4 ・二千十四年七月末(3)
川があった。さして大きな川ではない。住宅街の間を流れる、幅数メートルの川。
両岸には桜の木々がこれでもかというほどに植えられており、太く生気を感じさせる幹が延々と川に沿って並んでいる。夏であれば目に痛いほどの緑を輝かせ、春であれば肌の下に直接触れるような不思議な、甘やかな香りに満ちるであろう場所だった。
川の途中には、桜の足元を通る歩道から大きく張り出すようにして作られたスペースが一箇所設けられていた。さして工夫された様子もない、手すり付のちょっとした休憩スペースといった風情だが、そこから望める景色は絶品でしかなかった。
そのスペースに、一人の少女が佇んでいた。
「恵理紗」
辿り着いて、僕は彼女を振り向かせる。僕の背後には川がずっと先まで流れている。文化会館のすぐ傍を通って、どこかの企業の大きな工場脇を流れる用水路の近くを蛇行して、ずいぶん南のほうで、海に出る。
その途中のどこにも、核爆発のクレーターはない。ここは僕の生きている宇宙だから。
「ここでよかった。どこかの未来都市でも中世風の町でも十八世紀の街でもなく」
僕は激しく鼓動する胸を押さえて、息を整えながら言った。恵理紗は目を丸くしていた。
「どうして……」
小さな唇を震わせて、恵理紗は言葉を途切れさせた。それから、目を伏せて答えを自分で見つけた。
「……やっぱり、有理も、見えてたんだね」
「恵理紗も、見えていた」
無数の宇宙を。可能性分岐の枝葉の数々を。
今の僕には分かっていた。恵理紗についての一つの答えが。今まで気がつかなかったのは、僕の想像力の貧困さのせいだ。
一つ仮定してみれば、すぐに分かったことだったかもしれない。どうして、恵理紗は異様なほどに『直感的』だったのか。時に全く説明できないほどの不可思議な直感性でもってして遥か先のことを予測し、答えを見抜き、誰も知らない場所に辿り着く。
まるで、ナビゲーターだ。多くの宇宙を垣間見て、そこから一つの宇宙の先を未来視する者の如く、恵理紗は直感する。
恵理紗には、見えていた。彼女は意識的にか無意識的にか、多くの宇宙を見て、感じて、そこから自分の住む宇宙についての情報を――これこそ『直感的に』――推測して見せていたのだ。
僕の特技は、僕だけのものではなかったのだ。
「違う――私は、私が『見てる』ことに気づいたのは、ほんの、最近」
有理が、眠っている間に。
「有理と一緒に、ずっと、見てた。いろんな私たちを。いろんな宇宙を。いろんな場所を。それで、気がついた。私はずっとそういうものをどこかで感じていて――それから、有理だってずっと、『見えて』いたんだって」
「それで、何人もの僕らを見て、その破局を、最後を見て、ここに辿り着いた」
僕が呟くと、恵理紗はほんの僅かに、顎を縦に動かした。
恵理紗は、別宇宙たちを見た。そこで何度も何度も僕が、恵理紗が、願いを遂げることなく多種多様な出来事でバッドエンドを向かえることに気がついた。
無数の――『結果』を見た。
恵理紗は。恵理紗は、ずっと『結果』を見てきた。
そして、『過程』が見えなかった。行き着く先を知り――父は欠落し、僕と恵理紗はいくつも宇宙で離れて死んだ――、とうとう悲観した。
彼女はずっと、過程について考えてきた。悲惨な結果をいくつも見抜き、その上で過程を歩むことの意味を考え続け、懊悩し続けてきた。破局が待つ中で、そこまでの『過程』を歩むとは、どういうことなのか。意味や価値がそこにあるというのか。
恵理紗は『過程』が見えない。その意味が、見えない。
僕と逆というわけだ。僕はいつも、結果が見えないことに苛立ってきた。
ずっとひどい道のりを歩んできた人類社会。未だに彷徨う母親。輝かしい夢と希望で語ることなんて出来ない僕ら学生の未来。
過程ばかりが目の前に横たわっている。行き着く先に希望を見出せず、だから、結果が見えない。結果の意味が見出せない。
恵理紗と僕は逆で、それから、同じようなものなんだ。
