Ⅱ セントラ暦二百九十二年 淡紅飾り紐の月
かつて人は、揺らぎ、変化に満ちた世界に生きる中で、何度もその存続を脅かされ、多くの命が死に、生命の基盤を失いかけ、そのたびに大いに苦痛を味わったという。
その世界で人は、球形の大地に住んでいたが、大地は度々揺れ、高波が人を飲み込み、あるいは干上がった泉の前に膝をつき干からびた。風が気まぐれに病を運び、日照りが凶作を呼び込み、人は多くの死者を埋めた。
長い間、そうした不運に見舞われながらも人は知恵を重ね、伸ばし、多くの現象を制御することに着手した。安定した食物、水、エネルギーの生産と供給。そのために生息域を広げ、世界の仕組みを次々解き明かし、とうとう大地を離れ球形の地を取り囲む茫漠たる空間へ飛び立った。
だがそこまで進歩を続けて尚、人は不運で命を落とす。星の爆発の余波を受けて死に、流星の衝突によって死に、宇宙の深淵から来訪した未知の生物によって死んだ。
人はうんざりしていた。どれほどに自分たちが進歩し、身体を強化し、生息域を広げようとも、脅威はなくならなかった故に。
古来より一定の人間は不死を追い求めてきた。半機械生命にまで変化を続け宇宙を自在に駆けるようになった人類は擬似的な不死を手にしていたが、しかし「生れでたものはいずれ消える」という大原則に打ち勝つまでには至っていなかった。母星を飛び出て長い時が経っても、「諸行無常」からは逃れ得ない。
人は、うんざりしていた。いまこそ概念ではなく実在する「永遠」を、「永続」を、手にしようと、人は禁忌に手を伸ばした。
世界の根底的な原理、「大統一理論」と呼ばれていたシステムを含む世の根本原理を人類自身と和合させ、世界システムの完全な支配を望んだ。
人はそれにより、物理法則や「意味」そのものまでも己が自由とし、その力を持って永遠を、欠けるところのない安寧を得ようとした。
結果、世界は灰色の滅びに見舞われた。
人は世界の制御に失敗し、世界のシステムを誤って書き換えたことで、あらゆる「意味」が失われ、「秩序」が失われ、何一つ変化も秩序もない「原初的平衡」へと落とされた。
あらゆる物事に偏りがなく、意味がなく、変化がなく、故に何も存在していないに等しい原初的平衡状態に、世界のほとんどが飲み込まれた。
一握りの人間たちは、意味が霧散し消えようとする世界を存続させるため、己が内に宿した世界のシステムを用いて、元もとの世界を取り戻そうとした。彼らは力不足であり、広がった平衡状態をどうにかすることは出来なかったが、ほんの一握りの世界を残すことには、何とか成功した。無化しようとしていた灰色の世界に「秩序」を与え、意味を存続させた。
そうして出来たのが、現在の世界の全てであり――世界を繋ぎとめた「秩序」の使徒こそ、教会の、そしてアナンダミド王家の始まりである……。
*
「……と、いうところでしょうか」
やや訝しげに、ユルゲンは締めくくった。王家とセントラ教(再統一聖教)会による、創世神話である。
窓から風が流れ込み、ユルゲンの頬をくすぐった。やや熱っぽい、夏の風だった。後半年もすれば――白梯子の月にでもなれば、肌を刺すような冷たい風となるはずだが、今はそれを信じられないほどに、日差しが強い。
その場に跪いたまま、ユルゲンは視線だけを動かし、自分の目の前に悠然と腰掛ける女性を盗み見た。中年となっても尚美しい、民が誇りとする、アナンダミド王妃は満足そうに頷いてみせた。
「良く覚えていますね」
当たり前だろう――と反射的にユルゲンは心の中で不敬な言葉を呟いていた。教会に仕える教会騎士、それもその筆頭たる従教騎士長である自らが、子供だって知っているような神話について知らないわけがない。が、そんなことを口に出来るはずもない。
「はい。神学もまた、教会騎士の務めでありまして――」
「では、その創世についてのお話が、単なる御伽噺でないことも、分かっていますね」
「はい。世界に点在する供犠廟、その内で世界の根本原理を司り、意味をつなぎとめ、原初的平衡状態から――灰色の滅びから世界を守り続けている教会の人々のおかげで、世界は今もこうして『在る』」
「このアナンダミドにも、供犠廟がありますね」
「ええ――勿論、われらが教会の誇る、世界の中心の供犠廟――最も重要なシステム、『秩序』をこの世にもたらし続ける場所が……」
言いながら、ユルゲンは惑う。一体、王妃は何を言っているのか。
「実は、もう一つあるのです」
「は?」
礼儀も何も忘れて、ユルゲンは顔を上げ、間抜けな声を発していた。咄嗟に意味がわからなかったのだ。もう一つある?
