趙
烈侯
元年:魏の文侯が中山を撃ち、太子の撃にこれを守備させた。
二年:
三年:
四年:
五年:
六年:三晋がみな独立して諸侯になった。
七年:
八年:
九年:烈侯が死に、弟の武公が立った。
武公
元年:
二年:
三年:
四年:
五年:
六年:
七年:
八年:
九年:
十年:
十一年:
十二年:
十三年:武公が死に、太子の章が立った。魏の文侯が死んだ。
敬侯
元年:武公の子、朝が乱を起こしたが勝てずに魏を出奔した。趙が初めて邯鄲(河北省)に遷都した。
二年:斉を霊丘に破った。
三年:魏をリン丘(山東省)で救援して斉を破った。
四年:魏が趙の兎台(河北省)を破った。剛平(河北省)に築城して衛を犯した。
五年:斉・魏が衛のために趙を侵して剛平を取った。
六年:楚に兵を借りて魏の棘蒲(河北省)を抜いた。
七年:
八年:魏の黄城(河南省)を抜いた。
九年:斉を討った。斉が燕を討った。趙が燕を援けた。
十年:房子(河北省)で中山と戦った。
十一年:韓・魏・趙がともに晋を滅ぼしてその領地を分けた。中山の都を打ち、また中山の邑、中人(河北省)で戦った。
十二年:敬侯が死んだ。その子、成侯種が立った。
成侯
元年:公子の勝が即位を争って乱を起こした。
二年:六月に雪が降った。
三年:大戊午を宰相にした。衛を討ち七十三の郷邑を抜いた。リン(リン相如のリン)(山西省)で衛に敗れた。
四年:高安で秦(山西省)と戦い、破った。
五年:ケン(煙の右におおざとへん)(山西省)で斉を破った。懐(河南省)で魏に敗れた。鄭を破りこれを韓に与えた。
六年:中山が長城を築いた。魏をタク沢(タクはさんずいに琢の右)に破り魏の恵王を包囲した。
七年:斉を侵して長城に至った。韓とともに周を攻めた。
八年:韓とともに周を東西に分けた。
九年:斉と阿下(山東省)で戦った。
十年:衛を攻めてケンを抜いた。
十一年:秦が魏を攻めた。これを石阿(山西省)で援けた。
十二年:秦が魏の少梁を攻めた。趙がこれを助けた。
十三年:秦の献公が庶長の国に魏の少梁を討たせてその大使のザを捕虜にした。カイ(さんずいに檜の右)で魏に破れ皮牢(山西省)を抜かれた。韓の昭侯と韓の地、上党(山西省)で会見した。
十四年:韓とともに秦を攻めた。
十五年:魏を助けて斉を攻めた。
十六年:
十七年:魏の恵王と魏の葛ゲツ(河南省)で会見した。
十八年:
十九年:斉・宋と平陸(山東省)で会盟した。燕と西阿(河北省)で会盟した。
二十年:魏がたるきにする良材を献じてきたので壇台を作った。
二十一年:魏が邯鄲を包囲した。
二十二年:魏の恵王が邯鄲を攻略した。斉が魏を桂陵(山東省)に破った。
二十三年:
二十四年:魏が邯鄲を趙に返した。魏とショウ水(ショウはさんずいに章)のほとりで会盟した。秦が趙のリンを攻めた。
二十五年:成侯が死んだ。公子のセツ(糸偏に蝶の右)が太子であった粛侯語と即位を争った。セツは敗れて韓に亡命した。
粛侯
元年:端氏(山西省)を奪って晋君を趙の屯留(山西省)に移した。
二年:魏の恵王と国境の陰晋(山西省)で会見した。
三年:公子のハン(草冠に氾)が邯鄲を攻めたが勝てずに死んだ。
四年:天子に参朝した。
五年:
六年:斉の高唐(山東省)を抜いた。
七年:公子の刻が魏の首垣(河北省)を攻めた。
