Ⅱ セントラ暦二百九十二年 淡紅飾り紐の月 (2)
「私の娘は、混沌の使徒だったのです」
そんなことを、王妃は淡々と言ってのけた。
アナンダミド王城・セレブラム城から秩序の供犠廟、白亜の塔へと至る通路を、ユルゲンは王妃の後ろについて歩いていた。
人払いがなされていたのは確実で、王妃にはユルゲンのほかに誰もついていない。異常と断定していい事態だった。
強い夏の日差しの下、アナンダミドの町並みが、高台に建った城からは見える。石造りの家々、民衆用に整備された公園と噴水、立ち並ぶ商店、ガラス窓が当たり前に多用された商館。どれもこれも、繁栄の証だった。
「エリーズ……様が、ですか?」
皇太子殿下、と呼ぶべきかどうか迷いながら、掠れた声でユルゲンは確認した。
「そう。信じられない?」
「それは……」
言葉が続かない。はいと答えたようなものだった。
秩序の血族、アナンダミド王家から、混沌の使徒が産まれるなど、信じ難かった。いやむしろ、だからこそ、エリーズが王の子ではないという話になるのだろうか――短い間に、ユルゲンは詮無い事を考える。
「ついてくれば、分かる」
そうとだけ答え、王妃は見上げるほどに高いシンプルな白い塔――白亜の塔のすぐ近くまで辿り着くと、そこで爪先の向きを変えた。
「どこへ?」
「隠された廟へ」
塔を回り込んで、王城の城壁や用水路の入り組む奥へと王妃は進んでいく。足取りに迷いはない。
やがて、辿り着いたのは、一見地下水路への入り口と思しき、石造りのアーチに囲まれた扉だった。
「これは……」
その扉の前に、二人、鎧を身につけた騎士が倒れていた。二人は、息はあるようだが、当分意識が戻ることはないであろう、深い沈黙の中にあった。
「事前に手を回しておきました」
当然のように、王妃はそう呟き、扉に手をかけた。あまりのことに、ユルゲンは黙って王族に自らの手で扉を開けさせてしまう。
扉の向こうには、下り階段が続いていた。王妃は入り口の壁にかけられたランプをユルゲンに手渡す。
「足元を照らしなさい。この先に、明かりはありません」
灯をともし、ユルゲンは階段へと足をかける。
階段は緩やかなカーブを描き続けており、螺旋を描きながら地下へと向かっていた。手すりや柵のない非常に危険な階段で、はじめユルゲンは王妃が足を滑らさないかと注意していたが、彼女のしっかりした足取りを見るうちに、ほかの事が気にかかってきた。
石壁に囲まれた円筒状の空間には、王妃の言葉通り明かりが一切なかった。その上、階段はひどく長く、深くまで続いている。
(一体、なんだというんだ……)
こんな施設の存在は、ユルゲンは聞いたことがなかった。不気味であり、実用的ではない地下空間に、心がすくみそうになる。
たっぷり時間をかけて、階段の終点に二人は辿り着いた。地上にあったものよりもしっかりとした両開きの鉄扉が、階段の終わりにはそびえていた。
王妃は扉に手をかざすと、指先に何かの光を灯らせた。
(秘術、か?)
見たことのない術だった。あるいはそれは、限られた血統のみに相続される術なのかもしれなかった。
扉が、ゆっくりと開く。
「ユルゲン、あなたは教会の教えを疑ったことがありますか?」
数瞬唖然とし、それからすぐに答える。
「いいえ」
「では今この瞬間から、疑い続けなさい」
ユルゲンは自身の耳を疑った。セントラを、教会を、疑う?
