4 ・二千十四年七月末(2)
七月最後の日、僕は電話の音で目覚めた。スマートフォンの液晶には、恵理紗の父の名前があった。一瞬、鼻先に冬の森の香りがよぎった。それをかき消すように、僕は乱暴に画面を指で弾いて応答した。
「はい」
と僕がたった二文字発音するより早く、相手が固く締まった、張り詰めすぎて鬱血死しそうな声で用件を告げる。
『恵理紗を知りませんか』
僕は寝具から身を起こす。暑く気だるい夏の朝の空気が、ほんの短い言葉でもって変質してしまっていた。冷えた何かが腹の底に感じられる。
額に薄く浮かんだ汗を拭って、僕は微かに自分が震えていることを自覚する。いつだって、致命的な出来事は足音を忍ばせて背中のすぐ触れられるような位置まで忍び寄ってくる。
「何かあったんですか?」
なかったら朝から電話なんかしてこない。案の定、相手は唾を飲み込むような音をスピーカーから小さく響かせた後で、肯定した。
『昨日の朝部活に出て行ってから、一度も帰ってきていません。連絡もない。こちらからは電話も通じないし、心当たりの場所にはいない』
気落ちした弱い声で彼は答えた。見捨てられた子供みたいな声で、僕はそれが少しおかしくて、それから同じくらい少しだけ、腹が立った。まるでそれは僕自身の声のようだったから。
「知りません。うちには来ていません」
『……そう、ですか』
母に先に訊いてはみなかったんですか? と僕は心中で問いかけていた。
『何か分かったら、知らせてください。高校生にもなるわけですから、過度に心配しても、とは思うのですが、あの子は……』
「恵理紗が――娘さんが本当に大事なら」
その言葉は、本当に自然と口を突いて出た。誰かが僕の運動性言語野をどこかから念力で操っているんじゃないかというくらいに、自分の意識なんて関係なく僕はそれを口走っていた。
「さっさと死ぬかしょぼくれた生き方を止めるか、どちらか選んでください」
電話の向こうで、彼が息を呑むのが感じられた。薄く、追い詰められた短い息遣いがしばらく沈黙の中で聞こえた。
「すみません、生意気を言いました。二度と言いません。恵理紗については何か分かったら連絡を入れます」
素早く言って、僕は電話を切った。
偉そうなことを言った自分に、大きな呆れが湧き上がる。人にものを言えるような身分かよ、お前は?
無数の宇宙で恵理紗を失った『僕ら』が、今この瞬間に僕を見て、せせら笑っているように思えた。どうして、お前だけが平穏無事に生きられると思う? その世界の恵理紗だけが、平穏無事に生きられると思う……?
僕はスマートフォンを握ったまま、別宇宙を幻視した。
世界は、虫食いだらけだった。次々と僕が盗み見る宇宙たちは、消え失せて乾いた虚無を残していた。
*
恵理紗が失踪した。
隣の県では交通事故で家族四人が焼け死んで、シリアでは爆撃で何十人かが亡くなった。国会議員が児童買春で捕まった。NASAが宇宙観測において奇妙な現象を確認したと発表した。
朝のニュースはトピックに溢れていた。僕らの生きる世の中は山ほどの事件でデコレーションされていて、少しも退屈させてくれない。
そしてそうそう気軽に参加させてもくれない。大きな事件、小さな事件、山盛りのあれこれを横目に、僕らは僕らの予定をこなすばかりだ。
学校に集まった演劇部の面々は、暗く重い空気を纏っていた。皆、どこかから恵理紗の事を聞いていた。
これから地区大会の舞台に向かうとは思えない士気の低さだった。演劇部は半分体育会系で、それは練習のきつさに関する話に限らない。意気込み、勢いを持って舞台に立つのと、消沈して立つのでは、全く異なる劇が出来上がる。
だから僕は、僕の姿を認めてすぐに駆け寄り、恵理紗についてあれこれ話そうとする皆を制して言った。
「今は、舞台のことだけ考えていればいい」
薄情だと責める奴が何人か出てくると予想していたけれど、一人も僕に反対する人間はいなかった。だから僕はそのまま続ける。
「僕らに出来ることは少ない。恵理紗の作った劇を、ここで崩したくもない」
それから、頭を下げた。
恵理紗は幸いにも、重要な役を割り振られてはいない。脚本担当であり演出担当であり、自分が役をやるには忙しく、立ち居地も不適当だったからだ。彼女抜きには劇は全く完成しなかった。彼女は劇を作るその中心にいた。
だけど、本番だけならば、彼女がいなくても何とかなる。芯になる柱に何重にも巻きつき、固められた僕らは、芯が抜けてもそのまま回り続けることが出来てしまう。
台風が近づいていた。空は奇妙な色をしていて、不規則にあちこちから強い風が吹いていた。現実感なんて一欠片も残ってない風景が広がっていた。雨の香りと夏の香りが混ざっていた。
僕らは学校で集合し、そこからさほど遠くない、大会の舞台へと移動した。舞台があるのは、市民用の文化会館だった。さして大きな建物ではない、馴染み深い場所。
