Ⅰ 二千五十二年 冬 (6)
凄まじい焦燥の中で、シュルデンはエルザの元へと向かっていた。町を疾走する車内で、補助脳をフル活用して、記憶しておいたライトノベルを展開し続けた。
自殺者から抜き出したノベルを十作品追加で『読書』したところで、シュルデンはあることに気がついた。腰の銃を、がっしりと無意識に、握っていた。こめかみや喉の辺りがうずいた。
なぜか、自分が喉を銃で打ち抜き、自殺するイメージが浮かび上がった。
――そんな馬鹿げたことがあるのか?
繰り返し、自問する。ただの文字列に過ぎない小説が、人を殺す。鉛玉でもドラッグでも炭素菌でも補助脳汚染ウィルスでもない。ただの物語が。
着信音。ナビゲーター。メッセージの表示――『若きウェルテルの悩み』。
「万有の真相、曰く不可解……」
呟き、シュルデンは苛立たしげにハンドルを殴りつけた。ただの物語。同期型電子ノベルでもなんでもない、遥か過去の小説一編が、短い遺書が、複数の人間を死に導いたとされている。馬鹿げたことでもなんでもない。既に実証済みの事実というわけだった。
ホテルに辿り着き、隠し住居部屋へと駆け込む。眠るエルザを起こさぬよう、室内では足音を殺し、慎重に目的へと近づく。
机に置かれたままになっていた古いパーソナルコンピューターを起動する。暗い室内が画面のバックライトによって淡い蒼色に染まる。
補助脳のデータを操る時とは比べ物にならないロードの遅さに歯噛みしつつ、パスワードを破り、ファイルを開いていく。
すぐに、目的のデータは見つかった。ここ数ヶ月の間に作成されたと思しき、テキストデータの群。メタデータも何もない、純粋なテキストデータ。
シュルデンはベルトに着けられたポーチからケーブルを取り出し、アダプターを噛ませてPCと自身の補助脳を接続する。
流れ込むデータの容量は、微々たるものだった。すぐに展開し、高速で『読』む。
数分間、立ち尽くしたままシュルデンは物語を味わい、やがて、その場に膝をついた。ともすれば震えそうになる骨や内臓を、意志の力で抑え込んだ。そうしなければ叫びだしそうだった。
――エルザの書いた物語は、すべて、圧倒的な虚無に向かって墜落する物語だった。ぽっかりと空いた凄まじい虚無の穴が、読むものを引きずり込む。
「リハビリ、なのか、これが」
企業と国家が共同して事件を揉み消す。経済的繁栄のために、父母が死に、姉が殺される。『行き着く先』としての凄惨な情景……かつて、エルザが見たもの。
最近の彼女は、元もとの明るさを取り戻しつつあった。自身の黒々とした部分を、彼女は、物語の中に詰め込むことで、処理していたのだろうか。
元々、エルザには物語の創作に長じたところがあった。生来直感的に物事を理解する彼女は、「あるべき結末」を直感することで、学生時代、優れた物語をいくつも趣味で創作していた。
その技量が、信じがたいほどの虚無を、創作している。
もう少しすれば。エルザが、元の活力を取り戻せば。この世の「行き着く先」がそんな虚無だけでないと知ることが出来れば。そんな機会を、自分が与えられれば。
生態脳の中で粘つく思考を振り切るように、シュルデンは立ち上がった。PC内のデータを全てくまなく消し去り、ネットから断線させる。最後に音を立てないよう自分の上着でくるんでから、叩き割る。
残骸を抱えたまま、部屋を出る。
歩きながら必死で考える。この事実に、N文庫が気づかないはずがない。むしろ今まで無事だったことのほうが不思議なくらいだった。ドラグーンは自分だけではない、優秀な猟犬の群がすぐそこまで迫ってきている。自分の五年間を、無にするために。
「ナビゲーター」
呼びかける。チャンネルが開き、無言で相手が応じる。
「――どうしてもっと早く伝えない? お前は未来が見えるんだろう、ナビゲーター……」
『あくまで、確率的な予測が出来るだけだ。無数の宇宙の観測結果から類似した状況を弾き出して計算するだけ。確実じゃないし時間もかかる。リアルタイムでは限界がある。それに、この、こういう宇宙に関してのデータはまだあまり無いんだ』
