2 ・二千十四年六月初頭
2 ・二千十四年六月初頭
「それじゃあ、娘をよろしくお願いします。あなたのような友人がいてくれて、よかった」
五月に会った時、恵理紗の父――藤沢一樹は、いつもどおり綺麗な笑顔を浮かべていた。嫌味や傲慢さという苦味を含まない笑顔を浮かべる大人を、僕はこの人以外にあまり知らない。
隙の無い身なりも、品のよさを底上げしていた。上質な、手入れの行き届いた服装に、きっちり整った髪。かすかに、冬の森のにおいがした。香水か何かだろう、控えめでありながら抜けるような心地よさのある香りで、僕は密かにこの香りを好んでいた。会う度に同じ香りを感じる。どうやら、彼の趣味らしい。
「こちらこそ……恵理紗、さんには、助けられてばかりで」
慣れない口調で返すと、彼は小さく、気遣いの篭もった笑い声を上げた。
「そう言って頂けると助かります。ああ、そうだ、娘の分の食費に、それから諸々の費用を――」
鞄から財布を取り出す彼を、僕は制止する。
「いいです、それは」
「しかし」
「それほど困ってはいませんから。うちの親も許容していますし。それに、これはささやかな楽しみでもあるんです」
「楽しみ? 一体、どういう」
僕は曖昧に誤魔化して、答えないことにした。無駄遣いは、僕の不得手とするところだ。
けれど、母の稼いだ金が消えていくのは、快感なのだ。
まったく、どうしようもない。
*
最初に恵理紗を泊めたのは中学三年の春の日で、僕はそれを貸しだなんて全く思っていなかったけれど、それでももしそれを貸しだとするならば、そいつが大きな利子つきで返ってきたのはそれから一ヵ月くらい経った後の日のことだった。
はじまりは、クラスの女子の一人がどことなく萎れた感じで登校してきたことだった。昼休み、昼食後になって、その女子は親しい友人と共に僕の席を訪ねた。
僕はその時一人で本を読んでいた。恵理紗とは三年になっても同じクラスだったが、僕らは四六時中一緒にいるような関係ではなかった。時にお互い一人で過ごすことも大事だと、僕も彼女もそう考えていた。
「瑞穂君のお母さん、色々噂、あるよね」
僕の向かいに立ったのは、萎れた女子の友人の一人で、いつも元気のいい奴だった。典型的な「明るく活動的」な女子生徒というやつだ。
「あるね。宇宙人だとか忍者だとか、放射線の影響で生まれた巨大怪獣だとか」
僕が笑いかけると、憤慨したように彼女は口元をゆがませた。
「誤魔化さないでよ」
僕の目には、彼女が懸命にシリアスさを醸し出そうとしているように見えた。かわいらしい努力というものだ。恐らく、これから口にするような内容にあまり慣れていないのだろうと予想した。
「サエのお父さんがさ。あんたの母親と一緒によく遊んでるって。聞いたことあるでしょ」
確かにそれは、その頃急速に広まった噂の一つだった。
「PTA同士仲良いのは心強いよね。生徒としてはさ」
肩をすくめてさらにふざけて見せると、ほとんどタイムラグなしに頬に熱が走った。
平手を僕の顔にくらわせた彼女は、暴力を振るった自分のほうが傷ついているような表情をしていた。友達想いで大変結構。人間らしくて、大変結構!
どうやらサエさんとやらは家族思いで、父親とも母親とも仲がいいらしい。そんな家庭にひびを入れたのが、僕の母、瑞穂・クソッタレ・綾香さんというわけだ。中年にもなって男漁りをしてる時点でかなり残念な人間だけれど、息子のクラスメイトの父親と交際するっていうのは中々に離れ業だなと、僕は噂を聞いてちょっと感心してしまっていた。馬鹿な親にすっかり慣れてしまうと、怒りよりも悲しみよりも、淡白な疑問や距離を置いた諦観ばかりが出てくるようになる。
僕の母は、僕が小学に入った頃から、親族の伝を頼って働き始めた。父が余りに低収入だった上に、ちょっとした問題から仕事を辞めたからだ。
愛想をつかした母は僕を連れて引っ越した。中学二年のときだ。そしてその頃には、苦労を抱えると言う行為に母は飽ききっていた。美人でやたらと若く見える彼女は、同年代の男性を魔法みたいに次々篭絡した。母の収入は、優秀な親族たちのおかげで高かったから、交際費はたっぷりとあった。母は多くの人と付き合った。実のところ、サエさんのケースは全く珍しくもない。母は、息子の知人の親に手を出すのが好きだ。自分が誰の親でも無い気がして心地がいいらしい。
「謝ってよ! あんたんとこのせいで、サエは――」
「不倫ってのは双方の合意の上に成り立つのが普通だよ。サエさんのお父さんも僕の母も、お互い楽しみたかったんじゃないのかな」
それに親の不祥事の責任を僕に問われても、困る。僕は僕の母親のお母さんじゃない。ああもうややこしい。
