現実直視のレストレスネス
憂馬の過去に何か特別なことがあったというわけではなかった。
凄惨なトラウマもなければ、悲惨な環境下で育ったわけでもなかった。
極々一般的で平凡な家庭こそ幸せだという意見もあるだろうが、その観点から言ってしまえば、憂馬はそれなりに幸福で、それなりに不幸だったのだろう。
小学生だった頃に受けた暴力が『それ』の原因だったのか――いや、そんなことは当時の憂馬を語るまでもなく、忘却するに等しい些細な出来事に過ぎなかった。
今でこそ思い出し、そう言えばそんなこともあったなぁ、と過去回想に浸ることができるということは、つまりそういうことなのだろう。
人格を歪めた要因は見当たらない。
人という形を歪めた原因は見当つかない。
それならば、きっと――
「《連続殺人鬼》って名を有した者は過去に一人いたわよね。確か、えっと、何だったかしら」
「幟荻 肆季さんですねっ。消息不明からもう三年くらい経ってますけど」
「あら、そんなに経ってたかしら。この歳になると時間の経過が早いわ」
「もうーっ、まだまだ新鮮ぴちぴちの二十代じゃないですかっ! そんなこと言ってると本当に老けちゃいますよ!」
赤ヶ坂 行方と花孫 和花は寒空の下、雑居ビルの屋上で未だに会話を続けていた。
先ほどの商談では、行方が金で花孫を釣ることに成功したけれど、それが行動に移されることはなかった。
見れば。
公園の入り口付近に設置されたコンクリートのブロックを背に、憂馬と真野のやり取りを窺う伊和里の姿があったのだった。
道無 伊和里――《通り魔殺人鬼》。
行方と花孫はどうしても彼女との遭遇を避ける必要があった。
いや、避ける必然性はない、けれど、避けることができるならそうするべきだと判断した結果だった。
敵対関係にあるわけではない。
しかし、味方でもなかった。
中立と表現していいのかもしれなかったが、約束された立場でない以上、無暗な鉢合わせは避けるべきだった。
『血まみれの血統』――ブラッディ・ブラッドという、チームがある。
いや、チームと言うには足りない――『組織』とした方が正しいそれは、およそ一般人には知る由もないであろう名称であり、呼称だった。
平々凡々な民衆とはほど遠い世界の、埋まらない溝で隔離された世界でしか通用しない言語のようで、言うなれば、まるで聞いたことがない言語圏に属する国のようである。
日本語のようで、そうではない――しかし、先の比喩の間違いを正すと、何もあちらとこちらの世界が隔離されているというわけではない。
表裏一体ではなく、延長でしかない。
どちらが表でも、どちらが裏でもなく、果てのない線上の遥か先でしかない。
その遥か先を生きる者ならば、一度は耳にしたことがあろう組織が『それ』だった。
『血まみれの血統』――異常者により生み出され、異常者により組織された、異常者のみが形成する、異常者の集団。
莫大な資金源を有すると共に、人徳溢れる指導者がいるおかげか、数ある組織の中で最も多くの異常者が属している。
花孫 和香もその集団の一人であり、その集合体に属する異常者だった。
《執行者》――花孫は自分に与えられた真名とも言えるそれをひどく気にしていた。
と言うより、その蔑称の意味すら理解しておらず、流れに身を任せ、ただ言われたことをこなす、という子供染みた精神状態でこの世界を生きていた。
彼女に与えられる依頼は専ら監視役だったり、拘束役だったりで、そのおかげで無闇な争い事をせずに済んでいることが何よりの安堵感を覚えさせた。
勿論、そんな世界で生きている以上、そんな世界でしか生きることができない以上、人の死を避けることは到底できないのだけれど、
「やっぱりどちらかが死んじゃうんでしょうかね? 死ぬとしても、十人よりは五人、五人よりは二人、二人よりは一人、そんな風に考えてしまいますね……」
どちらかと言えば、そんな甘えた考えを持っている。
異常者が住まう世界の風説として、そのような思念はまかり通ってはいけないもののようで、やはり、その言葉を聞いた行方は大きく溜息を吐いた。
しかし、花孫も理解はしていた。
自分の考えが甘いということも、みなが否定的であるということも承知の上だった。
だからこそ、誰も死なない、という考えは最初からない――それはつまり、十人殺すか十人死ぬか、そんなことはどちらも同じで、十人助けるか十人助かるか、という問い自体がそもそも存在していないことを表している。
どうせ人は死ぬ。
何もしなくとも、いずれは死ぬ。
それが不運な交通事故でも、過去を顧みたくもなる殺人事件でもいい――人が生き続けるということはありえないのだ。
花孫も、少なくともその程度の理解はあった。
