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田斉

威王

元年:三晋が斉の喪に乗じて攻め込んできて霊丘(山東省)を抜いた。

二年:

三年:三晋が晋の子孫を滅ぼして其の地を分けた。

四年:

五年:

六年:魯が斉を攻めて陽関(山東省)にいたった。魏が斉を攻めて博陵(山東省)にいたった。

七年:衛が斉を攻めてセツ陵(山東省)を抜いた。

八年:

九年:趙が斉を攻めてケン(山東省)をとった。初めて政務を執り、即墨の大夫を万戸の邑に封じ、阿の大夫を煮殺した。趙・衛を攻め、魏を濁沢に破って恵王を包囲した。魏は観(山西省)を献じて和を請うた。趙が斉に頂上を返した。

十年:

十一年:

十二年:

十三年:

十四年:

十五年:

十六年:

十七年:

十八年:

十九年:

二十年:

二十一年:

二十二年:

二十三年:趙公と平陸(山西省)で会見した。

二十四年;魏公と会見して都(臨シ?)で会見し、郊外で狩をした。

二十五年:

二十六年:魏の恵王が趙都・邯鄲を包囲した。段干朋の進言にしたがってこれを援けた。

二十七年:

二十八年:

二十九年:

三十年:

三十一年:

三十二年:

三十三年:大夫牟辛を殺した。

三十四年:

三十五年:公孫閲にそそのかされた成侯に謀られて、田忌が成侯を捕らえようと臨シを攻めたが、勝てずに出奔した。

三十六年:威王が死に、宣王が立った。


宣王

元年:秦が公孫オウを登用した。周室が秦の孝公をとし、覇者として諸侯の旗頭にした。

二年:魏が韓を攻めた。趙と魏は親交していたのでともに攻めたが、南梁(河南省)で敗れた。宣王は出奔していた田忌を復職させた。韓が魏に攻められて救援を求めてきたので、田忌・孫子の言を入れ、韓が魏に五度敗れてから出兵した。田忌・靖郭君田嬰を将軍とし、孫子を軍師として魏の要地・馬陵(山東省)で魏将・ホウケンを討ち、太子申を捉えた。その後、三晋の王が田嬰を通じて博望(河南省)に斉王を訪礼した。

三年:

四年:

五年:

六年:

七年:魏王と平阿(安徽省)で会見した。

八年:魏王と再びケンで会見した。魏の恵王が死んだ。

九年:魏の襄王と徐州で会見した。諸侯が互いに王を称した。

十年:楚が斉の徐州を包囲した。

十一年:魏とともに趙を討った。趙は河水を決して両軍を水攻めにしたので戦いは止んだ。

十二年:

十三年:

十四年:

十五年:

十六年:

十七年:

十八年:秦の恵文王が王を称した。スウエン・淳ウコン・田ペイ・接予しょうよ・慎到・環淵らを始めとした七十六名の学士に列第(連なった邸宅)を与えて上大夫にした。

十九年:宣王が死に、子の湣王びんおうが立った。


湣王

元年:秦が張儀に命じて諸侯の執政たちを齧桑げっそう(河南省)で会見させた。

二年:

三年:田嬰をセツ(山東省)に封じた。

四年:秦から夫人を迎えた。宋とともに魏を攻めて観沢(河南省)を抜いた。

五年:

六年:

七年:

八年:

九年:

十年:

十一年:

十二年:魏を攻めた。楚が韓の地、ヨウ氏(河南省)を包囲した。秦が楚の大夫・屈カイを破った。

十三年:秦の恵文王が死んだ。

十四年:

十五年:

十六年:

十七年:

十八年:

十九年:

二十年:

二十一年:

二十二年:

二十三年:秦とともに楚軍を重丘(山東省)に破った。

二十四年:秦がケイ陽君を斉に人質にした。

二十五年:ケイ陽君を秦に帰した。孟嘗君田文が秦に入り、秦の相となった。しかし誅殺されそうになったので逃げ帰った。

二十六年:斉が韓・魏を伴って秦を攻め、函谷関にいたって駐軍した。

二十七年:

二十八年:秦が韓に河外の地を与えた(これはおそらく、韓・魏に河北及び封陵の地を与えた※秦本紀より、昭襄王十一年)講和したので戦いは止んだ。

二十九年:趙がその主父を殺した。斉が趙を助けて中山を滅ぼした(この前年に中山は滅びているので、誤りと思われる)。

三十年:

三十一年:

三十二年:

三十三年:

三十四年:

三十五年:

三十六年:秦が魏ゼンを使者に立てて帝号を奉ったので帝を称したが、蘇代の進言に従ってこれをやめた。秦もまた帝号をやめた。

三十七年:

三十八年:宋を攻めた。秦の昭襄王は宋と誼があったので、これを怒り、その怒りの矛先を斉の謀臣であり昭襄王とも親しかった韓聶に向けた。蘇代が斉のために秦に赴き、昭襄王に斉が宋を攻めることが秦の利益になることを説いて宋侵攻を納得させた。かくて斉は宋を攻め、宋王は亡命して魏の温(河南省)で死んだ。斉は、南は楚のワイ北を掠め取り、西は三晋を攻め、周を併呑して天子になることを望んだ。スウ・魯など泗水のほとりの諸侯は斉を恐れた。

三十九年:秦が攻めてきて、斉の九城を落とした。

四十年:燕・三晋・秦・楚が連合して、済西で斉と激突し、斉は敗れた。斉王は都を捨てて衛に亡命したが、湣王びんおうは不遜であったので衛人は怒ってビ王を攻めた。そこで魯・スウに逃げたがやはり不遜であったので両国は入国を拒んだ。ビン王はキョに逃げた。楚はドウ歯に命じて斉を援けさせた。ドウ歯は斉の宰相になったが、湣王びんおうを殺し、燕と組んで斉を侵してその土地と宝器を分けた。


襄王

元年:キョの人が湣王びんおうの子・法章を立てて王とした。即位して間もないころ、当時諸侯間で中立を保っていた田文と和睦した。まもなく田文は死に、孟嘗君と諡された。

二年:

三年:

四年:

五年:田単が即墨(山東省)を拠点として斉の旧領を悉く回復させ、臨シに襄王を迎えた。襄王は田単を封じて安平君とした。

六年:

七年:

八年:

九年:

十年:

十一年:

十二年:

十三年:

十四年:

十五年:

十六年:

十七年:

十八年:

十九年:襄王が死に、子の王建が立った。

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