ほとんどの人間にとって、それは、一足す一が二であることを疑えというようなものだ。
そも、ユルゲンは教会騎士である。任務の中には、不敬な異端者を捕らえ、処罰し、時には討つことも含まれている。
「私に、異端になれと?」
悲鳴のような情けない声が出てしまっていた。
ユルゲンの必死な表情に、王妃は、乾いた笑いで応えた。
「ユルゲン、ここが、何だと思って?」
「分かりません、こんな場所は聞いたことが」
「私は言ったはずです。『もう一つの供犠廟』だと」
王妃は、ユルゲンの手からランプを取り、扉の向こうへと足を踏み出した。
闇の中、ランプの明かりを手に、彼女は真っ直ぐに進んでいく。扉の内側は、どうやら半球状の天井を持つ広い空間になっているようだった。
ランプを傾け、その火を、部屋の中心の何かの台座のような場所に、王妃は移した。すると、なんの仕掛けか、次々に部屋のあちこちに灯がともり、ゆらめく炎の明かりが辺りを照らし出した。
闇が払われたその場をユルゲンは何気なく見回し――一瞬ぽかんと口を開けて眉根を寄せ、そしてすぐに、えずいた。
「これ、は、一体――!」
今度こそ、彼のその声は、悲鳴そのものだった。
彼と王妃が立つ場所は、先ほどまでの歩いた階段のある場所と同じような、円筒状の空間の、最上部だった。足元には底が見えないほどに深く、円筒状の石壁が続いている。壁際には階段があり、ところどころ、クモの巣のように通路や半端な広さの床が作られている。
そして、その円状の壁一面に、何かが、貼り付けられていた。
「あなたの知る教会の教えに、こんなものは含まれていましたか? ユルゲン」
膝をつき、ユルゲンは吐き気を抑えながら、しかしそれでも壁から目を離せなかった。
貼り付けられているのは、人間だった。
ほとんどは、十代の少女らしかった。最も、それを確認するのは、難しいことだった。
少女たちは皆、髪をそられ、耳と目を――二度と使えぬように細工されていた。その上、手足も見えなかった。口には鉄の枷のようなものがはめ込まれていた。上下の顎の間には、暗い空洞だけがあり、舌は見えなかった。一見して、死体と見えた。
「ここは、混沌の供犠廟」
冷静な、硬く冷たく鋭い王妃の声が、壁に――少女たちに、反響する。
どうして王妃がこの場において、震えた声一つ出さないのか、ユルゲンは理解しがたいと感じた。しかしすぐに、悟った。
とっくに王妃は、行き着くところまで、行き着いているのだと。
「アナンダミドと教会の、罪と恥の結集する場所です」
「ユルゲン。例えば、『右』や『東』といった方向を、それ以外の方向という概念を全く用いずに抜き出し指し示すことは、可能ですか?」
唐突に、王妃はそんなことを言う。何をこんな場所で、とユルゲンは思ったが、彼女の冷え冷えとした声音の輝きに気圧されて、素直に答える。
「……できません」
「なら、善と悪は? 悪によらずに善だけを抜き出して指し示すことは出来る? その逆は? あるいは、美と醜は? 偶然と必然は? 男と女は?」
一通り考えて、ユルゲンは、結局のところ、うめくしかない。
「不可能です」
対立する二物から、一方だけを抜き出して指し示すことなど、出来ない。右は、常に左を前提としてしか存在できない。悪を前提としない善はない。
世界中から男が全て滅びれば、女は女だけで存在していることになるが、しかし、そうなれば女を女と区別するものはなくなる。『この世に男がいた』という記憶が誰の心からも消え、『男』という概念が滅びれば、それと同時に「女」という意味も滅びる。
答え、考えながら、ユルゲンは話の先が読めてしまった。
耐え切れずに、口にしてしまう。
「秩序と、混沌も――」
王妃は、静かに首肯した。
「秩序の供犠が必要であれば、同時に『混沌の供犠』もまた必要だった。質量の供犠に対し、エネルギーの供犠が必要であるように」
――秩序が無い世界は、あらゆるものが無秩序であるが故に、万物に明瞭な区別は存在せず、何もかもが灰色の、全一としての曖昧さとなるしかない。秩序の供犠たちは、世界に秩序を与え、これを防ぐ。
だが、秩序だけを突き詰めた世界が、どうなるか。
かつて人は、世界から滅びを消し去ろうとして、その結果、世界を滅ぼした。
「どうして、世界が滅びかけたのか。それを、神話は伝えていません」