意味不明だった。歩きながら考え、シュルデンは頼みを口にする。
「新しい『リスト』を作って、送ってくれ」
『……理由を聞いても?』
「N文庫には慈悲も情も期待できない。俺はエルザを失うわけにはいかない」
『それで――繰り返すってことか?』
繰り返す。人並みの善良さを抱えていた警官時代を自ら終えた時の虚脱感を、シュルデンは幻として感じていた。N文庫の尖兵となることを思いつき、決断し、ナビゲーターの情報を大いに利用して、多くの人間を陥れた。
「経済的繁栄だ。その土台を無数に提供してやれば、取引が出来るかもしれない」
『……シュルデン。一度目とは違う。あの時渡した『リスト』は時間をかけてゆっくり計算し、導き出し、確定したものだ。今は一刻を争うんだろう』
「多少の荒さは仕方ない。ないよりましだ。俺一人ではどうにもならない」
『どうして、こっちがあんたをこうして制止していると思う?』
ナビゲーターは、人が容易に知りえないことを知り、予測しがたいことを予測する。
彼は、「行き着く先」をある程度見通しているのかもしれなかった。
「頼む。他に方法を思いつかない」
懇願する。祈る先も願う誰かも、シュルデンは既に持っていなかった。縋ることができるのは、ナビゲーターのような、異質などこかの誰かだけだった。誰もいなかった。
無言のまましばらく時が過ぎた。ホテルの従業員用出口に差し掛かろうという時になって、シュルデンの頭の中に、電子音が響く。
N文庫にとって邪魔な者達――その首の一つ一つに懸賞をかけるだけの価値のある人々のプロフィールが擬似視界上に並ぶ。手前勝手な都合で狙われる者たちの、リスト。
扉をくぐる。外に出る。
いくつかの影が、遠巻きにシュルデンを囲んでいた。
「引き渡すか、自分で処理するか、今なら選べるぞ、シュルデン」
影のうちの一人が、独り言のように呟いた。シュルデンは周囲をぐるりと見回した。知った顔がいくつかあった。どれも、同僚だった。
しばしその場で、シュルデンはただ沈黙して、夜の街を見つめていた。まっさらな部分など、一欠けらもありはしない町。おびただしい量の血と屍によってしか生まれなかったビルの群。美しいマンションたち。幅の広い道路。埋め込まれたデータケーブル。アンテナ。公園。川。港。
やめてしまえ、と誰かが囁いた気がした。血溜まりに頭まで浸かって、深い底から僅かな猶予を持ち帰り、その代わりに無数の亡霊を背負うような生に、何の価値がある?
『シュルデン。そろそろ、さよならだ』
ナビゲーターの声が頭の中に短い間響いた。
「……見せたいものと、提案したいことがある。上に、取り次いでくれ」
影――ドラグーンたちに向かって、シュルデンはそう声をかけた。
*
殺して殺して殺す。
ことは単純で、笑い出したいほどに明瞭だった。
呼び出し、言葉を交わし、突き落とす。落下――バウンド。
提案され、跳ね除け、憤慨される。突き落とす。落下――変形。
懇願され、鼻で笑い、掴みかかられる。突き落とす。落下――水没。
リストの処理。N文庫はリストを認めた。自分たちにとっての大きなアキレス腱だと認め、その処理を非公式にシュルデンに命じた。組織としての支援無し。責任は全てシュルデン個人に。リスクも全て。
その報酬――エルザを拘束せずにおくこと。二度目の見逃し。
殺して殺して殺す。
罪も怒りも悲しみも何も感じない相手を、必要性のもとに落下させる。延々と、リストを消化しきるまで。
だが次第に、小さな陰りが現れる。リストの情報の、些細な間違い。
次々と引っかかりが表れる。殺害時の口論を立ち聞きされる。リスト対象者と有力者の間に隠されたパイプが発見される。処理した死体が発見されかける。目撃者をも消すことになる。その遺族が怪しみ始める。
瑕疵が、増えていく。
殺して殺して殺す。
やがて――訪れる。限界点。終点。行き着く場所。
