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 1 ・二千十四年五月中旬

 1 ・二千十四年五月中旬


 とにもかくにも、一面、雨だった。

 まだ五月の半ばではあったが、どうやらこの年の梅雨はせっかちで、さらにしつこい性格らしい。青く茂ったあらゆる街路樹、切り崩されかけた小山の杉の群れ、一戸建ての庭先の紫陽花――何もかもが雨粒に打たれ、濡れ、毒々しく蠱惑的な色を――つまりは濡れた緑の色を見せていた。

 晴雨兼用の安っぽい傘を差して通学路を歩く。曇り空と雨粒のせいで視界は悪い。霧に包まれたようで、どうにも茫洋とした気分になる。

 雨にけぶる景色をじっと見ていると、意識をもっていかれそうになる。もっていかれそうに――何によって? 自問するまでもない。僕は軽く首を振った。意識の底から沸きかけていた幻が振り払われる。

 空想、妄想、幻想、幻覚――なんだっていい。多分大差はない。僕にとって、僕自身のちょっとした『問題』――眠りの間や、昼下がりの退屈な授業の最中に訪れるそいつは、慣れっこだった。

 誰にでもそういうところはある。仕事の間中不倫相手のことやタバコのことやわけもない人生の先行きに関する不安が頭に浮かぶ人たちがいる。性欲の二字に支配された男子中学生がいる。ケーキ・バイキングを楽しみにするあまり切符を買い忘れて改札で止められる奴だっている。

 僕のもまあ、そんなものの一つに過ぎない。今のところは人に迷惑もかけていないということで、適当に放っておいている。何しろ僕は、様々な関心事に気を使わなければいけない十代後半、高校二年生であって、定年退職後の富裕層のおじいさまではない。

 さらに言ってしまうならば、目下、最も力を入れて取り組むべき問題がはっきりと存在するわけだ。

「おはよう」

 背後から声がかかる。振り返ると、ほっそりとした人影が降り落ちる雨粒越しに見えた。

 良く知った友人の姿が、そこにある。身長百六十センチ、体重●●キログラム(自主規制)。ひどく細身で、光に透けると柔らかな栗色に見える細く美しい髪は、首に届くくらいの長さで、綺麗に切りそろえられている。

 制服のブラウスとベストに、リボンタイとブレザー。きっちり皺なく整えられたブレザー越しでも、肩の華奢さが見て取れる。

「おはよ。恵理紗」

 背後から早足になって僕に追いついたらしい彼女は、ほんの少しだけ息が切れていた。やや吊り気味の、思慮深い猫のような瞳がじっとこちらを捉えている。

 デジャ・ヴだ。唐突に、そんな言葉が浮かんだ。

 それからすぐに、自問する。既視感? 日常的に見ている光景に?

「台本だけど、出来合いのでいいやつ、あまり見つかってないって」

 僕の内心の不可思議な戸惑いは、彼女の言葉ですぐに掻き消える。僕の首くらいの高さから、恵理紗がほんの少しだけ見上げるようにして、こちらを見ていた。

「部長が?」

「ええ。だから多分、今年の地区大会は創作でいくことになるかもって」

「それはつまり、恵理紗が書くってこと?」

「私と、有理が書くってこと」

 僕の隣を歩きながら、恵理紗はそうすっぱりと訂正する。

「学内公演とかじゃなくて、大会でしょ? 恵理紗はともかく、僕は文才なんてないんだけれど」

「私にはあるみたいな言い方。有理が手伝ってくれなきゃ、クリスマス公演の脚本だって完成しなかった」

 真顔で言われる。大きくも、小さくも無い、耳に心地いい声だった。軒先で聞く雨音のようで、ひどく落ち着く。

 恵理紗と僕は、同じ中学で二年を過ごし、同じ高校に進んで一年と一ヶ月以上を共に過ごしていた。

 当然ながらそこには数年間分の慣れが存在し、会話も経験値によってスムーズに行われるわけだが、僕と恵理紗の間にあるスムーズさにはたった数年分の経験だけでは足りないであろう、奇妙な落ち着きがあった。