会館に到着する頃には、部員たちが僕に向ける視線の色が少し変わっていた。どこかで見たことがあると思ったら、それは今まで、皆が恵理紗に向けていた視線の色だった。
僕は恵理紗の変わりに、みなを纏め上げる位置にいた。部長と共に。恵理紗と共に脚本を書き、演出を補助してきたのだから、順当といえるかもしれない。
僕は自分でも薄ら寒くなるような調子のいい嘘をいくつかついて、適当な人生論を並べ立て、みなを慰め、鼓舞した。
自分の言葉がすべからく、気持ち悪かった。何を言っても嘘になる気がした。違和感を覚えることなく口に出来たのは、たった一言だった。
「先のことなんて知らない。ただ――恥じることのない時間にすべきだ」
皆僕が話し終える頃には、強い眼差しを取り戻していた。裏方も役者も、アップに入り、やがて上演時間が近づくと準備を次々手際よくこなしていった。
部隊の裏側にある控え室に入って、僕はふと何気なくいくつも壁に並ぶ鏡を覗き込んでみた。
幽霊みたいな鬼気迫る顔が映る。僕だった。
本番が始まるまで、控え室で座している間にも、別宇宙はどんどんと消えているようだった。僕はずっとそれを感覚していた。数多くの、広く大きな宇宙がどんどん消えている。
このまま何もかもが終わるのか、と僕は考えた。宇宙が消えて、恵理紗が消えて、やがて僕も消えて、それで終わりかと。
なんだか、虚無ばかり僕らは見ていないか? と首をかしげる。
人類社会の行き着く先。僕の母の行き着いた先。恵理紗の父の行き着いた先。恵理紗の母と姉の行き着いた先。僕と恵理紗の行き着く先。
なにかが引っかかった。殺意のような、切れるほど鋭い何かが僕の身体の中心にあった。
そうこうしているうちに、昼の一時を迎えた。僕らは控え室を出て、舞台袖に入った。定められた時間で舞台にお道具や小道具をセットして、全ての準備を終える。
照明が落とされた。舞台の全てが、静寂と緊張に満ちた暗闇に染まる。
まるで、消えてしまったどこかの宇宙のようだった。
*
高校に入ったばかりの頃、僕と恵理紗は一度だけデートをしたことがあった。
僕らは二人で行動することが学校の内外問わず多かったのだけれど、そのせいで度々恋仲であると勘違いされていて、いろんな場所で曖昧な笑みと共に否定したり誤魔化したりしていた。
ある日、恵理紗が突然提案した。
「有理、デートしよう」
言われて僕は仰天した。息をするのを忘れて、酸欠で視界が眩しくなり始めてから、恵理紗は付け足した。
「つまり、その、そういう振りを、一日やってみたいんだけれど」
それから彼女は少しばかり足元を見ながら居心地悪そうに身体の前で軽く組んだ指先をもぞもぞと動かし、「ごめん、意味不明だよね、やっぱり聞かなかったことにして」と取り消そうとした。
けれど僕はその時ばかりは自分の限界の三倍くらい早く反応した。恵理紗の言葉を遮って、「やってみようか。休日だし、どこか行く?」
と提案した。全力で演技力を振り絞り、この上なく自然に聞こえるように。
そうして僕らは一日、適当に遊び歩くことになった。受験に合格した後で気が抜けていたこともあり、ふらふらと街を歩くのは純粋に楽しかった。
僕と恵理紗は、取り決め通り恋人の振りを演技として実行した。衣料店では店員の「どうですか?」という問いに「いやぁよく似合ってると思いますね」と真っ白な笑顔で僕が答えた。胸の前にワンピースを当てている恵理紗を見ながら。
美術館を二人で歩き、喫茶店で額を突き合わせて談笑し、ゲームセンターで恵理紗の求めに応じて小さな人形を獲った。
夕食を一緒に食べて、すっかり日が暮れた後で帰路についた。
美しい木々の植えられた川べりの道に差し掛かって少しした頃、恵理紗は僕に小さな声で確認をとってから、自分の唇を僕のそれにそっと触れさせた。
ほんの僅かな時間だったように思う。すぐに恵理紗は僕から身を離した。それから、並んで無言で歩き続けた。
別れ際、彼女は何度も僕に謝った。理由を聞いても答えずに、ただ謝った。
彼女を送って独りになった後で、僕は家に戻らず、そのまま歩き続けた。一日かけて恵理紗と共に歩いた場所を丹念に、丁寧に、もう一度歩いて回った。
多分、恵理紗は、どこかで嗅ぎ取っていたのではないかと思う。僕の下心――恵理紗と、そういう仲になりたいという願いを。
彼女は自分の父の「行き着く先」を毎日見ていた。失意のなかでとっくに何もかも欠落した人生を行き続ける男の姿を。だから、試したくなったのかもしれない。人と深い関係を結ぶということがどういうことなのか。父のような姿以外に、行き着く場所はあるのか。そうした関係を作り、どんな「過程」を歩むのか。そこに何があるのか。
そのために、僕を利用した。それでいろいろなものを見て、感じて――最後に、罪悪感を多く抱えることになった。一歩間違えれば、自分の最も近しい友人を、父と同じ場所に落とすところだったと悟って。
