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   Ⅰ 二千五十二年 冬 (4)


 尾行には細心の注意を払う。偽装は神経質なほどにしっかりと。

 その部屋は、ハイクラス・ホテルのメンテナンスルームの一室に偽装されている。登録情報上、人は住んでいない。念入りな偽装だった。警官個人が調べて暴けるようなものではない。それでも警察組織全体やN文庫が本気になればすぐに明らかにされてしまうだろう――が、少しは時間が稼げる。

 従業員入り口からホテルへと足を踏み入れる。警備に身分証データを放って寄越す。

 スタッフ用エレベーターを二つ乗り継ぎ、表向き存在しない階に到着する。不吉な数字を冠するその階には各種管理用機材やスタッフ用休憩室が割り当てられている――ことになっている。

 生体識別式ロックがかけられた扉の前に立ち、スキャンを受ける。扉をそっと開くと、シュルデンの耳にリズミカルな音が流れ込んでくる。柔らかで、クラシカルな音だった。

 この場所を尋ねる人間は自分のほかにはいない――それをシュルデンは良く知っていた。つまり、音の主は部屋の主以外にいない。

「エルザ」

 名を呼びながら、シュルデンは室内へと足を踏み入れた。自分で口にしたというのに、その名の響きに喉の奥が焼けるような感覚を覚える。

 室内はホテルの他のどの部屋よりも質素ではあった。オフホワイトで統一された調度は、ミドルクラスのアパートに相応しいような品々だ。

 それでもシュルデンが「彼女」と共に選んで注文した家具や壁紙は、統一感のある落ち着きを部屋全体に与えていた。人によっては一泊ごとに中古車が買えそうなスイートよりもこの部屋を好むに違いない。

「シュルデン」

 冷たく澄んだ色の声が、彼の名を呼び返した。彼女の名を呼んだときに倍する痛みが、シュルデンの胃や肺の中で暴れまわった。

 彼女は、ダイニングルームに置かれた樹脂製のテーブルの上に置いた何かに、指を走らせていた。その手を止め、顔を上げて、入室してきたシュルデンを見つめる。

 長く伸びた髪も、やや吊り気味の瞳も、薄く透けて見えるような白い頬も、何もかもが美しく、同時に痛々しいほどの無垢と、目には見えない傷に満ちていた。冗談のように虚ろな表情が、シュルデンに目を向けたときだけ、いくらか生気を取り戻す。

「また何か、書いているのか? 良く動いているな、それ」

 苦笑しながらシュルデンはエルザの目の前に置かれたコンピューターを指した。音の主は、今となっては珍しい、プラスチックのキーボードだった。

「リハビリみたいなものだから……文字を連ねるのは、楽しいよ」

「補助脳に無料ソフトを入れればもっと便利に書ける。いくつか用意してこようか?」

「ありがと。でも今はいいかな。これが気に入っているから」

「それ、もう十年選手どころじゃないだろ。かろうじてネット接続は出来ているけれど」

「父さんと母さんの若い頃のものらしいから……まだ補助脳なんて無い時代のパーソナル・コンピューターだって」

 今となっては懐かしい化石ものの単語がエルザの口から飛び出てくる。PC。いまや人の頭と共有ネット自体が、パーソナル/グローバル・コンピューターだった。

「画面を見ても?」

 彼女の背後に回って、液晶画面を覗き込もうとすると、エルザは画面上部を持ってコンピューターを二つ折りにして閉じてしまう。

「恥ずかしいから……なんていうか、自己満足だし、黒々したものを詰め込んですっきりしたいってだけのものだから」

 そんな言葉を、シュルデンは何度か聞かされたことがあった。

 エルザは一人でこの場所に、五年ほど住んでいる。シュルデンが作り出したこの隠れ家で、退屈を紛らわすために彼女が選んだ方法の一つが小説の執筆行為だった。

 かなりマイナーな趣味であるといわざるを得ない。今や執筆はライトノベルロイドの独壇場である。が、シュルデンは密かに、ラノベよりもずっと彼女の作品に興味があった。未だに見せてもらえた事はなかったが。

「残念だな。けど、今のネットは勝手に情報共有するからね。その作品だって一般人には非公開になってるだろうけど、公的リソースにはされてるはず」

「うん……まあ、それはそうかもしれないけど。でもやっぱり、だからってシュルデンにみせるのは恥ずかしい」

 きっぱり言われてしまい、シュルデンは軽く笑った。

 ネットは、最貧民でもちょっとした機器さえあれば接続して利用できる。料金に関しては、二千年代初頭よりもずっと安価となっている。

 代わりに、基本的に接続したコンピューターは――補助脳を含め――その情報の共有を半ば強制される。勿論保護はされるが、そうしたデータは様々な場面において、政府公的機関やその関連組織によって法が許す範囲で利用される。公的リソースとしての情報を供給することで、無料に近い料金でネット利用ができるというわけだった。

