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   Ⅳ 二〇〇一年 九月十一日


 二〇〇一年 九月十一日


 サンフランシスコに向かう機内は全く混雑していなかった。一方で、ニューアーク空港自体は朝の混雑の渦中にあった。機体トラブルによって別の便から乗り換えてきた乗客の一人が、ユーリの二つ隣の席で携帯電話に向かって冗談めかした愚痴を囁いていた。

 中肉中背の日系の青年――水葉ユーリもまた、携帯電話を耳に軽くあて、小声で会話を行っていた。腕時計に目をやると、既に八時半を回っていた。離陸は八時に予定されていたから、既に半時間以上の遅れというわけだ。

 ――すべて祝福だ、などと達観できれば、どれほどにいいか。内心で自嘲しながら、彼は電話に声を吐いていた。

「……ああ、そう、まだアメリカだよ。もうじき離れようとは思ってるけどね。……何だって? いや、だからさ、心配ないって。もう餓鬼でもないんだし。大体、ここは政情不安定などこぞの紛争地帯じゃない、アメリカだよ? 俺は兄さんとは違うんだから――いや、ごめん。……うん、まあそりゃ、そうだけれども。――分かったって、気をつける。もう少ししたら日本にも立ち寄るから、その時には直前に連絡を入れるよ。食事にでも行こう。……そう、それじゃあ、また」

 通話を切り、ユーリは座席に背をもたせかけて嘆息した。

 フライトは、三十分以上の遅れをみせていた。乗客は三十七名、乗員含め四十四名が搭乗する機体がようやく動き出す。

 と――、ユーリの手に収まったままの携帯が震えた。画面を確認すると、そこには何も表示されていない。

 ユーリは慣れたことだといった表情で、それをもう一度持ち上げ、耳元へと近づける。ボタンの操作も何もしてはいなかったが、スピーカーが彼の耳に近づいたのを見計らったかのように、声が漏れ出てくる。

『観測と計算が収斂しつつある。そろそろ身構えておけ』

 声は、前置きなしにそう告げた。ユーリは目を細め、苦笑した。

「準備ったって、出来ることがそうそうあるかよ? ここはもう――空の上だぜ、『ナビゲーター』よ、分かってるか?」

 通話の間に、機体は離陸し上昇を続けていた。窓から外を眺め、ユーリはそのありふれた、しかしなんとも壮麗な光景にしばし見入った。

「なあ、少し聞いてもいいか?」

『なんだ?』

「どうして、もっと早くに行動を起こしてはならない? お前らの『予測』とやらによれば、高い確率で事が起こるんだろう?」

『高いといっても、その時が迫るまでは九割に満たない確率だ。ある何がしかの事態は、それが起こる瞬間に近づくに従って予測が容易になるが、この『事態が起こるまでの時間』と予測精度の高さは重力の強さと距離の関係のようなものだ』

「――逆二乗で減衰するってか」

『世界の未来予測においては、二乗どころじゃない。ほんの最小時間で無数に枝分かれする根本構造を持った宇宙の予測は、極端に難しい計算作業になる。未然に事を防ごうとすれば行動は早いほうがいいが、そも事が起こるかどうかは直前まで分からない。それともお前は、一割ほどの確率で自分のほうが犯罪者になってもいいのか? もし空港や旅客機内で間違って罪無き一般人に跳びかかれば、さぞ楽しいことになるだろうよ』

「そうかいそりゃ難儀なことで――もう一ついいか?」

『いいとも。俺は多忙だし今も必死でお前のいる宇宙の未来予測が続けられてはいるが、お前の重要性は俺が一番良く知ってるからな、ユーリ君』

 嫌味たっぷりに、皮肉った口調で通話相手が言い捨てる。全くもって、失礼な奴だと反射的にそう感じてから、ユーリはすぐさま再び苦笑いすることになった。

「お前たちは、他宇宙に干渉できるほどの凄まじい文明を築いているんだろう。なら、わざわざ他世界の住人に何かさせるんじゃなく、最初から問題となりそうなものは全部自分たちで処理すればいいのと違うか」

 ふん、と鼻を鳴らす音が、スピーカーから小さく響いた。

『そうそう便利なことは出来ないようになってる。他宇宙への干渉はひどくリスキーな行為なんだ。宇宙同士の間に通信を――情報的な繋がりを持つだけでも、俺たちの目的からすればかなり危うい』

「俺たちの目的、ね。人の恋路がそんなに大事かね」

『お前らが上手くやらないとまた一つ全宇宙の命運が危うくなる。必死になりもするさ。話を戻すぞ。いいか、個別宇宙の間で情報をやり取りするということは、それ自体が別々の宇宙を一つにつなげる行為だ。やり取りできる場所は、本当の意味での彼岸ではなくなる。大規模な介入を行えば、俺の宇宙とお前の宇宙の繋がりが濃くなっていき、ある閾値を越えたところで――』

