表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/38

 1 ・二千十四年五月中旬(5)

  僕の自宅は小奇麗なマンションの四階で、多分三から五人ほどで住むことを想定されている広さと部屋数をもっていた。各階に一部屋しかないタイプのマンションで、賃貸ではなく分譲だ。

 この家に正式に住んでいるのは僕と母だけだったから、普段からいくつかの部屋は使っていなかったし、安いワンルームに住む大学生が見れば間違いなく羨むであろう空調設備や床暖房や風呂の追い炊き機能といったものもまた宝の持ち腐れだった。そもそも母はめったにこの家で長い時間過ごすということがなく、実質管理と利用の多くは僕一人で行っているわけだ。

 そういうわけで、それなりに質のいいこの自宅を、僕は普段持て余している。もともと祖母の購入した部屋だからちんちくりんな母にもその息子の僕にも不似合いこの上ない。母のことも含め、あまり好きな家ではない。はっきり言えば、居心地は悪い。

 とはいえ、時々――月に何度かは、この家に感謝してもいる。

「ピーマン、これでいい?」

 広くて快適なキッチンで、隣に並ぶ恵理紗が僕に尋ねる。手元を見やると、細く白い指先に、やや不恰好に下処理された緑黄色野菜の姿が眼に入った。

 僕は傍らの透明防水パックに入ったタブレット端末を見やる。画面には大雑把な説明と写真だけが表示されていた。

「うぅん……うん、多分大丈夫。形は似てると思う」

「ちょっと不安な言い方」

「高い蓋然性で同じ機能を有する形状に仕上がっていると推察いたします」

「ますますまずそう」

 恵理紗が眉を寄せてまな板の上に包丁を転がす。

 ネットで検索したレシピには、「ピーマンは細切りにして」としか書かれていない。そも料理に不慣れな不器用高校生にとっては「ピーマンの細切り」自体がちょっとした料理であることを失念しているのだろう。そういう風に思っておく。

 夕飯のメニューは、チンジャオロースーだった。帰り道に寄ったスーパーで決定された。恵理紗があまり中華になじみがなく、興味を示したからだ。

 僕と恵理紗は時々こうして一緒に帰り、一緒に料理をする。料理と言っても野菜や肉を適当に処理して出来合いの調味料でいためるとか、そういう簡単な「料理未満料理」ではあるが。

 出来上がった作品は、中々に美味だった。あまり時間のかからない炒め物でしかないはずが手間取ってしまったため、白米とチンジャオロースーしかない食卓にはなったが、それなりに満足できた。

 洗い物は僕が行った。交代制で、前回は恵理紗だったから。洗濯はちょっと経済的にも資源的にも無駄が多いけれど、各々別々に自分のものを洗って別々の場所に乾かした。親しき仲にもなんとやらだ。僕も恵理紗も恥じらいをたっぷり湛える若者だし、恋人同士というわけでもない。

 話をしたり、一緒にDVDの映画を借りてきて鑑賞したり、あるいは別々の部屋で勉強や読書に勤しみ、僕らは就寝までを過ごす。そうしてたっぷり夜が更けると、僕らはリビングに集まり、眠る。恵理紗は三人がけ用のソファーで。僕は適当な床にクッションや薄い布団などを敷いて。

 僕と母が住むこの家には、おかしなことにベッドは僕が普段使っている一つしかなかった。母が和室派だとかそういうことじゃなく、めったに家で眠らない人だから、そもそも寝具が一人分しか置いていないのだ。初めて恵理紗が泊まりに来た日、僕は嫌でなければ僕のベッドを使えばいいと言ったが、恵理紗はただでさえ迷惑をかけている上に僕のベッドを占有するなんて、と言い、頑として勧めを受け入れなかった。

 だからと言って、彼女一人をソファーで寝かせて自分は悠々ベッドでぐっすり、ということが出来るほどに僕は図太くなかったし恥を知っていた。

 色々と議論した結果が、今のこの状態だった。同じ部屋で、適当な場所で、ちょっと距離を離して、眠る。

「有理、起きてる?」と、光を落とした静かなリビングに、恵理紗の声が細く響く。

「起きてるよ」

 このやり取りも、慣れっこだった僕も恵理紗も眠りは遅く、浅い。そして早起きだ。

 穏やかな沈黙を挟んで、彼女が次に何を言うかも、僕は見通していた。

「……ごめん。毎回」

「今更過ぎるし、僕だって助かってる」

 それは本心だった。母と二人暮らしである上に、その母はめったに家に寄り付かない。恵理紗が度々尋ねてこなければ、僕は彼女への見栄で綺麗に部屋を掃除することもしなかっただろうし、食事だってダース単位でカップ麺をネット注文して終わりだ。人間らしい一時は、恵理紗のお陰であるといってもいい。

