表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/38

 2 ・二千十四年六月初頭(3)

「仲がよいね、君と恵理紗は」

 とある土曜日の午後、ソフィアまでがそんなことを僕に言う。

 僕は背中を壁から離し、ゆっくり顔を上げた。日本人離れした(当たり前だ)ソフィアの顔が、曇り空の下にあった。

 僕がいるのは、毎日通う高校の体育館の外壁に沿ってぐるりと敷設されている通路だった。幅は狭いが、ところどころにベンチが置いてあり、場所によっては風が上手く流れて心地いい場所。

 体育館の内部からは、いくつかの運動部の立てる足音やボールの音、威勢のいい掛け声がくぐもって聞こえてくる。休日の部活練習日と言うわけだ。演劇部も同じで、舞台上を使って練習を行っていた。

 今は、その昼休みというわけだ。皆それぞれ弁当などで昼食をとっている。恵理紗は近所のコンビニにパンを買いに行っていたので、僕は一人お気に入りの場所でカロリーバーをぱくつきながら台本の細かな手直しを進めていた。

「ここ、いい?」

 僕が黙っていると、ソフィアは僕の隣を指した。軽く顎を引いて答えると、やわらかく音を立てもせずに座ってくる。

「最近、特によく耳にするよ。二人のこと」

「誤解だけれど、訂正して回るのもおかしな話だからね」

 放置するしかないことも、放置しておいて別に問題ないことも、ある。

 ソフィアは、失笑したようだった。軽く肩を震わせる。長い睫が揺れる。

「少なくとも、君のほうにとっては十全噂ってわけでもないでしょ」

 カロリーバーの最後の一口を、僕は咀嚼する。数秒間をそれで稼ぎ、その間に考える。

「ソフィアさんは目がいいね」

「ソフィアでいいよ。君にさん付けされるととても不自然で気味が悪い」

 ソフィアとは、まだそんなに親密な仲ではなかったはずだけれど、本人がそういうのならと僕は呼び方を改める。

「まあ、百パーセントではないにしろ、ほとんどデマだよ」

 僕と、恵理紗は深い中ではあるかもしれないが、噂はそれをお互いに好き好き大好きチョー愛してる状態であると規定する。

 何度も流れた噂だった。そしてすぐに消えることも分かっている。

 中学時代。あの春の日に恵理紗が僕の頬を優しく全力で張り倒した日から、当たり前だけど僕と恵理紗はクラスで孤立した。あらぬ噂をたっぷり立てられ、「暴力女」と「淫乱男」のカップルが出来上がった。噂を立てる者の頭の中でだけ。

 お互いまともに会話する相手が一人だけだった僕と恵理紗は、そんな状況を全く気にしないでもなかったが、まあ仕方ないと卒業まで甘受した。高校に行けばまた元に戻ると分かっていたし、実際その通りだった。

 昔に比べれば、今流れている噂は控えめで、優しく、可愛いものだ。誤解ではあるが、本当にそうであったら良いと、僕も思う。ソフィアの言う通りだ。

「上手くいかないものだよ」

「いいじゃない? 噂だろうと何だろうと、後押しになるでしょ。さっさと押し倒しちゃいなよ」

 物騒なことを言う。

「学生時代は短いよ。さっさとものにしないと」

「おせっかいだな。顔に似合わず日本人的だ」

 からからと明るい声でソフィアは笑った。

「どうしてソフィアがそんなこと気にする? なんか、そういうタイプの人には見えないんだけど」

 僕は正直に訊く。ソフィアは、あくまで僕の主観でしかないが、人の恋愛にいちいち首を突っ込んで一喜一憂して楽しむタイプには見えない。ああいうのは、盲目的に(その本質的な部分での悲劇性を知らず)恋愛に憧れ、しかし自分には上手く相手が見つからなかったり機会がなかったりする人間が、嫉妬と羨望の元に盛り上がるものだ。

