自然現象の一部であるかのように、重みのある手首が地面に落ちた。
黒いグローブで覆われた手首からは液体が零れていた。
それが血なのか、或いは別の何かなのかは暗くて判断できないけれど、憂馬は切り落とされた手首を見なくとも理解できた。
黒尽くめで表情こそ窺えないが、呻き声と共に片方の手で片腕を押さえる真野の手首からはシャワーのように血液が噴き出してた。
暗がりでもわかるほどに赤い、外気の香りに混ざる鉄のような異臭は紛れもない――血だった。
何が起きたかわからない憂馬は、ズボンに返り血を浴びても暫くの間動くことができなかった。
唐突に真野が絶叫し、突然手首が切り離されて落ちた――その程度の理解しかなかった。
固まる体を自覚しないままに、首だけを横に向けて、憂馬はやっと理解する。
「伊和里ちゃん……」
伊和里は血液で曇った刀身を残念そうに眺めて。
「なに」
と無愛想に言った。
一見、無表情に思えたが僅かに上がった口角に、憂馬は生唾を飲み込んだ。
「な、何してんだよ……そこで何をし、してんだよ」
「何って、あんたを助けただけ」
「助けた、って……伊和里ちゃん――伊和里ちゃんが、やったのか……?」
「まぁね」
憂馬はその言葉に安堵感を覚えた。
けれど、それも一瞬で、
「どういうことだよ……どういうことなんだよ……」
伊和里は思ってもいなかった憂馬の反応に少し困惑して、首を傾げた。
どういうこと、と言われても、それこそ『どういうこと』だった。
冷静な伊和里に対して、憂馬は苦悶の表情を浮かべる。
苦虫を噛み潰したような、それでいてどこか焦燥しきっているような、しかし、その裏には陰りもあった。
確かに安堵しただろう、絶体絶命の危機だったかと言えばそうでないかもしれないが、僅かにでもほっとしただろう――けれど、憂馬の胸奥から込み上げる感情はそれだけはなかった。
「な…………んだよ――」
二度目の絶叫が響いた。
他の誰でもない、憂馬の怒声だった。
「な、何してんだよ!!」
「……?」
伊和里は理解できないとばかりに首を傾げて、不思議そうに憂馬に視線を送る。
依頼状況や現状の説明をするつもりなど毛頭なかったが、それでも本来、礼を言われるくらいのことはしただろうとの考えだったので、彼の反応は伊和里にとって想像だにしていなかったものだった。
しかしまぁ、それも当然だと、伊和里は思う。
眼前で人の手首が切り落とされ、シャワーのように血飛沫をあげる様子を初めて目の当たりにしたことだろう、それならば混乱して当然、動乱して至極当然というものだ。
およそ理解も追いついていないだろうし、異常なこの世界がどれほど凄惨なのかも認識していない彼のことなのだから、慌てふためくのも道理であろう。
ただし、だから何なのだ、という話だった。
初めてだから何なのだ、という話だった。
少なくとも、憂馬に事の詳細を説明するつもりは皆無だった。
獅子の子落としではなく、最初からそのような義理などなかったし、どこでいつ憂馬が野垂れ死のうと知ったことではない。
ただ依頼をまっとうして、報酬を得て、生き延びる――それだけのためにやっていることだった。
「だから、何」
「何って、何だよ! 伊和里ちゃん、何をやったかわかってんのかよ!」
「わからない、あんたが何を言ってるのかさっぱりわからない。あたしはただあんたを助けて、あいつの手首を切り落としただけ。これ以上の状況説明が他にある?」
「伊和里ちゃん……何、言ってんだ、わけがわからねー…………理解できねぇ」
「…………?」
憂馬は震えた体を食い縛るように、拳を固める。
歯を軋ませ、手足の爪が食い込み、笑う膝をこらえるのに懸命だった。
そして。
そして――
「……が……たよ…………」
「誰が助けろなんて言ったよ! 助けるにも他にやり方があるだろ! わけわかんねぇ!」
伊和里は理解できない憂馬の言葉に眉をひそめた。
「他に……やり方?」