八年:
九年:
十年:
十一年:秦の孝公が商君に魏を討たせた。秦は魏将・公子コウ(昂の下)を虜にした。趙が魏を討った。
十二年:秦の孝公が死に、商君も死んだ。
十三年:
十四年:
十五年:寿陵を起工した。魏の恵王が死んだ。
十六年:粛侯は大陵(長城の要所。山西省)に遊んだ。鹿門から出ようとしたが大戊午に諫められて止めた。
十七年:魏の黄(河南省)を包囲したが勝てなかった。長城を築いた。
十八年:斉と魏が趙を討った。趙は黄河の水を決してこれを水攻めした。斉・魏の軍は去った。
十九年:
二十年:
二十一年:
二十二年:張儀が秦の宰相となった。趙シが秦と戦って敗れた。秦は河西で趙シを殺してリンと離石(山西省)を取った。
二十三年:韓将・韓挙が斉・魏と戦って燕の桑丘(河北省)で死んだ。
二十四年:粛侯が死んだ。秦・楚・燕・斉・魏がそれぞれ一万の精兵を派遣して会葬した。子の武霊王が立った。
武霊王
元年:陽文君趙豹が宰相であった。魏の襄王が太子の嗣とともに、また、韓の宣王が太子の倉とともに信宮(趙の宮殿)に来朝した。
二年:
三年:コウ(高におおざとへん)に築城した。
四年:韓と趙の区鼠(河北省)で会見した。
五年:韓の公女を娶って夫人とした。
六年:
七年:
八年:韓が秦を討ったが勝たずに引き返した。この頃諸国がこぞって王を称したが趙は王号を用いなかった。
九年:韓・魏とともに秦を討った。秦は三晋を討ち首八万を斬った。斉が趙を趙の地の観沢(河北省)で破った。
十年:秦が趙の西都と中陽(ともに山西省)を抜いた。斉が燕を破った。燕の宰相の子之が国君になり、燕王が臣になった。
十一年:燕の公子職を韓から呼び寄せて燕王に立て、楽池に命じて燕に送らせた。
十二年:
十三年:秦が趙のリンを攻略し、趙将・趙壮を虜にした。楚・魏の王が邯鄲を訪れた。
十四年:趙何が魏を攻めた。
十五年:
十六年:秦の恵文王が死んだ。恵后が宮廷に入った。
十七年:常山の九門を出て望台を作り、斉と中山を望見した。
十八年:秦の武王が死んだ。代の宰相趙固を燕に派遣して秦の公子ショクを迎えて秦王に立てた。
十九年:春正月に肥義を召して五日間天下を議した。中山を通って房子(河北省)に至り、代に行き、また北進して無窮の門(趙襄子の建てた門)に至り、西進して黄河に出て黄華山に至った。楼緩・肥義に諮り、反対する公子成を説いて胡服騎射を実行し、騎射する人士を招いた。
二十年:中山を攻め、中山の寧カ(河北省)に至り、西進して胡の楡中(陝西省)に至った。林胡の王が馬を献じた。帰国後、楼緩を秦に、仇液を韓に、王ホンを楚に、富丁を魏に、趙爵を斉に派遣した。代の宰相、趙固が胡を司り兵を集めた。
二十一年:中山を攻めた。右軍の将を趙ショウ(ショウはネ召)、左軍の将を許キン(金偏に均の右)とし、公子章を中軍の将として趙君はその全軍を束ねる総大将となった。牛センを車騎将軍とし、胡・代・趙の三軍の将に趙希がなり、ともにケイ山(ケイはこざとへんに脛の右)に赴いた。これら全軍を曲陽(河北省)に集めて中山の要地の丹丘・華陽・テイ(邸の左に鳥)を抜いた。趙君の軍はコウ(高におおざとへん)・石邑・封竜・東垣を抜いた。中山は四邑を献じて和を請い、趙君はこれを受け入れた。