「何度だって来ていいよ。そっちのおじさんがひどく心配したりしない範囲でさ」

 僕は軽さを意識して付け加えた。恵理紗は、一週間に一度くらいのペースで僕の家に泊まっている。夕飯を共に作り、一部の家事を引き受け、リビングのソファーで横になる。

 これは、友人同士のお泊り会とは少し事情が異なる。彼女の場合は、必要性に迫られてのことだ。

「それもごめん。時々、父と会ってくれているんでしょう、有理」

 ばれてたのか、と僕は内心舌打ちする。

「おかしな誤解を与えているわけじゃないよ?」

「分かってる。そういう人じゃないから、父さんは」

 その通りだった。恵理紗の父と僕は、月に一度ほど会う。あちらのおごりで、結構高級なお店で食事を取りつつ、おじさんは僕に恵理紗の様子を尋ねる。

 中学時代の終わりごろ、初めて恵理紗が泊まりに来たとき、僕は大いに戸惑いつつも彼女の憔悴ぶりに承諾した。あとで向こうの家族に怒られるかなと思っていたけれど、後日僕の家を訪ねた恵理紗の父親は、僕に深々と頭を下げて、謝罪と礼を口にした。

『ほんとうに、すみません。私が至らないばかりに、あの子にも君にも迷惑をかけました』

 だけど恵理紗は、それからもちょくちょく僕の家を訪ねた。恵理紗の父と僕の間には、自然と一定のルールと信頼が築かれた。

 僕は、恵理紗の求めに応じて彼女を泊める。それと共に、恵理紗の様子を、おじさんが知りたい範囲で、恵理紗に差支えが無い範囲で教える。

「前から感づいてはいた。こないだ、問い詰めたの」

「…………」

「有理には、大きく助けられてばかり。私は、年齢以上に子供でしかないって、そう思う」

「恵理紗がそんなこと言ったら世の中の大半の人間は糞餓鬼だよ」

 僕は彼女に見えない位置で笑みを浮かべながら、そう返した。

 恵理紗は聡明だ。それに懸命だ。考え、感じ、覚悟し、自身の正当さを日々厳しく見据えつつ生きている。端的に言って美しい。

 彼女と比較すれば、多くの人間はだらけている、というのが僕の見解だった。もちろんその「多くの人間」には、僕も含まれているのだが。

「有理は違うでしょう」

「いいや、僕も大したものじゃない」

「昔言ったよね、すべきときに自己弁護できない人は大嫌いって」

「うん、まあ……」

 それは覚えている。大事な言葉だった。

「有理に何度助けられたか分からない。有理は私をよくほめるけれど、私からすれば、私は有理のような人間がいなければどうしようもない」

「そんなことは」

「私には、行き着く先が分かる。けれど、途中がどうなっているのか、分からないことが多くある。答えだけ分かって、でも説明できない」

 藤沢恵理紗と言う人間の、長所にして欠点。桁外れの直感性。僕はそれを密かに「直感的垂直思考」と呼んでいた。

「有理はその度、私に教えてくれたり、一緒に考えたりしてくれるでしょう。あれが無ければ、私はもっとどうしようもない人間になってる」

 それは過大評価だよ、と僕は言いそうになるが、少し考えて言葉を飲み込む。

 確かに僕は、ちょくちょく彼女を支えようとはしている。恵理紗が何かを百足飛びに理解し、しかしその過程が分からないことで戸惑い、困り果てるときというのは時々ある。

 想像してみれば、怖い話だ。時に過程は、答えと同等の価値を持つ。数学の問いに置き換えてみれば、途中式が書けることもまた、問題への理解の内だ。答えだけが先んじて分かるが途中が分からないというのは、問題の理解が半分欠けているということだ。

 もし人の世が汚いということが明確に分かって、しかし理由が分からなかったら。

 もし人の世の理想像が見えて、しかしそのための過程が分からなかったら。

 ――もし、生きていくしかないと分かっているのに、それがどうしてか、分からなかったら。

 だから僕は、必死で頭を使った。読書の量を増やし、もともとの小賢しさをフルに活用した。

 物事を、順序だてて、論理的に一つずつ正しく考える。昔から少しだけ多く経験してきたそれを、僕は役立てようと考えた。「論理的水平思考」と頭の中で名づけた。

 僕は、行き着く先が見えない人間だ。答えが分からず彷徨ってばかりいる。

 だから、うってつけだと考えた。恵理紗を助けられるかもしれないと、浅はかにも考えたのだ。

 それなりに、この作戦は成功した。数学の問題や、どうして教師の退職を予見できたか、と言った程度の問題には、応じられた。数学はテキストでどうにでもなったし、教師の問題は、恵理紗が他人の様々な外見的特長、所作、表情、声の抑揚、その他色々な情報を無意識に細かく観察し、覚え、つなぎ合わせて答えを得ることが出来るのだと仮説した。