「そうだろ! いきなり人を殺すような真似を、涼しい顔で何してんだよ! それでも人間かよ!」
「…………はぁ」
「んだよ……」
「あんたの手だって、もう血塗れでしょ。自分のことは棚に上げて、あたしを否定? 言っておくけどね――」
伊和里は大股で憂馬に近づいた。
競歩のように素早い動きで躊躇いなく近づき、吐息のかかる至近距離で、言う。
「この世界は殺すか殺されるか。それが受け入れられないのなら、あんたはそのまま――」
「死ね」
徐々に和らいつつあった憂馬の身体は、その言葉で再度、さらに強固に強張った。
その瞬間。
憂馬の背後から雄叫びが聞こえた。
人体の内側に伝わるような獣のような声――振り向けば。
振り向けば、《放火狂人》真野 梶の腕が――ないほうの腕が憂馬の顔面を襲っていた。
無駄なく切り落とされた手首の切断面が、まるでスタンプを押すかのように飛んで来たのだった。
絶息しつつも、真野はくつくつと微笑んだ。
「は、はははっ、へへへへへ……放置プレイかよぉ、シリアルキラァァァァァッ!!」
圧倒的な体格差と体重差――それからくる衝撃はいくら拳のない手だからと言っても計り知れない。
憂馬は伊和里を巻き込む形で後方に吹き飛んだ。
受身の取りようもなく、固い砂地に体を打ちつけ、肺機能を失う。
伊和里はけろりとした様子で体勢を軽く立て直した。
軽く砂を手で払い、転がったままの憂馬を跨いで、振り返ることなく公園の出口へと足を進める。
何も口にせず、無表情に、無言で、血まみれの短刀をホルスターに納め、ゆっくりと出て行った。
出て行こうとしたところで、
「あのさ」
と、振り返った。
無情にも、冷酷にも、残酷にも、過酷にも――その表情は冷め切ったものだった。
鮮血が迸る眼ではない、虚ろで寂しい眼差しだった。
「気持ちはわからないでもない。あたしも昔はそうだったから――いや、今もそうだから。異常を否定して、異常から逃げて、それが現実だと認識することができなかった。自分自身を呪ったし、この世界を恨んだ。日常に恋焦がれて、平凡に嫉妬した。だけど、けれど――」
「…………」
憂馬は声を出さない。
地に体を伏した状態で、伊和里の微かな声に耳を傾けていた。
「あたしはそれを受け入れようと必死になったよ。許容しようと、認識しようと必死だった。こんなあたしでも――こんな世界で、生きているのは確かだったから」
「伊和里ちゃん……?」
「あんたは負け犬だ。いや、勝負から逃げている時点で勝ち負けもない、あんたはただの犬だ。野良犬だ」
そう言って。
そう言い放って。
伊和里はそれ以上振り返ることも立ち止まることもなく、一定の速度で公園を後にしたのだった。
後ろ姿を無言で見送るしかなかった憂馬は、その背中に何かを感じたが、それが一体何なのかまでは理解することができなかった。
寂しいというか。
悲しいというか。
哀れというか。
とてつもなく虚仮にされた気分だったが、それ以上に、伊和里に寂しさと哀れみを含んだ眼差しを送られた自分が情けなくなってくる。
それは人間ならば誰しもが持っているプライドのせいなのだろう。
こんなにも惨めな気分に陥ったことが今までに一度でもあっただろうか――言われた通り、負け犬の気分だ。
地に突っ伏し、泥々になった体からしても、やはり野良犬のように小汚い。
「……ったく」
憂馬はゆっくりと体を起こした。
揺らめく視界の中、それでも、しっかりと立ち上がった。
「なーにしてんだよ、俺は」
あたしも昔はそうだった――か。
憂馬は伊和里の言葉を心中で反復する。
同じ境遇だとは言い難いだろうが、少なくとも、伊和里も同じような経緯を辿ってこの異常な世界に足を踏み入れたのだろう――憂馬はそう思った。
抱えるものはそれぞれ違うだろう。
背負った過去はそれぞれ違うだろう。
けれど、その中でも生きているのだ――伊和里も、真野も、希望も。
簡単にこのような異常を受け入れることはできないに違いない。