二十二年:
二十三年:また中山を攻めた。
二十四年:
二十五年:恵后が死んだ。周ショウ(ネ召)を胡服させて公子何の守役にした。
二十六年:また中山を攻めた。各地の敵を掃討し、北進して燕・代にいたり、西進して胡の雲中・九原・にいたった。
恵文王
元年:肥義が宰相となり、恵文王の守役を兼ねた。先代の趙君は主父と号した。主父は西北して胡地を攻め、雲中・九原より南下して秦を攻めることを考えた。そこで偽って使者となり、秦の地形を調べ、秦王の人となりを見た。追跡されたが馬を駆って窮地を脱した。
二年:新領地を巡って代に出て、西進して西河で楼煩王と会見してその兵を徴収した。
三年:中山を滅ぼし、中山王尚を膚施(陝西省)に遷した。北地が代に属し、霊寿を起点に代への道が開けた。行賞し、大赦を行い、宴を催して五日間群臣に会飲させた。長子・章を代に封じて安陽君とし、田不礼をその宰相とした。
四年:沙丘の乱が起きた。安陽君は殺され、主父は餓死した。
五年:燕にバク(莫におおざとへん)・易(ともに河北省)を与えて友好を結ぼうとした。
六年:
七年:
八年:南行唐(河北省)に築城した。
九年:趙梁将軍が斉と連合して韓を攻め、魯関(河南省)にまでいたった。
十年:秦が西帝、斉が東帝を称したがすぐにやめた。
十一年:董叔が魏とともに宋を討ち、河陽(河南省)を魏より得た。
十二年:趙梁が斉を攻めた。公主(趙王の妹)が死んだ。
十三年:
十四年:相国(燕との兼任?)の楽毅が三晋・燕・秦を束ねて斉を攻めて霊丘(山東省)を得た。秦と趙の中陽(山西省)で会見した。
十五年:燕の昭王が来朝した。燕・韓・魏・趙・秦とともに斉を攻めた。斉は敗走した。燕だけが臨シを攻めた。
十六年:秦と結んでしばしば斉を攻めた。蘇レイ(蠣の右)が斉のために趙王に書簡を送った。趙は秦に辞謝して斉を攻めるのを止めた。燕王と会見した。廉頗が将軍となり斉の昔陽を抜いた。
十七年:楽毅が趙将となり魏の伯陽(河南省)をせめた。秦は趙が斉を討たないことを怨み、趙の二城を攻めた。
十八年:秦が趙の石城(河南省)を抜いた。ふたたび衛の東陽(山東省)に行き、河水を決壊させて魏を討った。大雨でショウ水(ショウはさんずいに章)が氾濫した。秦の魏ゼンが来朝して宰相になった。
十九年:秦が趙の二城を抜いた。趙が魏に伯陽を与えた。趙奢が将軍となり斉の北境の麦丘を攻めた。
二十年:廉頗が将軍となり斉を攻めた。王が秦の昭襄王と西河の外で会見した。
二十一年:ショウ水の水路を武平の西に移した。
二十二年:疫病が流行った。公子の丹を太子にした。
二十三年:楼昌が将軍となり魏の幾(河南省)を攻めたが抜けなかった。
二十四年:廉頗が将軍となって魏の房子(河北省)を抜き、築城して帰った。
二十五年:燕昌が将軍となり斉の昌城・高唐(ともに山東省)を抜いた。魏とともに秦を討った。秦の白起が華陽(河南省)で趙軍を破り、一将軍を捕虜にした。
二十六年:東胡が趙に背いて代人に反乱を起こさせたのでこれを鎮めた。
二十七年:ショウ水の水路を武平の南に移した。王の同母弟、趙豹を平陽君に封じた。大雨で河水が氾濫した。
二十八年:リン相如が斉を攻め、平邑(山東省)まで攻め込んだ。趙の北九門(河北省)に大城を築いた。燕将・公孫操がその王(燕の恵王?)を殺した(?)。