僕にとってみれば、そんなことはどうでも良かった……いや、どうでもいいというわけじゃないけれど、そんなことより大事すぎるものがある。
僕はその一日、恵理紗と、素晴らしい日を過ごしたのだ。演技で、ごっこで、ばつの悪い終わり方であったとしても、僕にとっては代えがたい価値だった。
だからこそ、僕は一晩歩き続けた。事故に遭って脳みそが潰れようが、二百歳まで生きて痴呆が究極にまで進行しようが、忘れないために。
恵理紗と歩いた、たった一日を。
彼女と一皿のデザートをつついて分け合ったたった十数分を。
彼女の瞳が僕をちらと見上げたたった一瞬を。
価値を。この上ない価値を。忘れないために……。
*
静寂をブザーの音が切り裂いた。
幕が上がり、劇が始まる。舞台上に照明の光が降り注いだ。
僕の意識は自然と舞台に吸い寄せられ、縫いとめられた。僕だけじゃない、その場の皆がそうだった。役者も、大会運営関係のスタッフも、客席の人々も。
何もかもが静けさと暗さに塗られた中で唯一明るい舞台上は、たかだか高校生の、それも地区大会規模の公演でありながら、恐ろしいほどの力で僕らを支配していた。最早舞台上が日常の世界と地続きの場であると考えることは、難しかった。
そこは一つの異質な宇宙だった。展開される劇――物語というものをあわせて考えれば、立派な可能性宇宙の一つだ。
客席は、冬の夜の海のようだった。深く広く、大きな存在感と虚ろで静かな仄暗さを同時に放射している。
役者が動き、声を上げる。普段はなんと言うことのない少年少女が、その睫一筋の動きですら、見るものを揺さぶることが出来る。
舞台上に、僕は劇と同時に、いくつもの宇宙を見た。いくつもの「物語」を見た。何人もの僕と恵理紗を見た。今やそれらは次々に消え去り、時空構造は収束し続けていた。
時空構造――宇宙のルール。
恵理紗、と僕はどこかにいる彼女に――目の前の幻の中に無数に存在する彼女に、問いかける。
この宇宙の構造とは、何なのだろう? 人の自由意志や選択や可能性に、何の意味が、価値があるのだろう?
無限の可能性。無限の選択肢。自由な意志。だけど本当にそんなものが、完全な形で存在したら、それは悲劇じゃないか。
完全な自由意志とはつまり、あらゆる可能性に対して均等に向けることの出来る意志のことだ。全てに同じだけの可能性でもって向けることの出来る意志のことだ。それは最早、意志でもなんでもない。ただの乱数じゃないのか。
無限の可能性による未来とは、完全なランダム分岐のことだ。僕らの思いも願いも、人格も個我も、何の意味も無い錯覚ということになる。
そこまで考えて――僕は、舞台の上に見える無数の別宇宙の群が、輝きはじめたことに気がつく。
幻の光を受けた瞳が、かっと熱くなった。僅かな間ではあったが、眩しくて、痛くて、涙が出そうだった。
そう――痛み。体中をかきむしるような痛みを、僕は感じた。それと同時に、これまで生きてきた中でずっと考えてきたいろいろなことが、一気に、弾けた。
膨大な何かが、僕の中に流れ込んできていた。ものすごい量の情報が、記憶や言葉や情感や郷愁が、僕の中に入り込み、浸透していた。
「ああ……」
声が洩れていた。自分が何を受け取ったのか、すぐに分かった。
それから、理解した。僕らの行き着く先がどこなのか。恵理紗にとっての過程が何なのか。
どうして彼女は消えて、どこへ行ったのか。
僕は何をすべきで、何を言うべきなのか。
喪失。失意。価値の獲得に伴ってついてくる陥穽。この世の不幸。時空構造。
僕が、僕と世界の間にどういう折り合いをつけるべきか。
全て、理解する。体全部の血が入れ替わったかのようだった。信じられないくらい痛くて、それから、底抜けに爽快だった。
拍手の音が轟いた。次から次へと祝福の音が叩きつけられた。世界が揺れていた。
その音にかき消されるように、舞台の上の宇宙は次々消えて、無くなった。
劇が終わり、幕が閉じる。
僕は、部長に後のことを任せて、その場を離れた。舞台袖から抜け出し、控え室から抜け出し、文化会館から離れた。
外は、雨が降り始めていた。予定より早く台風が近づいているらしい。明日には外出が危険になっているだろう。斑に浮かぶ雲たちは薄く虹色に光っていた。
僕は走り出した。雨と風が吹き付ける中で、ほとんど笑い出しそうになりながら。NASAをはじめ世界中のいろんな組織が朝のニュースで流れていた事実に注目していた――宇宙の膨張速度が、異様に速まっているという事実に。
僕はリアルタイムでそれを感じていた。物理宇宙はふくらみ、そして可能性宇宙は死滅しつつあった。残り少ない宇宙たちも、あと少しで消えるだろう。
だからそれまでに、恵理紗の元に辿り着かなければならなかった。