王妃は、淡々と語り続ける。ユルゲンは混乱する思考の片隅で、ふと考える。一体いつ、この王妃は真実を知ったのだろうか、と。
「謎は、一握りの教会最上層部と、王、そして元老院の数名にのみ共有され、隠されていました。私は、私兵を使い、あらゆる手でこの隠し事を暴いた」
王妃の私兵など、第六の供犠廟と同じく、ユルゲンにとっては初耳だった。驚くべき話だったが、既に散々ショックを受けた心は、どこか弛緩してしまったようで、これぐらいではさして反応しなかった。
王妃は、自らが得た真相を、口早に語っていく。
人はかつて、滅びを消そうとした。安定を突き詰めようとした。永遠を得ようとした。
しかし、悪によらない善が存在し得ないように、安定も、価値も、その滅びを前提とせずには存在し得なかった。
「完全な永遠の生」は死を放逐することで、その価値を自ら無意味化した。崩れる可能性のない価値は、全時間において完璧に存在し続ける。それがそこに在る価値は、それ故に消えうせる。
変化は、価値の消失だけにはとどまらなかった。
滅びに繋がる変化を排除し、安定を突き詰めた結果、世界は完全に変化のない状態を志向し、その最終形態としての『原初的平衡状態』を招いた。安定を突き詰めた結果としての、滅びだった。
「世界を救った者たち――アナンダミドの『始まりの血』の祖先となる人々は、元の世界を自分たちの秘術の力によって再現しようとした。万物に質量をもたらし重力をもたらしエネルギーをもたらした。そして秩序がもたらされた。秩序は世界の万物に意味をもたらした。『私』と『あなた』を存在させ、『善』と『悪』を存在させた。でも、秩序だけがもたらされたのでは――」
「またも、世界は行き詰る」
「そう。世界を整理し意味づけすることの究極系は、全ての物質や空間が最小単位で意味づけされ分けられるということになる。曖昧な部分はない。それは最早、個々の意味の間にコミュニケーションのない、変化の死んだ世界。だから当然、そんな破局を避けるために、彼らは秩序の正逆を――『混沌という曖昧さ』を、秩序と同時に世界に適量、流し込んだ」
何のことはない。混沌もまた、世界に必須の一員だったということだ。供犠として、世界を支える柱だということだった……。
「それならなぜ……教会はその事実を隠したりしたのか――」
「簡単な理由です。世界の存続や滅びなんて大層なものからすれば、恐ろしく馬鹿馬鹿しい。卑俗な理由から」
吐き捨てるような口調だった。
「それは、一体」
分かりませんか? と、王妃は皮肉気に唇の端を吊り上げて見せた。王族のする顔ではなかった。都市の路地で刺し殺された盗品商を見下ろす同業者のような、諧謔と暴力性を併せ持った顔だった。
「人は、分かりやすい敵がいると、簡単にまとまり、操りやすくなるでしょう?」
言いながら、王妃は壁際に歩いて寄った。炎の光が届きづらい、壁のすぐ下に、それまで気づいていなかった何かがあることを、ユルゲンは王妃の持つランプの明かりで見てとった。
それは、地面に無造作に転がっている、エリーズだった。壁に吊るされた者と違いまだ一切の「処理」をされていないようだった。
ユルゲンは最早、これが悪夢であることを全力で神に祈ろうとしていた。が、祈る神といえば、セントラの唱える神しか知らなかった。
「混沌の力は、他の秘術に比べ、制御が難しい。混沌の使徒として――供犠として目覚めた少女は、度々混沌の力を暴走させる。民衆は、だから、元々彼女らを危険視していたし、疎んじるところがあった。教会もアナンダミド王家も、歴史の中で常に、自分たちの立場をより強く、磐石のものとすることを願っていた」
王妃が屈みこむ。エリーズはうつ伏せになって横たわっていた。背中が微かに上下していた。が、その上下する背の中心には、無骨な、青く輝く結晶が突き刺さっていた。
「ドラゴンスレイヤー……」
ユルゲンは、自分の腰に下がっている、教会騎士最上の名誉、誰もが憧れ、敬う、ドラゴン狩りの貴重な武器と同じものを、その目に映していた。
「教会はそれで、一計を案じた。民衆の様々な不満を逸らし、その怒りの掃け口とする存在という役割を、混沌の使徒たちに割り振った」
「供犠として世界を支える存在を……?」
