不可神域のナチュラルボーン
「ははっ、ひひっ……やっと見つけたぜぇ、なぁ、シリアルキラァァァァ――ッ!」
「……………………っ!?」
公園の広さには足りない街灯が暗闇をつくりだす中、憂馬はその中からさらに暗い影に襲われた。
背後からではない。
側面からでもない。
男は。
ガソリンのような異臭を放つ黒尽くめの男は――憂馬の正面だった。
ベンチに深く腰を据えて頭を垂らしていた憂馬はその影に気付かず、男のしゃがれた声によって失っていた意識を取り戻した。
考えに耽っていたというより、頭が真っ白になっていたとした方が正しい表現だった。
死んだ両親を引き裂いたあの時とは少し違う感覚――すっぽりと『自分』が抜け落ちたような感覚。
自分が自分のようではない、どころか、その自分さえもが欠落している。
欠陥している。
自分を形成する歯車の一つが――停止している。
「自己紹介でもしておくかぁ……あぁ?」
眼前至近距離。
零距離の対面。
息遣いが聞こえる。
ガソリンの臭いを感じる。
「真野 梶、《放火狂人》ってのが俺の真名だ」
よろしくなぁ、と真野は憂馬の耳元で囁いた。
囁かれたら最後、声を聞けば最後、まるで死神に呪われたかのような感覚を覚えた憂馬の額からは、全力疾走した直後と同じように大量の滴が滲んでいた。
脱力して、全身の毛がよだち、毛穴という穴からべたついた汗を感じる。
真冬の深夜だというのに、寒さは感じない。
感じるのは――全身で感じることができるのは、殺意と、狂気と、憎悪と、敵視だった。
敵。
殺意。
その圧力が憂馬の体をより硬直させていた。
けれど、それでも憂馬の思考は変わらずに停止していた。
身は強張り、足は震え、全身にびっしょりと汗を感じていた――感じていたけれど、それが何故なのか憂馬には理解することができなかった。
いや、そもそも、そんなことを思考する余地すらどこにもなかった。
狂気を前にしても。
殺意を前にしても。
『それ』が一体何で、『どう』なのか、何も認識できない。
ただ目の前に男がいる、それだけだった。
「……つまんねぇなー、おい」
真野の手が伸びた。
湿った厚い手袋が憂馬の首を掴んだ。
それも、片手で。
憂馬の首根っこを掴むには片手で事足りた。
決して憂馬の体躯が細いわけではない、真野の体格があまりにも巨大だった。
まるで、あの時と同じ――高校生に吊るし上げられた小学生の頃と同じだった。
徐々に力を込める真野は沈黙する憂馬の無表情を見て、一種の恐怖を感じた。
しかし、それも一瞬、次第に苛立ちが込み上げてくる。
「つまらねぇ、つまらねぇ……つまらねぇんだよクソガキィ……」
「…………」
苦しくないはずがない。
もがきたくないはずがない。
息も絶え絶え、呼吸器が機能していない。
けれど。
けれど――
どうしてだろう、何も感じない。
何も、感じることができない。
痛みや苦しみも、辛さも――憂馬の脳味噌はまるで麻痺したかのように、首から伝わる電気信号を拒絶していた。
ぐっ、と喉を絞められても。
握力によって首を引き千切られそうでも。
口腔内に隠れた長い舌が露になっても。
喉仏が音を立てて潰されても。
循環しない血を頭の中に感じても。
顔面蒼白でも。
「…………………………ひっ」
このまま俺が殺される?
この俺が殺される?
両親を殺したに等しいこの俺が、ここで死ぬ?
こんなにも簡単に?
こんなにもあっさりと?
そうだ、そうだよ、そうなんだよ――人は簡単に死ぬし、簡単に殺される。
生きることは難しいけれど、死ぬことはいつも簡単だ。
命は投げ捨てられる。
身はいつだって捨てることができる。
けれど、命は拾えない。
身を取り戻すことはできない。
人が生き返らないのと同じ、死んだら最後、二度と元には戻らない。
愛情も。
友情も。
その人の笑顔も、何もかもが消え失せる。
だから、命は尊ぶべきで。
尊ぶべき?
命を?
『生』を?
呆気なく終幕する命だからこそ、大切にするべき?
何考えてんだよ、俺。
そうじゃないだろ。
命は。
『生』は。
死ぬためにあるものじゃない。
人は死ぬために生きているわけじゃない。
生きる理由を、死ぬ理由を探して生きている。
生きているとは死んでいるということ。
死ぬということは生きているということ。
何もしないやつは死んでいる。
何もしないやつは生きていない。
死に損ないは理由を探して生きろ。
生き損ないは勝手に死ね。
『生』とは『死』。
『死』とは『生』。
死ぬのなら、生きて死ね。
死ぬのなら、死んでから生きろ。
命は捨ててこそ輝くものだ。
『生』とは投げ捨てて煌くものだ。
死ねば積雪、舞えば粉雪。
生きるということはきっと、思った以上に単純で、思った以上に難しい。
死ぬということはきっと、思った以上に複雑で、思った以上に簡単だ。
だから。
ならば。
それならば、俺はここで死のう。
そして、ここから生きよう。
死ぬのなら、生きてみせよう――生きるのなら、死んでみせよう。
『生』と『死』はなにも対極ではない。
隣同士で、切ろうにも切れない鎖で繋がれた共同体だ。
だから。
一度死んだ俺は、ここからもう一度生きよう。
そう思えた――
「……ひっ、ひひっ…………はひひ、ははははははははひひひひひひひひひひひっ!!」
「――っ!?」
気管が狭まった喉から発せられた声はもはや人のものではなかった。
喉鳴りのような奇妙な音が、笑い声のような歪な音が暗闇の中に響いた。
憂馬の。
憂馬の笑い声だった。
「きひひっ……もう知らねー、もうどうでもいいやぁ。何でだろうなぁ、こんなにも辛いのに、こんなにも疲れてんのに――何で俺は、こんなにも気分がいいんだろうなぁ」
憂馬は先ほどまで力を失っていた手で、真野の手首を掴んだ。
全身の力を感じて、全身の力を込めて、全身全霊を賭けて、太い手首を締め上げた。
捻るように。
捻り上げるように。
湿った手袋からぽたぽたと正体不明の滴がこぼれる。
「……ふははっ、やっとお目覚めかよぉ、シリアルキラァァァァァッ!!」
「シリアルキラーなんて――」
憂馬は真野の手首を握ったまま、強引に首から離して、
「シリアルキラーなんて――俺は知らねぇ」
憂馬の瞳は常人のそれではなく。
まるで血液を目玉に流し込んだかのような、赤い――赤い瞳だった。
鮮血混じりの、赤目。