思えば、こんな反論はすべきではなかった。学校は閉鎖的且つ未成熟且つなんでもありの村社会だ。子供たちはしばしば大人たちと同じように、大規模なコミュニティをつくり、常識を規定し、異端者を規定して叩くことで自分の汚い部分を意識しないよう努める。同調圧力なんて言葉もある。
二年の時の「クラス内男女討論」の一件以来、僕(と恵理紗)の立ち居地は微妙だった。僕も彼女もいわゆる「普通」の中学生――いかにも分かりやすいテンプレートに収まらない子供だったから、「異端候補」となるに十分な資格を有していた。思えば、僕も恵理紗もそれぞれの事情によりちょっと精神的成熟が早かっただけなのだろうけど。
それでも僕は三年までそれなりに上手くやっていた。子供たちの運営するコミュニティのシステムを観察するのは容易だったし、上手くそれに合わせることも簡単だった。
この時までは。
その日の僕は、何がいけなかったのだろう。噂を耳にして、自分自身気づかないうちに、ひどく疲れていたのかもしれない。平謝りしておけばどうにでもなっただろうに、あろうことか挑発してしまったのだ。
「知ってるんだから! 皆! あんたのとこの親が、どういう人間か。いい歳してあちこちで――」
「ね、ねぇ、もういいよ……」
まくしたてる彼女の後ろで、当事者たるサエって子が控えめに言葉を発していたが、耳を傾ける人は誰もいなかった。
「親のすることだから」
僕の意志でどうにかなんてならないよ。そいういう態度を言葉と共に示してやると、もう一度頬に平手打ちをくらった。
「あんただって、母親と同じなんだ。きっと。へらへらして、だらしなくて、淫乱で、大人になってもくだらないことしか出来ない人間になる」
苦し紛れの悪態だった。実に子供じみた罵言でしかない。
しかない、のだが、僕は頭の中がすっと漂白されるのを止められなかった。多分偶然だけれど――その言葉は、僕の恐れる場所を射抜いていた。
「どこにも行き着けない人間になる。ふらふらして、どうしようもなくて、薄っぺらな人間になる!」
だって、子供だもんね? 息子だもんね?
視界がぐるりと回ったように感じられた。遺伝子の二重螺旋が歪んだ視界に幻として映りこんでいた。
どこにもいけない。たどり着けない。その通りだ。
僕には、『行き着く場所』が見えなかった。だって当然だ。親は数十年生きた末に子供じみた不倫やってて、人間社会は数千年継続した末に今のこの有様だ。
たどり着く先。答え。僕にはそれが見えない。「だからどうした」という虚無が、いつも背中に張り付いている。
「まあ、そうかもね」
溜息と共に僕は呟いた。それがいけなかった。
ばたん、と音がした。大きな音で、一瞬教室中が静まり返った。
皆が振り向いた音の発生源は、倒れた椅子だった。勢い良く立ち上がってその拍子に蹴倒してしまったらしい。
その椅子の主は、藤沢恵理紗だった。
彼女はつかつかと早足で歩くと、僕のすぐ傍にまでやってきた。そのまま僕の手を引いて教室から走り去る、とかだったら、なんか青春物の漫画とかにありそうでときめく展開だ(ただしこの場合僕がヒロイン役だ)。
残念なことに(?)、そんなことにはならなかった。恵理紗は、無言で一歩踏み込むと、尚も何か罵声を口にしようとしていたその女子生徒を張り倒したのだ。
一応、平手打ちだった。僕がされたのと同じ。ただ、手首のスナップがどうとか言う次元じゃなく、全身のしなりを芸術的に使った驚異的に綺麗で凄まじいビンタだった。くらったほうは比喩でなく張り倒されていた。ショックでその場にへたり込んだまま動かない。
「うるさい」
エイリアンだってプレデターだって震え上がりそうな、そんな声だった。
あっけにとられていると、恵理紗はくるりと綺麗なターンを決めた。それから手のひらを振りぬいた。
魂の篭もった一撃は強力だという、何かの格闘技ものの映画の台詞が脳裏によみがえり、僕は深くその言葉に納得した。恵理紗の平手打ちは、先に二度受けたものとは比べ物にならなかった。洒落にならないほどに痛い。
「私は」
すべきときに自己弁護しない人は大嫌い、と恵理紗は僕に、小さな声で告げた。
気がつけば、僕は喉の奥から洩れ出る発作的な何かを抑えきれずに、吹き出していた。けらけらと、自分でびっくりするくらい、楽しく笑ってしまう。駄目人間そのものだけれど、嬉しくてしょうがなかった。いや、マゾ的な意味ではなく。
恵理紗はちょっとジト目になって、「しょうがない奴を見る表情」を作ると、さらに声のボリュームを落として、僕の名を呼んだ。
「有理は」
フラットな声音で、呟く。
「有理は、あなたの親みたいにはならない。きっと」
きっと、どこかに行き着く。その先がある。価値へと、輝きへと向かえる。恵理紗とは正反対に「行き着く先が見えない」僕にとってそれは――
それは、啓示だった。