リストの最後から数人目を殺した直後に、なぜか突然言葉が喉から出てこなくなった。そうして戸惑うシュルデンの元に、一方的な通信が入る。ドラグーンの監視兼指揮役の男からの、最後の慈悲のメッセージ。「取引は破談とすることが決定した――後は好きにしろ」と。
*
手札は無かった。さよならという言葉を残して以後、ナビゲーターの声が聞こえることは無かった。ソフィアにも連絡はつかなくなっていた。
頼れるものは無かった。
エルザの偽装住居へと急行する最中、シュルデンは、何度か彼女へと通信を試みた。しかし、一向に繋がらなかった。つながったとしても、言葉を交わすことが出来るわけではなかった。シュルデンの喉は、今やあえぐことしか出来ない。
どうしようもない。『取引』は数多く重なったミスによって、N文庫にとって今や魅力よりも厄介さが目立ってしまっている。その価値を失っている。
彼らは邪魔者を――何年も見逃してきた人間を、ようやく処分できる。
なりふり構わずに逃げる他に手立てはなかった。逃げ切れる可能性がどのくらい存在するのか――あるいはしないのか――、逃げた先にどんな未来を描くというのか、全て虚無でしかない。
それでも、シュルデンは急いだ。ホテルの前に車を急停止させ、飛び出すようにして外に出る。冬の真昼の日差しが、目にかすかな痛みを与えた。
身を起こし、ホテル正面に近づく。
そのまま壁伝いに裏口に回りこむ前に、シュルデンは足を止めた。
何か予感があった。それまでの人生で抱いてきた焦燥感の全てが、この時のためにあったというような感覚が、素早く背骨の辺りを走った。
ふっ、と、視界が暗くなった。
目の前、手を差し出せばすぐに届くような位置に、何かがあった。
長く伸びた髪。やや吊り気味の瞳。薄く透けて見えるような白い頬。
逆さまのエルザ。
何度も見た。落ちていくものの顔。二つの目。なにもかもどこかに置いてきた様な表情。生き続ける者こそ哀れだといわんばかりの虚ろな顔。
ほんの一瞬だった。視線が交わった瞬間が、シュルデンの意識の内側一杯に広がり、破裂した。幻の閃光がただれた心を焼いた。
そして、エルザは地面に激突する。
重く、聞いたものの心を磨り潰すような恐ろしい衝突音が、短く、そして意外なほどに小さく響いた。
白い太陽光に照らされ、何もかも漂白されるような明るさに染められた景色の中で、エルザは最早何も見てはいなかった。開いたままの瞳は、空をただ映していた。
ゆっくりと、時間をかけてシュルデンは彼女に近づいた。一目で絶望的であることが伺える彼女の姿を呆けたように見つめながら、彼はエルザの補助脳を自身のそれに繋いだ。
ログを閲覧し、最も新しく保存したというデータを、シュルデンは展開した。
「ああ……」
呻きが洩れ出た。
自分の罪の何もかもが、そこにあった。どういった人間を、いつ、どうやって処理したか。ずらりと並ぶ、腐りきった足跡。
一人目。二人目。どれもこれも、落下死で締めくくられる人生たち。
エルザは、ドラグーンによって突き落とされたわけではない。シュルデンは、データを見て、そのことを直感した。ドラグーンたちは、わざわざ直接エルザに触れるまでも無かった。ただ、データを送りつけるだけでよかった。
山ほどの犠牲。自分を保護するために、親しい友人がその手で築いた屍の山。
そうしたものを見せ付けられたエルザは――立ち直りかけていた一個の精神は、自らの足元にある死者たちと同じ道をたどった。
遺体をそっと離し、シュルデンはそのまま、ホテル内部へと向かった。
屋上に辿り着くまでの間、彼は頭の中で、人生で始めての創作活動を行っていた。
保存されたエルザの「作品」に、自分の見た「行き着く先」をブレンドし、ブラッシュアップする。
誰が誰を損なったのか。
この街に、ラノベを求める人間たちに、無辜の民などいるのか。
補助脳をフルに活動させ、執筆を終えると共に、シュルデンはデータをネットに流し、爪先で小さく跳んだ。
浮遊感だけがあった。