二十九年:秦・韓が連合して趙を攻め、アツ与を包囲した。趙奢を将軍として救わせた。趙奢に馬服君という号を与えた。
三十年:
三十一年:
三十二年:
三十三年:恵文王が死んで太子の丹が立った。
孝成王
元年:太后(恵文王の威后)が政事にあたっていた。秦が趙を攻めて三城を抜いた。斉に助けを求めた。斉は出兵の条件として趙王の同母弟・長安君を人質とすることを求めた。太后は反対したが、大臣らがこれを説得して長安君を人質として斉にやった。斉から援軍が送られてきた。斉の安平君が趙軍を率いて燕の中陽(河北省)を抜いた。韓の注人(河南省)を抜いた。
二年:太后が死んだ。田単が趙の宰相になった。
三年:
四年:王が奇怪な夢をみた。これを占わせると、この夢は損なうという意をもち、気はあれど実らず、やがて憂禍が起こることを示していると言われた。韓の上党の太守フウ亭が来て、上党の十七の城市を趙に服属してほしいと願った。平陽君豹は拒むことを提言したが、平原君と趙ウは受けろと言った。王は二人の言を入れてこれを受けた。
五年:
六年:廉頗が軍を率いて長平に駐屯した。
七年:廉頗が免ぜられ、趙括が将軍となった。秦軍が趙括を囲んだ。趙括は全軍を率いて降った。秦は趙の全軍を生き埋めにした。しかし趙王はなお秦の命を聞かなかった。秦軍が邯鄲を包囲した。燕の地・武垣に県令、フ豹・王容・蘇射が燕の民衆を率いてそむいた。趙は霊丘(山西省)を封陵として与え、楚の宰相・春申君を封じた。
八年:平原君が楚に行き、救援を請うて帰った。魏公子・無忌もまた来援した。秦は邯鄲の包囲を解いた。
九年:
十年:燕が趙の昌城を攻め、五月に抜いた。趙将の楽乗・慶舎が秦将・信梁の軍を攻めてこれを破った。趙の太子が死んだ。秦が西周を抜いたので、秦に備えて大夫の徒父棋が軍を率いて国境を出た。
十一年:趙の元氏(河北省)に築城し、その近くの上原を県とした。秦から趙に下って趙の将軍であった武陽君鄭安平が死んだのでその地を没収した。
十二年:邯鄲の、馬の食料庫が焼けた。
十三年:
十四年:平原君趙勝が死んだ。
十五年:ウツ文の地に相国・廉頗を封じて信平君と称した。燕王が丞相栗腹に趙と平和友好をさせ、五百金を趙王の酒肴料として献じさせた。栗腹は帰国後、燕王に趙を攻めることを勧めた。燕王は昌国君楽間に諮ったが、善しとしなかった。他の群臣が善しとしたので燕王は怒って上軍・下軍を起こした。栗腹が将軍となってコウを攻め、卿秦を将軍として代を攻めさせた。廉頗を将軍としてこれに当たらせ、燕軍を破って栗腹を殺して卿秦を捕虜にした。楽間は趙に出奔した。
十六年:廉頗が燕を囲んだ。楽乗を武襄君とした。
十七年:仮の宰相で、元帥でもある武襄君が燕を攻めて国都を包囲した。
十八年:延陵キンが軍を率いて相国廉頗に従って魏を援けて燕を攻めた。秦が趙を攻めて楡次(山西省)の三十七城市を抜いた。
十九年:趙が燕に竜タイ・フン門・臨楽の邑を与え、燕は趙に葛・武陽・平舒の邑を与えた。
二十年:秦王政が立った。秦が趙の晋陽を抜いた。
二十一年:孝成王が死んだ。廉頗が魏の繁陽(河南省)を抜いたが、楽乗と交代させられたので、廉頗は楽乗を攻めて敗走させた。廉頗は魏に出奔した。孝成王の子、エンが立った。