恵理紗は、僕と共に、僕が病院で気絶している間に、多くの宇宙の僕らを見た。その行き着く先の悲惨さを見て、元々もっていた『結果』への黒い疑念が膨らんだ。それでどうしようもなくなって、消えた。消えて、ここに来た。どこかの宇宙で同じく、「どうしようもない」状態の恵理紗がたたずんでいた場所に。
細い肩を自分で抱くようにして今目の前で立っている恵理紗は、すぐにでも消え去ってしまいそうな頼りなさに包まれていた。僕は瞬き一つするのも恐ろしかった。一瞬の暗闇を挟んだだけで恵理紗はどこかに行きそうな気がした。
「どんな場所でも――どんな宇宙でも、ひどい結果ばかりだったね」
恵理紗は僕の足元にそんな言葉を落としてみせた。
僕は、膨大な情報を背負っていた。どこかの宇宙から流し込まれた、今までの全て。
それらは僕に覚悟を決めさせた。力を与えていた。
けど僕が今吐き出すべき言葉は、僕自身で考えるよりほかにない。億千万の宇宙の英知だって関係ない。
「そんなに、ひどいものだったかな?」
できるかぎり軽く聞こえるように、僕は言った。
恵理紗はひどく驚いた顔をした。信じられないものを見る顔だった。
「だって……有理も、見ていたんでしょう?」
「見てたよ」
僕はいくつかの印象深かった宇宙について語って見せた。ノベル調査官の僕。ドラグーンの僕。若きウェルテルだった僕。超人ヒーローになりたかった僕。そのいずれもが、最良の結末から程遠い場所が終点だった。
「じゃあどうして」
「恵理紗は多分、僕と同じものを見ていながら、違う場所に辿り着いてる。違うことを感じてる」
「有理は、一体何を言ってるの?」
「僕らはね、恵理紗――『僕ら』は、いつだって、踊りだしそうなほど幸福で幸運だったって、そう言いたいんだよ」
意識のたがが外れて、自ら腐りながら狂うほどの不幸に見舞われた無数の僕ら。けれど僕は、彼らを――『僕ら』を、どん底に不幸だとは思わない。もう、思ってはいない。今では。
「だって、恵理紗。僕は、どの宇宙でも、恵理紗と共にいたんだ。結ばれずとも、途中でその繋がりが断ち切られても――なにが失われても、僕は、一時なり数年間なり、恵理紗と一緒にいたんだ」
恵理紗は、虚を突かれて呆然としていた。普段あまり見せない呆けた表情が、たまらなく可愛いと感じて、僕は自然と笑顔になってしまう。
「今更言うまでもないけど、僕は恵理紗が好きだ」
恵理紗の肌が、さっと紅を混ぜ込まれたように、赤みを増す。
「それがどういうことか、詳しく語れば多分僕は変質者の烙印を押されたって仕方ないくらいのことになる。というか、恵理紗だって知ってるかな。いろんな宇宙を見たんだから。無数の僕が、皆して恵理紗に近づこうと必死なのを、見てきたんだから」
そう考えると、死ぬほどの羞恥心が湧き上がってくる。だけど恥ずかしがっている場合ではない。意志の力で抑え込む。
「僕にとって、恵理紗は絶対的な価値だ。他のどんな価値とも、比べるべくもない。恵理紗と共に過ごす時間は、それがたった数秒であれ、何より輝かしい価値なんだ。歓喜なんだよ」
走ってきたがために元々速いペースで動いていた心臓が、今も力強く、吃驚するほど早く動き続けていた。
「そう――歓喜だ。無数の『僕ら』は、恵理紗と結ばれようと考えていた。恵理紗との最良の『結果』を求めていたんだ」
「でも、失敗した」
「そうだね。でも、それで何が失われるって言うんだ」
僕は半ばやけくそで言葉で続ける。自分でも無茶になりつつあるのは分かる。伝わるかどうか分からないことを、それでも全力で伝える。
「起きたことは消えない。記憶が消えようが歴史が改竄されようが宇宙ごと消えようが、起きたことは起きたこととして存在する――無は、存在しないからこそ無で、だから、一度でも、一瞬でも存在したものは、存在するしかないんだ。存在物は無になれない。無はないからこそ」
だからこそ、喜びも消えない。味わったものは消えない。
「恵理紗、式の右辺と左辺の間に、何があると思う?」