「一つになる?」

 先読みしてユーリが呟くと、『その通りだ分かってるなら聞くんじゃない』とぶっきらぼうな声が返ってくる。

「悪かったよ。ああ、そうだ、別の便はどうなってる?」

『ソフィアと、彼女が選定した協力者をそれぞれ送り込んである。いずれも腕には覚えがある人間たちだ。こちらのサポートにも上手く順応してくれた。心配ない』

「そうか……」

『暗い声だな。信頼していないのか?』

「まあな。なにせあんたは、『俺』であるわけなんだから」

『あくまで別物だ――まあ、似通ってはいるだろうが』

 この日、ユーリはサンフランシスコに向かう用事などなかった。そもそも、この飛行機がサンフランシスコに『辿り着かない』と知ればこそ、乗り込んだのだった。

『時間までまだ少しある。常に意識を尖らせておけ。事前情報に変更があれば、直接お前自身に送る』

 一方的に通話が途切れる。

 耳から話した電話の液晶画面を再び見やると、やはりそこには何も映っていない。通話記録にも、何一つ痕跡は残っていない。

 それは当然のことだった。なにせ通話相手は、別宇宙の人間である。通話記録も何も無い。宇宙と宇宙の狭間に通信タワーがあるわけでもなければ、メタ的な可能性宇宙群を統括する携帯電話会社があるわけでもない。

 電話は見せ掛けだった。別宇宙の「ナビゲーター」の配慮というわけだ。

 電話をポケットに突っ込んで、ユーリはそれとなく周囲を確認する。ユナイテッド航空93便――ボーイングの中型旅客機内部は、がらがらに空いている。乗客は割に狭い範囲の座席に固まっており、その人数の少なさが伺えた。

 乗客の顔ぶれは、それなりに多彩と言えた。白人に混じってユーリを含めた日系が二名、それ以外に中東や西アジアの系譜に連なると見える顔もあった。

 じわじわと時間が過ぎていく。飲み物を受け取りくつろぐ乗客や、品のいい笑顔で応対している乗務員の姿を視界の端に捉えつつ、ユーリは意識を鎮め、同時に高ぶらせていく。

 時計の針が、九時二十五分を過ぎる。

『来るぞ』

 ナビゲーターの声がどこからともなく響く。それからきっかり一分ちょうど経過したとき、数名の乗客が一度に動き始めた。

 それと同時にユーリもまた立ち上がった。

 動き出した乗客の一人が、服の下から何かを取り出した。少々奇妙な形をしてはいたが、誰もが一目で分かる、拳銃だった。そんなものを旅客機内にどう持ち込んだのかは分からない。恐ろしく非常識な事態ではあったが、しかし確かにその乗客が――中東系の顔つきをした男は、拳銃を手にしていた。

 別の動き出した男たちも、手に手に何かしらの凶器をいつの間にか携えていた。統制されたと言うよりは、個別に恐ろしく強靭な覚悟を抱いているといった様子で、迷い無く事を起こし始める。

 刃物を手にした男が、手近にいた乗客の一人を通路に引きずり出した。かなり前の方の座席で、引きずり出された乗客は、誰もが見える、座席の間の広い通路に転がった。

 恐らく、何がなんだか理解していなかったのであろう、目を丸くしているその中年白人男性に、刃物を手にした男は何事かを叫び、凶器を高々と振り上げた。

 ハイジャックのための――皆を恐怖で凍りつかせ、力関係を一瞬で覚えこませ従順さを引き出すための、見せしめだったのだろうか。大声をあげ、振り上げた刃物を逆手に持ち、勢いよく振り下ろそうとする。

 ――その時にはすでに、ユーリは飛ぶように駆けていた。

 彼は――これは信じがたいことだが、自身の脳機能の、本来不随意であるべき部分に関して、ある程度自由にを行うことが出来た。

 ――つまり、()()()()()出来た。

 ユーリは、仮想的に自己をに少しばかり規定し、そうして存在することとなった自己身体外の自己を使用して、自身の感覚性言語野を含む限定されたいくつかの脳部位を意図的に操作し、その血流を絞り、電位変化を減退させた。

 これにより、ユーリはひと時、感覚性失語にも似た状態に陥った。平たく言えば、言葉の意味自体への理解を失いかけた。

 走りながら、ハイジャック犯に迫りながら、自ら脳を操作し失語症に陥るという行為に意味はあるか――それはひどく危険な行為ではないか。

 無論、危険な行為に他ならなかった。しかし同時に、意味は、あった。

 言語が一瞬失われることによって、ユーリは万物を万物とする分かれ目が――あらゆる意味の境界が揺らぎ、消えかけるのを、まざまざと感じた。感じて、そこに――した!