「そう。教会にとっては、一石二鳥だった。アナンダミドと教会の権力を強化し、同時に、扱いにくい混沌の供犠を、人道を無視して無理やり制御することも出来たから」
「これが、その成果だと……!」
ユルゲンは、周囲の悪夢に意識を向けた、無数の骸――だと思ったものが、何であるのか、悟る。
貼り付けられた者たちは、よく観察すれば、皆、胸の辺りが微かに動いていた。
供犠だった。一般的な供犠廟では、供犠たちは精神を削りつつ、秘術を行使し続け、世界を守る。それはひどく辛いことだが、民からは尊敬し感謝されることであり、数年の任期の間も、それを終えてからも、供犠となった者には栄誉と褒章がついて回る。供犠の任の最中にある者には、最大限の支援と、気遣いが向けられる。
ここにはそんなものは、一切なかった。
「教会騎士や各地の教会勢力下の傭兵によって混沌の娘を捕らえ、集める。混沌の力は敵――世界の敵と『教え』を広めているから、非難するものは少ない。力を暴走させないよう、その身体を『処理』し、秩序の秘術で封印して、更に、世界の維持に必要なだけの混沌の力を強制的に吸い出し続ける。死ねば、交換する。新しい娘に」
ここは、絞り続けられる葡萄たちのクレードルというわけだった。
「私の子、エリーズは、混沌の力を宿していました。王家には混沌の使途など生まれない――なぜなら混沌こそはただ唯一世界に仇なす力であるのだから……そう言われていますが、ここまで知ったのなら、分かるでしょう。出鱈目です」
ユルゲンはふらつく足で、吸い寄せられるように、エリーズに近寄った。これまで自分が正義と民のためと行ってきた任務の数々が脳裏を過ぎった。一体何人の混沌の使徒を、捕らえただろうか?
壁に貼り付けられた無数の生きた骸のなかに、ひょっとしたらいるかもしれない。
「王や教会は、混沌の力を恐れ、また権力を脅かすと判断し、切り捨てることを決意しました。弟のシュワンを正統後継者に据え、姉を種違いの、王家乗っ取りを画策した邪悪な娘としたのです」
「王妃……」
「ユルゲン。私は最早、この国の王妃ではありません。私は今日より、背教します」
きっぱりと、言い切る。
「一体、何をなさるおつもりですか」
「王城の内部から、この都市に、国に、剣を突き入れます。ユルゲン」
王妃は――王妃であった彼女は、ユルゲンに向き直り、膝をついた。
「あなたには、私に協力して欲しいのです。教会騎士の中で、強く、同時に、真実を知って尚正しく生きていける人物は、あなた以外に考えられませんでした」
「私は、私は、ただの一人の騎士です」
「あなたには、娘を――エリーズを連れて、この国から逃げて欲しい」
ユルゲンは、自らも膝をついた。真っ白く血の気の引いた顔を、エリーズに向けていた。
「西の地、ランヴィエとの国境に近い場所に、シルヴィウスという土地があります。あそこは先の戦争以来ダイノルフィンが所有し、アナンダミドには手が出し辛い。その上ダイノルフィンは見栄と牽制でかの地を所有しているだけで、実質的な統治はさして行き届いてはいない。以前より、迫害から逃れた混沌の使徒とその家族が、多く身を寄せていると聞きます」
「そこへ、エリーズ様を連れて、逃げろと?」
「少数ですが選りすぐりの私兵をつけます。私がアナンダミドを混乱させている隙に、到達できるはずです」
言葉が、出てこなかった。黙り込み、ユルゲンは、自身を取り巻く地獄に、叫びだしそうになっていた。
つい数時間前まで、教会の栄光を疑わず、騎士としての誇りを疑わず、日の元で胸を張って人生を歩んでいた。それが、全て崩れたのだ。
屈みこみ、エリーズに顔を寄せた。懺悔するかのように、ユルゲンは地面に腕をつき、四つんばいになっていた。
その時、エリーズの唇が、微かに蠢いた。至近から見ていなければ気づかないほどに、小さく、震える。
「たすけて」
ほとんど光を失った瞳が、ユルゲンを捉えていた。
その瞬間、ユルゲンは、とうとう絶叫した。立ち上がり、エリーズの背に突き立っているドラゴンスレイヤーの刃を手で掴み、叫びながら引き抜いた。混沌の力を断つ結晶の刃が、エリーズの身体から――胸の中心辺りにある、混沌の力の根源とされる結晶、『竜核』を貫き封印していた刃が、取り除かれる。
そのまま刃を、眼下のどこまでも続くような深淵へと投げ捨てた。
そうしてその日、ユルゲンは、背教騎士となった。