「……『イコール』」
「そう。正しく答えを導く正しい式は、答えと、『=』の関係で結ばれる。A=Bは、AとBが等しいことを示す――正しい式は、正しい答えと、等価だ」
「有理――」
「全ては、結果だ。全ては、過程だ。一つのものなんだよ、恵理紗」
恵理紗の頬に、何か小さく光るものがあった。切実さ――無垢に価値へと向かおうとして輝くもの。
「人はいろんな価値を見つけて、それに惹かれ、手にして喜び――それから、時に失い、悲しむ。価値は、人を損ない、でもそれと同時に、救ってもいるんだ。結ばれなかった僕らだって、それなり以上の価値を得ていた。
最善の努力を尽くして結ばれなかったのなら、後悔することなどなかったんだ。自らを恨むべきじゃなかった。自らの人生を糞だと罵るべきじゃなかった。絶対的に惹かれる価値を見つけるということはそれ自体が既に大きな価値なんだから」
求めても得られない価値という悲劇。それは逆から見れば、強く求めるほどの価値を目にし、味わい、手を伸ばすというところにまで到ることができたという救いだ。
「最善を目指すことは、やめられないしやめるべきでもない。僕らは結果を求め続ける。けど、だからって、過程が無化してしまうってわけじゃない。恵理紗、僕は――」
恵理紗は細く白い腕を、頼りなさげに僕のほうへと伸ばしていた。僕もまた、ほとんど何も考えず、彼女に手を伸ばした。触れ合い、絡み、引き寄せあった。
35.4℃の暖かさが僕を包む。僕に包まれる。
静かに、囁くように、恵理紗は泣いていた。
最早これ以上は、小賢しい言葉を弄する必要はなかった。
何があろうと、失われようと、過程が腐ろうと結果が揺らごうと、関係ない。最も良い道を可能な限り歩むだけだ。
今この瞬間のような時間を、肉体と魂の限りを尽くして、味わい、感じるだけだ。
歓喜がとめどなく強い光を放っていた。全てを染め上げていた。
そんな中、僕は、幻の視界の中の可能性別宇宙がほとんど残っていないことを見てとった。もう次の瞬間には、この宇宙だけを残して全て消えてもおかしくなかった。急速に収縮してきている。
だから僕は、タイミングを見計らって、覚悟を固めた。
「恵理紗」
腕の中で、恵理紗が動き、顔を上げた。お互いの背中や首に触れた腕が、熱を持っていた。
可能性宇宙が収縮する。収縮する。何もかも消えて、僕の宇宙に向かって押し寄せる。虚無が。全てが。
とうとう何もかもが消えて、この僕と目の前の恵理紗の宇宙だけが残る。どんな可能性も分岐もない。それは、今僕が口にする言葉がたった一種類に絞られたということだ。
僕は恵理紗と額同士をくっつけるようにしながら、古い可能性宇宙の終焉の一言を、告げた。
「僕と、付き合って欲しい」
恵理紗は、涙の痕を残した顔で真っ直ぐに僕を見て、答えた。
「私も、同じ事を言おうとしてたのに」
それから恵理紗は、目を閉じて笑い、付け加えた。
「それで何年か経ったら、結婚しよう。有理」
「僕も同じことを言おうとしてたのに」
答える。
そうして恵理紗と僕は、あの擬似デート以来一度も触れ合わせてこなかった部分を、触れ合わせた。
同時に、可能性の全てが――収縮した可能性宇宙が、はじけた。
それは信じられないくらい綺麗な光景だった。幻の、宇宙をメタ的に観察する僕の視界は、その美しさで一杯になっていた。
収縮した宇宙。この宇宙一つにまでなってしまった可能性宇宙は、極限にまで収縮・凝集を進行させ、その行き止まりで、『逆転』していた。
僕と恵理紗の一瞬が核になって、可能性がインフレーションを起こした。ビッグバンを起こしていた。
可能性――虚無だけが残ったメタ的な宇宙に、ほんの一瞬で無数に分岐した可能性の光が走っていた。光の津波が瞬く間に茫漠とした可能性領域を光で塗りつぶし、広がっていく。
この素晴らしい眺めを、僕は恵理紗にも見せたいと感じた。だから僕は、自分の脳機能の一部を操作して、一時的に言語野の活動を弱めた。自分を広げて、恵理紗を自己の一部として、僕が見ている光景を彼女にダイレクトに送り込んだ。それからすぐに元に戻る。