 狂おしいほどの恍惚とした満足感のようなものが、ユーリの中に走った。その上で、ユーリは己を規定する枠までもが揺らぐのを、はっきりと感じた。

 はじめに仮想的に規定したのとは比べ物にならない、広く大きな『自己』が、いまやユーリを構成する主体となっていた。今この瞬間、ユーリは、たかだか一、二キログラムの脳などではない、ユーリ自身を含む広い世界そのものの一部をもってして、自己をドライブさせていた。

 それからすぐに、彼は言語野を復帰させた。言語を失い意味を失ったままでは、まともに判断は出来ない。最悪そのまま自己を完全に失ってしまう。

 そのため、ユーリは言語を取り戻していた。意味が戻り万物が万物として姿を取り戻す。あれがあれでこれがこれであるという認識が蘇る。

 だが一方で、拡散しかけた自己は、すぐには戻らなかった。そこには、ラグとでもいえるものが存在した。ユーリはそれを利用した――最大限に。

 ユーリの『自己』は彼を含む周囲数十メートルにまで拡散していた。今やその全てが彼の一部であり自己だった。脳神経系はちっぽけなパーツに成り下がり、意識活動は莫大な空間とそこに存在する万物によってされていた。

 これもまた信じがたいことだが、ユーリは本来脳神経系が行う処理を、座席のシートを形作る金属フレームや布地、辺りを漂う空気によって行っていた。空気を構成する分子を操っているわけではない。だが、その分子の動作によって、彼は計算し、思考し、意識していた。

 神経細胞の一部が活動電位を発することが意識活動の一部であるが如く、空気の動きの一筋が、彼の意識活動の一筋となっていた。

 無論、その処理容量は、大幅に増大していた。増大という表現も生易しい、ほとんど悪夢のような、尋常ではない肥大化だった。何せ、一抱えの細胞の塊から、一気に半径数十メートルの空間へと処理ハードが変更されたのである。

 複雑でステップの多い処理だったが、この全ての処理が、ほんの半秒もかけずに行われていた。

 一瞬もかけずに、ユーリは『犯人』の数と顔と名前と動きの全てを把握した。しようと思えば、鼓動のペースを感じることも、脳血流の変化を観察することも、容易だった。彼らもまた、ユーリの『自己』の範囲内に含まれていたのだから。

 ナイフを振り上げた男が、走り寄るユーリを目にして、怒声を上げる。そのまま腕を振り下ろして乗客を刺そうと考える。

 が、実行できない。ユーリがひと睨みすると、まるでその視線に魔法でもかけられたかのように、男は動きを止めた。何か、身体を動かしている歯車に異物でも挟まったかのように。彼の運動神経は、一時、クラッシュしていた。ユーリの意志によって、相反する命令が彼の脳内で錯綜していた。

 僅かな間、犯人が動きを止めた。その間に、ユーリはその手から刃物を奪い取り、更に顎を殴りつけた。

 人形のようにあっけなく崩れるその男には目もくれず、更に走り、キャビンから遠ざかろうとしていたもう一人を蹴りつけて倒し、踏みつけて昏倒させる。続けて三人目、コクピットのドアを開いている男めがけて奪ったままのナイフを投擲した。

 ユーリは、投げナイフの訓練などしたことがなかった。が、拡張された意識は、経験の有無などという問題を苦にしなかった。それをしようと意識した瞬間には、どうすればいいかがありありと分かっていた。

 最適な投擲をなされたナイフは恐ろしく正確に男の手に突き立ち、手の平を壁に縫いとめた。悲鳴を上げる男にユーリは軽く拳をぶつける。大した勢いではないが、簡単に男を昏倒させる。

 最後の一人――コクピット内に早くも進入していた男は、その顔にただ驚愕を貼り付けていた。凄まじい信心と覚悟によって、自身の命をかけてこれからテロを行おうとしていた男が、子供のように驚き目を見開いていた。

 当然、ユーリは彼も問答無用で打ち倒した。全てが終わり、ほんの少し気を緩めた瞬間、彼の意識は収縮した。

 言語がそのリアリティを復帰させ、意識活動が脳活動に規模とシステム構造を同期する。

 気絶しそうなめまいが襲ってくる。吐き気と倦怠感が湧き上がる。それらを必死で抑えながら、ユーリはコクピット内を一瞥した。

 パイロットは、副操縦士と共に、無事だった。それを確認して、ユーリはその場にへたり込んだ。汗が吹き出て、風邪のときのように頭の芯が熱をもっていた。

 意識の拡張によって疲弊しきったユーリは、荒い息をつきながら、その場の誰に向けてでもなく、呟いた。

「成功したぞ」

 どこぞの宇宙で観察しているであろう『ナビゲーター』に向かって、彼は彼はただそう報告した。

 

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