「供犠廟です」
口を開いたままの表情を晒しながらユルゲンはしばし息を詰まらせた。
世界の中心、アナンダミド。この世で最も広く、栄え、美しいこの都には、王城と共に世界にとって最上位に重要な施設がある。
秩序を司る供犠廟。王城に隣接して建つ、白亜の塔である。
これは、誰もが知る常識だった。王都と秩序の供犠廟。セットで覚えるものだ。
だが、王都に他の供犠廟があるなどという話は、ユルゲンは二十五年以上生きてきて、一度も聞いたことがなかった。そもそも供犠廟は教会にとっての重要施設であり、世界には五つしかないと、皆親から教わり、教会教師から教わる。六つ目の供犠廟など、馬鹿馬鹿しい。
ユルゲンは、目の前の王妃が狂ったかと、大きな哀れみを感じた。つい最近、二人の子――姉弟の内の姉、エリーズ皇太子が、種違いの子であると――つまりは、王の血を引かぬ穢れた子であるとされ、一騒動あったばかりである。
王妃がエリーズを深く愛し育てていたことを、度々王城に足を踏み入れる機会のあったユルゲンは、よく知っていた。王妃が別の男の子を成したという、王や教会や元老院の発表を聞いたとき、ユルゲンは俄かには信じられなかった。王妃が、そんなことをするなどありえないと。
その上エリーズは、弟であるシュワン王子を抑えて、王権継承を狙って王家全体を騙し続けたのだとされ、今は城内に幽閉されているという。
王妃が本当に不義理を犯したかはさておき、そんな状況では、さぞ心労が溜まっていることだろう――そう思ったのだが、しかし、ユルゲンを見つめる王妃の目には一部の狂気も混ざってはいなかった。
「ユルゲン。私があなたを呼び出し、神話の話などさせたのは、勿論あなたの知識や騎士としての質を試すためではありません」
「……では、一体?」
「ついてきて欲しい場所があります。ユルゲン。あなたにしか、話せないことがあるのです」
そう言って、王妃は立ち上がり、ユルゲンに手を差し伸べた。身分から言えば、ほとんどありえないことだった。ユルゲンは教会騎士の一隊を預かる長であり、それなりのエリートではあるが、王族とは恐ろしく遠い縁でしか結ばれない生まれである。
「手をとりなさい、ユルゲン。あなたの助けが必要です」
恐る恐る、ユルゲンは自らの手を差し出した。
*
アナンダミドは、世界の中心に位置する都市である。
北の大国ダイノルフィン、西の文明国ランヴィエとはここのところ諍いが絶えないが、国民はさして不安を覚えてはいない。世界で最も優れた、強く富んだ国にいるという自覚があるからだ。
神話にあるとおり、世界は一度滅びかけたという。それを何とか救ったのが、現在の教会の始まりでる。
人の身の内には、「世界の根本原理」を操る力が、組み込まれている。滅びより以前の人類が持っていなかった、禁忌の力。それによって人は永遠を望み、失敗して滅びかけるわけだが、その滅びを押しとどめたのも同じ力だった。
この力、「秘術」の力には、個人差がある。生まれつきの親和性がある。
特に強い力を持つ者は、教会の指導の下、「供犠廟」と呼ばれる施設に集まり、その力を使い世界を存続させ続けるための柱となる。
放っておけばあらゆる意味が失われ、原初的平衡状態と呼ばれる、変化も何もない灰色の混沌に飲まれそうになる世界に、エネルギーを存在させ、重力を存在させ、質量を存在させ、電気的な力を存在させ、あらゆる意味を存在させる――つまりは、灰色の平衡的な曖昧さを退け、区別やはっきりとした変化のある『秩序』をもたらす。
それが、供犠廟と、そこに集う「供犠」と呼ばれる巫女たちの御業だった。
数千キロの大陸を超え、広大な海を渡り『世界の果て』を目指したかつてのある有名冒険者は、海の果てであらゆる意味が消えうせ飲み込まれる灰色の壁を見たという。
この話が広まると、教会の権威は高まった。神話が実話であったと確かめられたからだ。
だが元々、教会は世界中の人々の信頼を集めていた。
それは教会が、人々の脅威となる存在と、常に戦ってきたからだ。
ドラゴン。
古の、滅び以前の世界での空想上の怪物の名をつけられたそれは、『秩序』を何とかして存続させる世界にとっての、天敵だった。
「秘術」は、人によって得意とする分野が異なる。重力の操作に長けた者がいれば、熱エネルギーの操作に特に長けた者もいる。
全ての力は、世界に意味を与え秩序を保持する力となるとされている。ただ、一つだけ例外を残して。
『混沌』の力。
世界の果ての「壁」から迫るものと同様の、「原初的平衡状態」を世にもたらすと言われる力。
ほとんどが女児に宿り、他の力よりも格段に暴走しやすく、危険な力。
教会はこの力を、秩序崩壊の力として徹底的に危険視し、敵対視した。
「ドラゴン」の名を冠する少女はその背に光翼を出現させ、「混沌の言葉」を祝福として口にする。そうして、巨大な混沌を出現させ、世界という「秩序」にぶつけることで、意味と無意味を相殺し原初的平衡を呼び込む。混沌を振りまき、動植物を変化させ、魔物と化す。
多くの人間が灰色の平衡に飲み込まれ、無意味化して消えた。
教会はドラゴンを狩るため、専門の戦闘集団を組織した。これが、現在の教会騎士の始まりだった。後にアナンダミドや教会を守るため様々な戦いに赴くことになる教会騎士だが、始まりは純粋なドラゴン狩りのための集団だった。
アナンダミド王家は、最初に「秩序」を滅びかけた世界にもたらした人間の末裔といわれ、教会の創始者の末裔でもあるとされる。
「始まりの血」と呼ばれる血統を連ねてきたアナンダミドは、教会と常に共に在り、だからこそ、世界で最も栄えることとなった。
歴史を重ね、いくつもの国が興っては消えたが、アナンダミドは揺るがない。
それが、アナンダミドの民の、誇りであり、安堵でもあった。