新しい宇宙が、そこに在った。一度最大にまで肥大化した可能性宇宙は、その頂点で、収縮することとなった。
そう――最初から、可能性宇宙は、収縮していた。
物理宇宙と可能性宇宙は対応している。物理宇宙はここの所ずっと――百億年以上前から、膨張していた。
だからその間、可能性宇宙はずっと少しずつ縮んでいた。そうして――交替のときが、来たというわけだった。
可能性宇宙が一度終焉を向かえ、そこから、拡大に転じた。莫大な光輝を背負って、広がっていく。物理宇宙は恐らく今頃、膨張から収縮に転じたことだろう。
僕という存在は、多分、可能性宇宙の循環的リセットのための、システムキーのようなものだったのだろう。無限の可能性を本当に無限にしないための。どこかで限界を向かえるものとするための、『固定された可能性と不可能性』だったのだ。
今、可能性宇宙は逆転し、新生していた。
僕は、容易に見つけることが出来た。無数の宇宙の中の、無数の僕を。
新しい可能性宇宙にだって、これまでと同じく、固定された可能性が存在する。いつかまた、終焉を向かえ、再生するために。
「有理、これ」
恵理紗が陶然と声を零した。僕と同じものを見ながら。
「まあ、なんて言うか、この宇宙もなかなかどうして、粋なことをするよね」
僕は苦笑して、それに答えた。
僕と恵理紗は、この新生した可能性宇宙の中に、新しい『固定された可能性』を見つけていた。それはこれまでと変わらず、僕と恵理紗に関することだった。
この宇宙に、最初から欠けている可能性。固定されてしまっている可能性。
一度反転した宇宙。僕と恵理紗は、いくつもの宇宙に、僕ら二人の姿を見つけた。百、千、万、一億もの宇宙に。
その全ての宇宙で、僕と恵理紗は、結ばれていた。
逆転していた。どうしてそうなるのかなんて、分かるわけもなかった。あの時空構造解析においてひどく発展した宇宙の僕らだって、分からないだろう。
今や可能性宇宙全体の楔として『存在しない可能性』となっているのは、「僕と恵理紗が結ばれない宇宙」だった。
どれくらい、そんな可能性の群を眺めていたのか。気がつけば、僕も恵理紗も、現実の風景だけを目に映していた。もうどこにも、おかしなものは見えない。
思えば、最初からこの可能性宇宙の構造は、祝福と救いを孕んでいた。
無限に見えつつも無限ではない可能性。限界のある可能性。それは、人にとって喜びに他ならなかった。自由意志を十分に生かせるだけの広がりを持った可能性――しかし、限界のある可能性。未来は、完全なランダムという悲劇ではない。その上、それなり以上の自由が許されている。
今や、僕と恵理紗の背後には、誰も背負ったことのない規模の犠牲が背負われているかもしれない。無数の宇宙が一度、消えたのだ。
臆することはなかった。屍の上だろうがどこだろうが、僕は、恵理紗と共に歩くことになる。
ざまあみろ、無数の僕たち。
お前らはもう、何があろうが、祝福からは逃れ得ないんだ。
「行こう、有理」
恵理紗が僕の手を引く。僕らは、歩き始める。
新しい祝福の上を。
歓喜の上を。
全て祝福だ。どこかの宇宙の僕が、そう唱えた気がした。
*
可能性宇宙が拡大に転じたということは、物理宇宙は収縮するということに他ならない。やがていつか、物理宇宙はビッグクランチの末に無次元的な特異点にまで収縮するだろう。
それまでに、どれくらいの時間があるか分からない。ひょっとしたら一年後には地球なんてくしゃくしゃに潰れているのかもしれない。
そうであったとしても、僕と恵理紗は、このまま一緒に歩むだろう。
無数の可能性を、無数の僕と無数の恵理紗が。
僕はようやく、見通す。行き着くところを。結果の群れが連なる、輝かしい価値の道を。
ここには既に、かつての可能性宇宙の面影は無い。
だから。
だから、さようなら。
一億の独り身たちよ。