「期限は?」

「来月頭だって。早めにオーディションとかしたいみたい」

「ちょっと大変になるなぁ」

「そだね」

 呟き、ふと視線を上げる。

 白く分厚い雲の下、市の中央を流れる川沿いの高台に立つ見慣れた学び舎が、すぐ近くのところまで迫ってきていた。

「ねえ、有理」

 いくらかトーンを落とした恵理紗の声が、雨音と共に耳に滑り込む。

「今日、さ」

「いいよ」

 最後まで聞かずに、即答する。

 恵理紗はその場に立ち止まり、目を伏せてから一言、「ありがとう」と囁いた。


   *


 はじめて恵理紗という個人をはっきりと認識したのは、中学二年の秋ごろだった。

 親の都合で田舎から都市近郊の街の中学へと春先に転校してきた僕は数ヶ月ですっかりクラスに馴染んでいたけれど、さすがに女子生徒の全員と仲良くなるなんてことはできていなかった。だから、クラスメイトであるはずの彼女の名前すら、うろ覚えだった。

 中学二年といえば思春期中の思春期で、「男子」「女子」という二つの単語が宇宙を真っ二つに分ける最も偉大な単語だと多くの子供が感じている時期でもある。

 そんな子供らしい発達途中の世界認識は、時に甘酸っぱい(うへぇ)恋模様を生み出すし、またあるときは深刻な男女間での対立を生む。

 僕の所属していたクラスで秋頃に起こったそれは、つまりそういう思春期男女特有のいさかいから生まれ出たものだった。きっかけは多分些細過ぎる何かで、あまりに馬鹿馬鹿しくてほとんど覚えていない。掃除当番だか給食当番だか園芸委員会の仕事だか、とにかく何かの作業が原因だったような気がする。ちょっとしたいさかいがどんどん膨れ上がったのだ。

 分かりやすくいえば、「ちょっと男子ィー!」「うっせーな女子!」というあまりにほほえましく陳腐なやり取りに代表される喧嘩のようなものだ。一対一からはじまったそれは次第に付近の男女を取り込み、ある男子は見栄のためだけに食って掛かり、ある女子は真面目キャラを演じるがためにやり返し、またある男子は反動形成の奴隷となって好意を寄せる女子をわざわざ泣かせ、袋叩きに遭う。そうしてやや大きな「紛争」が勃発した。

 当時のわれらが二年三組担任教諭は、優れた計画によって授業を非常に素早く的確に進めていたから、授業時間には余裕があって、しかも彼は中々に教育熱心だった。自分の担当教科の時間を使って、クラス内で「話し合い」を実行したのだ。

 教室の南北、窓側と廊下側に綺麗に真っ二つに男子と女子が分かれて、にらみ合う。ほとんど爆笑ものの構図がこうして出来上がった。真面目キャラを貫く女子が議事進行を担い、担任は「君たちで話せるだけ話しなさい」と教卓に座り穏やかに微笑むだけ。

 喧々囂々の議論が、数十分続いて、僕ははっきりと暇だった。

 家庭の事情というやつで他人よりも少々男女の仲というものに関して成熟した考えを素早く持たざるを得なかった僕にとっては、同年の男子女子の話し合いなるものは、微笑ましいものの自ら参加するようなものであるとは思えず、ただただ退屈だった。

 学校生活には、時々たまらなく退屈な時間というものがある。僕はきちんと対抗策を持っていた。主に机と鞄の中に。

 そういうわけで、膝の上に広げた文庫本の文字列に、僕は没頭していた。暇つぶしのはずが、予想以上に凄まじい出来の小説で、のめりこんでしまった。それがいけなかった。

 自分たちがほとんど(イメージ的には)命がけで男女間での戦争をしているというのに、全く興味なさげに読書に勤しむ人間がいたら、中学生は勿論放ってはおかない。

「瑞穂有理! それから恵理紗も!」

 ばしんと痛そうな音がしたと思ったら、壇上の議長閣下(真面目女子)が黒板に平手を打ちつけた音だった。クラス中から非難の色が向けられていた。

 しまったなと思いつつ顔を上げると、ちょうど正面の女子生徒と目が合った。彼女もまた、罰の悪い顔をしてそろそろと顔を上げたところだった。手には、やや分厚い文庫本があった。「ロング・グッドバイ」、村上春樹訳のハヤカワミステリ文庫版だ。

 彼女もまた、僕の手元を一瞥した。そこには「若きウェルテルの悩み」高橋義孝訳、新潮文庫版が握られている。

 なんだかおかしくて、小さく噴出してしまった。それにつられてか、恵理紗はじっと僕の瞳に視線をあわせ、少しばかり驚いた顔をした。

 僕らはその後すぐに、仲良くなったように思う。



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