 ソフィアはそういうタイプではない。そもそも見た目からして超絶美人だ。一声かければ男なんてダース単位どころかトン単位で釣れる。

「それはさ、ほら、わたし、有理のことが実はひそかに大好きで、気になってもうやきもきして眠れないから」

「悪趣味な冗談だ」

 またもソフィアはけらけらと笑う。僕は心の中でひっそりと、他の男子にはこういう冗談言うなよ、と注意する。美人の恋愛がらみの冗談は危険だ。

「まあなんて言うか。有理はほら、恵理紗とはお似合いだと思うから」

「本当にそうならいいんだけれどね」

「そうあるべきだよ。一人くらい上手くいっても良い」

 一人くらい? 言葉の意味が上手くとれずに、困惑する。

 考え込む前に、欠伸が出た。食事が腹に溜まって、元々あった眠気を大きくしていた。

「寝不足?」

「かもしれない。このところ、夢見が悪くてさ」

「例の、幻覚だか幻想だか妄想だか?」

 そうそれ、と首を縦に振りかけて、止まる。ソフィアに話した覚えはない。恵理紗にだって、話したことはないのだ。

「……僕の記憶違いか?」

 違和感が、せりあがる。味わったことのある違和感だった。一月近く前、転校してきたばかりのソフィアと話した放課後。人の心を読んだかのような言動……。

「その反応は、私の言ったことが当たってるって証拠だね」

「実際、当たってるしね」

「ふぅん。隠さないんだ」

「特に困るものでもないから。まあ、寝不足はちょっとやだけど」

「病院に行ったことは?」

「ない。今も言ったけど、困ってないから」

 そっか、とソフィアは三度笑う。銀に近い色に輝く髪がさらさらとなびいて、僕の腕をくすぐった。

「でも、正解かな」

「正解?」

「有理のそれは、病気ってわけでもないから。医者にかかったって何も分からないと匙を投げられるか、適当な病名を当てられて終わりじゃないかと思う」

「ソフィアは……分かるってこと? これが、何なのか」

 訊くと、ソフィアはこちらを向いた。その顔には、先ほどまでとは明らかに異なる種類の笑みが張り付いていた。

「……そこはさ、有理、『どうして僕の幻覚のことを知っているんだ!』とか驚くところなんだけどな」

 確かに、それはおかしなところだ。でもまあ、いい。「だからどうした」だ。直接害にならなければ別にいい。

 こういう諦めは、僕の強さであり、脆弱さだった。恵理紗が嫌う部分だ。直そうとはしているが、なかなか難しい。

 ソフィアは「まあいいか」とだけ短く言って、続けた。

「有理のそれは、病気じゃない。病気ってことに出来なくはないけれど、それよりは、個人の特性としたほうが分かりやすい。色覚異常ってあるでしょう?」

 ある色が別の色に見えたり、いくつかの色だけが見えなかったりするという症状を、恵理紗は僕に説明して見せた。

「そういう人たちにとって、世界の見え方は、それ以外の人と違うよね。色だけだけれど、普通、赤が見える人は、見えない世界を見ることが出来ない」

「……僕の『見え方』もまた、他人と異なる特性に基づくものだと?」

「その通り。しかもそれは、多分この今の地球の技術じゃ、遺伝子や脳細胞の一つ一つをつぶさに観察したって、紐解けない謎に守られている」

「ソフィアは医学や科学で世界的な権威を持っているのかな」

 冗談と皮肉を織り交ぜて言葉を投げる。気を悪くするかなと思ったが、ソフィアはこれも笑った。

「……私が、電波な人間だと思う?」

「さあ。どうだろう。言ってることはむちゃくちゃな気がするけれど――」

 特性、か。世界の見え方。彼女の説明は、長い間幻想・幻覚・妄想を見てきた僕には、どこかしっくりくるものだった。あまり批判する気になれない。

「不思議な人はいるものだからね。特に、ソフィアみたいな美人は、稀人だ」

「だから、心を読まれても、自分だけの秘密の症状を言い当てられても、気にしない?」

「気にしないわけじゃない。けど、分からないんだ、どう反応すればいいのか。本当に分からないことには、人は戸惑うしかないんだよ。怒ったり焦ったり怖がったりするのは、それが何なのか分かっているか、分かっていると勘違いしているときだけだ」

 僕のそんな、開き直った屁理屈とも取れる言葉に、ソフィアは瞳を僅かに収縮させた。きゅっとすぼまった瞳孔が綺麗だった。

 それから彼女は、仕切り直すように口を開いた。

「ねえ、有理、SFは好き?」

「嫌いじゃないよ」

「好きでもない?」

「胸張って好きだって言えるほどは読んだり見たりしてない」

「ふぅん。タイムトラベルものって、分かるよね?」

「タイム・マシン。夏への扉。バックトゥザフューチャー」

「そうそれ」

 一つ息をついた後で、ソフィアはものすごい早口で次々と呪文のようなものを唱えた。それはよく聞いてみれば、古今の時間移動ものの作品名だった。早口と言うのもアホらしい速度で、一度もかまずに素晴らしい滑舌が披露される。なるほど、役者向きだ。かろうじて聞き取れたのは、最後の二つだけだった。ここがウィネトカなら君はジュディ、時をかける少女。

「よく知ってるね……」

「頭の中が人と違う造りなの」

 さらっと言ってのける。もしかしたら美人にしかない脳領域があるのかもしれないなと僕は下らないことを考えた。

「じゃあ有理、エヴェレットの多世界解釈は?」

「過去への旅のお供だ」

 にま、っとソフィアが満足そうに笑顔を浮かべて頷いた。「当たり」ということだ。

「私は科学にもSFにも詳しくないからいくらかの誤りは許して欲しいのだけれど」

 前置きして、ソフィアは語り始める。

「ミクロな範囲での物理現象を取り扱う量子力学においては、物質を構成する微小な粒子の運動は原理的に確率でしか語る事が出来ない。それ故に未来は不確定でしかない。しかしその微小粒子によって構成されるマクロな物質は――例えばボールやリンゴは、ニュートン力学に則った、予測可能な運動を行う。非確定的な物によって形作られる物質が、確定的な動きを行う――この問題について、誰もが納得する回答を示すことが出来る者はいなかった」