 様々なことについて恵理紗は僕と考え、いくつも謎を明かした。それで彼女は、僕に度々「ありがとう」と囁く。

 けれど、大切なことは。本当に大事な、難しい問いには、僕は役に立っていない。彼女はだから、今も泊まりに来る。どこか憔悴した表情で。

 僕はどこまで、いつまで彼女の支えになるのか。それはちょっと、怪しい話だ。

「ちょっとした補助に過ぎないよ。助かるってことなら、僕の方だって恵理紗には助けられてる」

 今度は恵理紗が少し沈黙した。彼女はしかし、僕よりは早く返してきた。

「もっと……もっと、上手くやれることが、やれたであろうことが、一杯あった。きっと」

「誰だって何だってそんなもんでしょ」

「ううん……違う、そうじゃなくて。もっと、別の私なら」

 僕は細く息を吐いた。別の恵理紗だって?

「別人になった恵理紗はちょっと見たくないな」

 冗談めかして言う。尚も、恵理紗は何か言いたそうだったが、すぐに気配を変えた。それから、誰にともなく呟く。

「父さんは、絶対的な価値を、見出してた。母さんや、姉さんに」

 それはほとんど聞こえない程度の、呟きだった。僕は聞こえない振りしつつ、しっかり聞いておくことにした。

「だから崩れた……落ちた。他に、どうしようもなかった……」

 それが、恵理紗が僕の家に来る理由だった。


   *


 藤沢恵理紗の自宅の住人は、元々四名だった。それが、彼女が小学六年の時、半減した。

 起きたこと自体は単純だった。ニュースでも一応放送されたけれど、すぐに報道されなくなった。

 恵理紗の母、藤沢京子が、長女であり恵理紗の姉である藤沢香を台所の刃物で刺し殺し、その後自身にも刃を向けた。

 僕はその話を、初めて家に泊まりにきた恵理紗から聞いた。

 恵理紗の母が、どうして凶行に及んだかは正確には知らない。恵理紗によれば、母は底抜けの善人であると同時に感性豊かで、それ故にまともに生きるには無垢すぎたのだと言う。抽象的な説明だったが、僕はそんな説明を聞きながら、例の『革命の話』を思い出した。

 実年齢からすればちょっと背伸びしすぎた感の無くもない、授業の課題。社会について、世界について、犠牲と覚悟についての話。

 彼女の母の行為の理由は、そういうものかもしれないと僕は夢想する。善人で、感性豊かで、無垢。そんな人間が、正気で生きていけるほどに人間社会は安らかではない。

 ともかく、恵理紗の母は恵理紗の姉を刺した。けれど、これは半分事実で、半分嘘だった。恵理紗は、どんな報道にも載らなかったことを僕に話した。

「姉さんは、私を庇ったの」

 よくある話だ、と言えば、そう言える。極限状態で、年下の家族を庇う。麗しい美談。

 ――わたしたちはどうしたって犠牲なしには、生きられない。

 幸い、彼女の家庭はそのまま崩れ落ちなかった。恵理紗の父親はそれなり以上の収入があったし、仕事の時間を減らして余裕のある生活に切り替え、家庭の面倒を引き受けることもできた。

 実際に、恵理紗の「お父さん」は、理想的な大黒柱っぷりを見せた。仕事を続けつつ娘の面倒を見て、家事だってこなした。そうそう出来ることじゃない。

 彼は、家族を愛していた。ドラマか映画の中にしかないんじゃないかってくらいに、自身の家族を大事にしていたのだ。だから、そういうことが出来た。

 けど同時に、それだけ愛していたものの三分の二がごっそり消えて、無傷でいられるわけもなかった。恵理紗によれば、「父さんは生きながら死んでいる」ようなものらしい。それは本当に残念だし失礼な話だけれど、何度か実際に会ったことのある僕にとっても、頷ける見解だった。

 すらりと伸びた背筋、皺のないシャツ、柔和な笑みと、多少白いものが混じりつつも豊かな頭髪。見た目には上品な父親そのものでしかないおじさんは、しかしどこか、致命的な欠落を人に感じさせる。

 恵理紗の家族は、理想的な良い家族だった。それ故に、半分が欠けたダメージも計り知れない。人類にとっての損失だと僕は率直に感じる。

 僕の両親とは、大違いと言うわけだ。皮肉な話だけれど。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