それでも、みな生きがいを持って、使命を背負って、運命を享受するかのように生きている。
死ぬことを恐れず、殺されることを厭わず、暗中模索の中を疑心暗鬼になりながら生きているのだろう。
四面楚歌でも、
孤立無援でも、
五里霧中でも、
そんな『異常』の中を孤軍奮闘の如く戦っている。
それなのに、どうして自分はこんなにも惨めなのだろう――と、憂馬は溜息を吐いた。
白い靄が口から放出される。
生暖かい湿度を血まみれの顔面で感じた。
「なぁ、真野さん、だっけ……」
「……あぁ?」
「あんたは何のためにこの世界で生きているんだ?」
憂馬は問う。
「どんな生きがいがあって、何のために、何が理由で生きているんだ?」
「…………」
「俺にはそんなもん端からねぇんだよ。突然の出来事ばっかで、理解すらできてねぇんだ。生きる理由もわからないのに、俺はどうして生きているんだ?」
「おいおい……そんなことはてめぇで考えたらどうなんだよ……あぁ?」
先のない真野の手首から、ぽつり、と液体が滴り落ちた。
先ほどまでシャワーのように噴出していたことを考えると、いつの間にか止血を施していたのかもしれない。
何より、手首を切り落とされて、平然とした声調を保っている方が不思議だった。
「生きる理由がないのに、死にたくねぇんだ。たとえもし、死ぬ理由があったとしても、多分俺は死にたくないと思うんだよ。生きる意味がないやつは死んだ方がいい、とまで言うとさすがに大言壮語だろうけど、でも、理由がないやつが生きていたって、それは本当に『生きている』と言えるのか?」
「…………」
「だってそうだろ、それはただ呼吸しているだけの植物と同じじゃねーか」
「……何が言いたいんだぁ、てめぇは」
真野の疑問に、憂馬はふっと微笑んだ。
「真野さんさぁ――俺を殺すつもり?」
「殺せないとでも言いたいのかよ……」
「いんや、そうじゃねぇよ。ただ、本当に俺を殺すつもりなら、さっきも言った通り、俺は死にたくねぇ」
「てめぇは死ぬんだよ、俺が殺すから死ぬんだよ、バカか」
「そう、そういうこと」
「……あぁ?」
憂馬は薄ら笑みを浮かべながら、適度に空いた真野との距離を縮める。
一歩ずつ、ゆっくりと近づいた。
「あんたが俺を殺そうとするなら、俺はあんたを殺すよ」
「ふははっ、できると思っているのかぁ?」
「だって、死にたくねぇもん」
「先にてめぇが言ったように、生きる意味を見出せないやつに生きる資格はないと思うがなァ」
一歩。
一歩と近づいて、憂馬と真野の距離はおよそ一メートルにまで縮まった。
「それが違うんだよなぁ。真野さん、あんたは何もわってねぇーよ。生きる意味なんて、誰にもねぇーんだから」
「ならば全員死ねばいいと?」
「違うね、全然そうじゃない。生きる意味なんてもんは、それこそが生きる意味なんだよ。生きる意味を探すために、みんな生きてるんだよ」
きっと、そういうものなんだよ――と、憂馬は恥ずかし気もなく言った。
「だから、俺は生きる意味を探すために生きる。こんなとこで死にたくねぇ」
「ふん、勝手に言ってろよ、シリアルキラー」
「《連続殺人鬼》か――かははっ」
憂馬は笑みを我慢することができなかった。
笑いが止まらない、笑い声が止まなかった。
まるで狂気の殺人鬼のように、奥底に眠った本性を現したかのように笑った。
笑って、笑って、笑い続けた。
「はははははははっ、ひひひっ、やべぇ、おもしれぇー。ふははははっ」
「…………あぁ?」
「喜べよ、真野さん――」
月夜の公園、微かな街灯に反射した赤色。
「俺は自分が生きるために、あんたを殺してやる」
「ぬかせ、ガキが」
「あんたがここで死ぬ理由は俺が生きるため、だ。俺の最初の――初めての殺人を見せてやるよ。初体験をくれてやる」
赤色は右手に隠し持っていた伊和里の短刀の切っ先を真野に向けた。
刃に映り込む自分の顔はあまりにも不器用に、あまりにも引き攣った笑みをこちらに向けていた。