「それで、いくらかの『解釈』が生まれた。コペンハーゲンとかね」

「そ。コペンハーゲン解釈。重ね合わせ状態にある物質は、観測されることによって一意に収束する。だけど、観測って? どうして『収束』なんてものが起こらなければいけない? もともとは非確定的なのにどうして収束しなきゃいけない?」

 なんともむずむずする部分だ。僕らの身体も、確率的分布でしかないものによって作られているはずなのに、きちんと古典力学に則って運動する。

「じゃあ、そもそも収束なんてナシにして、全部の確率が存在してることにすればいい。『収束』で消える可能性は、それぞれ別の世界、別の宇宙で存在していると考えればいい。多くの世界への分岐。多世界解釈」

 便利な話だった。専門家たちの間では支持者が他の説に比べ少数派らしいけれど、この解釈を福音とするものもいたのだ。

 すなわち、タイムトラベルものの作者だ。

「過去へ戻って親を殺す。なくした財布を取り戻すために、過去に戻って過去の自分の財布を盗む。原因と結果がループしたり矛盾したりする。因果関係が崩れる。でも世界が分岐すれば、そんな古典的なタイムパラドックスの問題は、それで解決できる。そこから世界が分岐したのだから、それはもう別の世界の出来事であって、面倒な矛盾は起きない」

 どう? と確認を求めるようにソフィアは視線を僕に振る。大体あってる、と思う。僕も詳しいわけじゃない。僕はやや曖昧に首を縦に振り、肯定した。

「でもだとしたらさ、有理、世界って、どれぐらい増えていると思う?」

「どれぐらいって……」

 僕は想像する。生きた猫の世界と死んだ猫の世界。そんな単純な分岐だけではない。電子を一粒飛ばしてそれがどこに行くかなんて事を考え始めたら、その可能性たるや膨大なものとなる。

 可能性。膨大な可能性。最小時間単位で膨れ上がる可能性。次の瞬間、僕は指先をどの方向にどれだけ動かすのか。それと同時にどの街路樹からどの葉っぱが落ちて、どんな軌道を描いて道路に落ちるのか。どんな車がそれをどんな風に踏み潰すのか、あるいは踏み潰さないのか。

「なんだか、とても多く思える」

「ええ、とても多い」

 ソフィアの口調は、断定的だった。

「それどころか、ほとんど無限だといってもいい。宇宙一つ、そこに含まれる可能性とその分岐。何もかもが無制限に可能性を広げ、世界は無数に枝分かれすることになる」

 僕が今、着ている服の色が僅かに異なるだけの、『近くの』別宇宙。

 訓練された飛竜に乗り、瘴気溢れる谷へと進軍する僕のいる、『遠くの』別宇宙。

 さすがに気づく。ソフィアが何を言っているのか。

 僕が何度も見てきた、いつかどこかの世界たち。幻覚でも妄想でもないとしたら。

「……現実は、SF小説じゃない。エヴェレット解釈は、一つの解釈に過ぎない」

「ええ、その通り。けれど」

 座ったときと同じ滑らかさで、彼女は立ち上がった。パタパタとお尻の辺りをはたいてスカートを直しつつ、振り向く。

「もしそれが、現実そのものだとしたら?」

 反射的に何か軽口で返そうとして、しかし僕は喉の動きが勝手に止まり、くぐもった声すら出せなかった。目の前のソフィアは、いまや美人な転校生でもなんでもなかった。そのどこまでも透徹したところのある視線の鋭さは、断じて女子高生のものではない。

「そしてもし、無限に広がるはずの可能性に、不自然な偏りがあったとしたら……?」

 遠くから、足音が聞こえた。次第に近づいてくる軽い音に、ソフィアはちらと目を向け、肩をすくめた。

「ね、やっぱ有理、さっさと押し倒しちゃいなよ。世の中既成事実だよ」

「それは女性側から男性を篭絡したときに使われる言葉だよ、一般的にね」

「そっか。ごめん、私日本文化って詳しくないから」

「国とか、関係あるのかなあ」

「じゃあね、瑞穂有理」

 ばいばい、と手を振って、ソフィアは細い通路を颯爽と歩き、その場を去っていった。彼女の姿が視界から消えるぴったりのタイミングで、入れ替わるようにして恵理紗が現れる。

「有理、ごめん、お待たせ。……誰かと、話してた?」

 小首をかしげる恵理紗に、僕は上の空で答えた。

「うん、ちょっとね」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