その点、いくら異常者の中でも珍しい考えを持つ花孫だからと言って、根本的には他と何ら変わりないのかもしれない。
「十人殺せるなら殺す。五人殺せるなら殺す。一人しか殺せないなら一人殺す――つまり、殺せなかった者は生きることができるし、殺されなかった者も生きることができるということよ」
「それって、わたしが言ってることと似てませんか? 殺せなかった人は助かるってことですよね?」
「いいえ、助けるつもりなんてないのだからそうは言えないでしょ。助かる者は自分で助かるのよ」
「行方さんも助かるといいですね」
「あら、私のこと心配してくれてるのかしら。まぁ、殺される時が来るなら、それはあなたの仕事になるわね」
「えー、行方さんを殺すなんてできるかなぁ……」
「いくら二人の生活が長くなってしまっているからと言って、私たちは本来、敵同士なのよ。隙があれば、私はあなたを殺すわ」
『深刻数字』――シリアス・ナンバーというチームがある。
花孫が所属する『血まみれの血統』が組織ならば――それは『仲間』。
同じ志を持ち、同じ希望を抱き、共に歩む『仲間』――と言ってしまえば、聞こえはいいかもしれないが、それは表面的な建前のようなもので、真の内容は己の固持であった。
例えば、強さを求める者や殺戮を追及する者、自己満足の塊やこじれた変癖ら、異常者の中でも極めて異例の異常者が集まる集団。
全てがバラバラで、全てはバラバラである。
それなのに、チームという形で団結している理由は主に利害の一致だった。
自分の利益が他者の利益になり得るというのはどの世界でも同じことだろう。
この場合の利益は、『世界』を牛耳ることだった。
一般の裏に潜む――いや、その延長に住まう異常者だけの世界を手にすることだった。
そして、損害というと、
「あの子、《先天性殺人鬼》と同じ臭いがするわね」
蔑称ではない、そんな敬称を得た《彼》を敵に回すことは、己の身を危険に晒すという意味でもあった。
誰も敵にしたくないのだ。
誰も敵対したくない。
誰も敵視したくない。
だからこそ、《彼》が所属する『深刻数字』に身を預けている者もいる。
「あの子が、ですか……?」
赤ヶ坂 行方の場合、その損害については特に気に留めていなかったけれど、何者かの手によって支配された世界を見てみたいという欲望が強かった。
その結果、『深刻数字』のメンバーとして活動することを決めたのだが、内心では、そんなことは不可能だろうと諦めていたに等しい。
だから、その願望が叶わなくとも落ち込むことはないし、叶ったところでそれが喜ばしいことなのかさえ見当もついていなかった。
リスキーな賭けをした彼女だったが、しかし、それは賭けでも何でもなく、子供がゲームに興味を持つような感覚でしかなかった。
「少なくとも、町屋と火事ちゃんはそう感じてるみたいよ」
「火事ちゃんって、漢字が違いませんか……?」
「いいじゃない、火事なんだから」
「はぁ……と言うか、いつのまに町屋 鶯と連絡取ってるんですかっ!携帯を使うときはわたしの目の前で、ってあれだけ注意してたのにっ!」
花孫は大きなアクションでまた狼狽する。
元気と活力が取り柄である。
「あなたの監視が甘すぎるのよ。別にいいじゃない、何を企んでいようが、下手に動けないのは確かなんだし」
「企んでるっ!?」
「あなたが監視役なら、私でも下手な真似はできないってことよ。これでも褒めてるのよ?」
「うぅー……うぅー……」
『深刻数字』にチームとしての団結はあるが、仲間としての団結力は薄かった。
それは組織理念が最初から破綻しているからなのだろうが、少なくとも、誰かのために自分が犠牲になることなど皆無だった。
尻拭いは自分でする、いつからかわからないが、そのような指針が根付いてしまっている。
しかし、殺し殺されの世界を生きる彼ら彼女らにとって、それは最早常識に近い。
殺すなら、殺されても文句は言えない。
しかし、死人に口なし。
それこそが、常識的にまかり通った風説なのかもしれなかった。
町屋 鶯も真野 梶にとっても――言われるまでもなく当たり前のことだった。
「まぁ、あの子が本物かどうかは見ればわかるでしょう。満足するまで観戦させて頂くとするわ」
「行方さん、映画を見てるわけじゃないんですよっ!」
「ちょうどいいわ、私コーラが飲みたいのよ。名前の通り、赤いやつね」
「わたし監視役なんですけどっ!?」
「あら、お姫様をさらった魔王は勇者が現れるまでせっせと働いて彼女を養ったそうよ?」
「そんな魔王なんて想像したくないですっ!」
この場合、行方と花孫のどちらが魔王でどちらがお姫様なんて、誰もわからなかった。