 例を挙げれば、ネット上に上げられたテキストベースのデータのほぼ全ては、ライトノベルエンジンによって収集され精査される。ノベル創造の肥やしとなる。

「シュルデン」

 エルザが、椅子から立ち上がってシュルデンの正面に立つ。細い指が、シュルデンの腕に軽く触れていた。掴んでいいかどうか、迷うように指先が軽く揺れていた。

「……もうすぐ、なんだよね?」

 予想していた質問だったため、シュルデンはすぐさま頷いた。

「ああ。すぐだよ。あと一週間で、今の部署からはおさらばだ。それまでにはエルザにかかったおかしな嫌疑だって晴れるから、どこか別の場所にいける。普通に暮らせるよ」

「シュルデンも、元の部署に戻るの?」

「そうなるよ。また元の、少年課に勤める冴えない警官をやるさ」

「私自身のこともだけど、シュルデンが危ないことから少しは遠ざかるなら、そっちのほうが嬉しい」

「今だってそんな大した部署にいるわけじゃない。安全なもんさ」

 エルザの背に手を回し、シュルデンは軽く彼女を抱き寄せた。薄い肉と、細い骨を身体に感じる。首元の肌の香りに、僅かな安らぎを得る。

「さ、遅くなったけれど、食事にしようか。こないだ持ってきた食材が一杯余ってたろ、なんか適当に作るよ」

「私も一緒に作る。シュルデンばかり料理上手なのは、ちょっと複雑な気持ちになるから」

「ふぅん? そりゃどうして?」

「それをわざわざ言わせる? 趣味が悪いよ、シュルデン」

 屈託ない笑いを漏らしながらそう言ってみせるエルザにつられて、シュルデンも喉の奥でくっくと笑う。

 キッチンに並んで立ち、料理をでっち上げ、二人してあれこれ品評しながら食べ終え、後片づけをこれまた二人で行い、交代でシャワーを浴びた。

 ベッドに入って、エルザが眠るまで、シュルデンは彼女の手に触れていた。


 エルザの両親と姉は、仲良く家族でライトノベルを購入し、休日に皆楽しもうとした。

 その日エルザは大学で臨時講義を受けていた。彼女が古典的な社会心理学について学んでいる間に、三人の家族はショック症状を起こして倒れた。

 新方式のフィードバックプログラムを組み込まれたライトノベルを読んだ三人は、あまりに「感動的な」物語の展開に、ついていけなかった。没頭し、興奮し、泣き濡れ――そんなことをしている間に心拍数が危険な値を示し、呼吸が乱れ、脳血管疾患が誘発された。

 両親はエルザが見つけたときには既に事切れていた。姉は搬送され、意識不明の渋滞となった。

 三人の補助脳からデータをコピーしたエルザは、家族三人を担当した医師と共にその原因をラノベに見つけた。「品質保証済み」のデータラベルがついた作品を、N文庫は事件後すぐに公開停止していた。理由は些細な誤字のためとなっていた。

 エルザはN文庫を糾弾した。家族を奪った者たちに制裁を与えてくれと社会にせがんだ。

 そんな求めに対する答えとして、両親の遺体が安置所から消え去り、姉が病院の個室で薬物によって殺された。頭部は切開され、補助脳は取り出されていた。

 担当医が失踪し、数日後下水から溺死体で発見された。

 この辺りでエルザは根こそぎ気力や体力や常識的な世界に対する信頼を失いきり、脱力した状態にあった。N文庫は彼女もさっさとこの社会から掃いて捨てようとした。

 ぎりぎりのタイミングで、シュルデンはN文庫に駆け込んだ。数々の輝かしい働き振りを示し、アピールし、N文庫の役に立てることを証明した。その上で、手土産として、当時N文庫の障害となろうとしていた一人の男を――何の罪もない、とある娘の父親を――橋から突き落として見せた。

 取引として、シュルデンはエルザを保護した。従属を誓い、エルザが万一反抗した場合自らの命もまとめて捧げることを約し、ドラグーンとなった。

 それ以来ずっと、五年以上、働き続けていた。記憶に残る、高所から落ちていく人々の影は、両手の指ではとても足りない数となって久しい。

 あと一週間。それは、嘘ではなかった。

 エルザはシュルデンが未だに警官であると思っていた。それはシュルデンの嘘であり、彼女に対してついた無数の嘘の一つだった。

 しかし、残り期間は嘘ではない。N文庫と彼の契約は、残り一週間だった。それが終われば、シュルデンは開放される。警察官に戻って、エルザへの言葉の通りの部署に通うことも難しくは無かった。エルザにかけられている嫌疑――捏造された嫌疑も、大人しくしていれば不問とされることになっている。

 ただ、最後の仕事が残っていた。


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