3 ・二千十四年七月(2)
表面上は、何も変わらなかった。外から見た日常に変化は無い。
恵理紗はきちんと学校に通っていたし、部活にも顔を出していた。劇に関して、それまでと変わらず僕と話し、部員の皆とも上手くやっていた。
一方で、僕と恵理紗は一緒に登校することも下校することも、なくなった。
一度だけ下校時に声をかけると、彼女は本当に小さな声で謝り、僕の前から立ち去った。
僕はもう絶対に生涯、森の香りなんてものを好まないと誓い、その他には何をするでもなく、日々をすごしていた。
「君が彼女と結ばれる宇宙はどこにも存在しない」
部活終了後、帰宅するために一人で校舎の裏門を出た僕に、ソフィアはいつも通りやや唐突に声をかけた。
「藤沢恵理紗と、瑞穂有理は結ばれない。いつもいつも、どこでもどうしても」
僕はそんな言葉で返した。苦笑しながら。
「ようやく、分かったみたいだね」
納得したように一つ頷いてから、ソフィアは僕の手をとった。細い指を僕の手の平に絡ませて、引っ張る。
「ちょっと話をしよう」と言って、僕は彼女の思うがままに、連行される。
連れて行かれたのは、学校に程近い駅ビル一階にある、スターバックスだった。ソフィアは僕にチャイティーラテをおごってくれたけれど、僕は口をつける気分にならなかった。
「ソフィアは……一体、なんなんだ?」
僕は紅茶と乳脂肪とスパイスの香りを鼻先に感じながら、切り出した。
「普通の女子高生だとは、もうさすがに思わない?」
「思わない。どうせ隠す気、ないんでしょ?」
「有理にはね」
自分の分として頼んだキャラメルフラペチーノを一口飲んでから、ソフィアは特に気負ったところも無く、「そうだね、どっから話そうか」と一言置いて、視線を宙に彷徨わせた。
「要するにさ、私は、先進宇宙の生まれなわけ」
まあ私というか私のオリジナルと言うか、ちょっとそこは微妙なんだけれど、と彼女は分かるような分からないような事を言う。
「先進っていっても進んでいるのは宇宙そのものでなくてあくまで人類が、ってことなんだけど」
軽々しい口調で、まるで映画か何かのあらすじを説明するみたいに、彼女は僕に一つずつ教えていく。
曰く、彼女の宇宙における地球(微妙に惑星の大きさや位置やその他特徴まで異なるらしいが一応地球ということでいいらしい)文明は、僕の宇宙よりも素早く進歩の道をたどり、現宇宙の物理法則の解明のみならず、多宇宙を含むメタ的な時空構造が存在することに気がつくまでに到ったらしい。
「大雑把に言えば、エヴェレット解釈っぽいものが事実だと確認されちゃったのね」
ストローをみずみずしい唇で軽く咥えてぴこぴこさせる。
「最小時間単位ごとに、宇宙は分岐する。一瞬後に存在するであろう可能性の全てが、分岐した宇宙として実際に存在することになる。分岐は基本的に最小物理単位の不確定さによって、全方向的に行われる」
さいころを振れば、一から六までそれぞれの目が出る宇宙が六つ、分岐する(厳密にはそれ以外の膨大な可能性も分岐宇宙となる)。分岐しやすい宇宙もしにくい宇宙も無い。起こる可能性が一パーセントの出来事があるとすれば、分岐した百の宇宙のうち一つはそれになる。
「だから可能性宇宙の数は、膨大なんてものじゃない。ほとんど無限と言ってもいい。最小時間で最大限分岐し、しかも分岐は全方向的ってことは、宇宙が今の形で生まれた一瞬後には、既に『ほぼ無限個』の宇宙が分岐して存在していたってこと」
宇宙には、突き詰めれば四つの物事しかない。
既に起きたこと、絶対に起こることと、起こるかもしれないこと、絶対に起こらないことの四つだ。
既に起きたことと絶対に起こることと起こるかもしれないことは、可能性宇宙が全方向的に分岐する以上、絶対にどこかに存在する。どこかの宇宙に。
絶対に起こらないことは、絶対に起こらないのだから、最初から無いのと同じだ。存在しないものは存在しない。無があったらおかしい。
つまり、メタ的な意味での「宇宙」には、全ての起こりえる現象が含まれることになる。地球が無い宇宙も、太陽が無い宇宙も、ガスしかない宇宙もある。
ソフィアによれば、重力が逆二乗で減衰どころか逆に強まる宇宙も、熱力学が全く通用しないエネルギー原理に支えられた宇宙さえ、あるのだという。
「最もそういう宇宙は私や有理のような宇宙とはちょっと異質すぎて、参考にならないんだけど」
ソフィアの宇宙は優れた文明によって、多くの宇宙の地球人(ややこしい)が気づいていない多世界構造、分岐宇宙構造に気がついた。
それから彼女の世界の人類は、さらに観察と研究を続けた。知的好奇心を注ぎ込み、全体から見ればほんの欠片の欠片の爪の垢くらいの数でしかない、しかし人間という視点から見れば物凄まじい数の宇宙を調べて回った。
宇宙はおおむねソフィアの世界の研究者や、多世界連結型量子宇宙コンピューターが予測した通りの姿をしていた。
「ただ一つ、気になるところがあった」
「それが――僕と恵理紗に関すること?」
その通り、とソフィアは首を縦に振る。
分岐宇宙の数は、天文学的な数に天文学的な数をかけたよりも多い。だから如何にソフィアの世界の人類が優れていたとしても――そして同じように優れた別宇宙の人類と協力したとしても――すべての宇宙のうちのたった0.1パーセントも調べられない。
そのためソフィアの宇宙の人類は、まず手始めに自分たちの宇宙に近い姿をした宇宙を十万ほど選び出した。勿論、『自分たちの宇宙に近い姿の宇宙』だって細かく見ていけば無限個あるわけだから、選び出す一つ一つの宇宙それぞれの間に少しずつあらかじめ設定した「変化・誤差の度合い」を置き、各宇宙間の差異が一定のグラデーションを描くようにした。
そうしてまずは十万の宇宙を、それから段階的に数を増やして、数十万の宇宙を調べたところ、一つのおかしな点が浮かび上がってきた。
「一人のある人間がいたとして。その人間がその人間であると規定できる宇宙の数もまた、無限に近い」
ソフィアがいる宇宙もあれば、いない宇宙も当然ある。宇宙と宇宙の間には誤差があるが、ソフィア個人に関する誤差が一定以内ならば、ソフィアはソフィアであると認識できる。そんな説明を、ソフィアは付け加えた。
「勿論、『個人』なんてものは定義し難いし、ぎりぎりのところではその境目は曖昧なのだけれど、それでも明らかに『ここまでの誤差は許容していい』っていう大体のラインはある。それを目安に、私たちは複数宇宙における『同じ個人』を規定している」
青から赤へのグラデーション塗装を施された、横長の、十メートルほどの板を思い浮かべて欲しい。赤と青の間に明確な境目は無い。どこから青は青でなくなるかは、言い難い。しかし、明らかに青である範囲を、人は(それも大体ではあるが)言うことができる。真っ青な地点から一ナノメートル赤に近寄った地点は明らかにまだ青だ。
「ランダムに、いろんな『個人』について調べてみた。ある個人が、宇宙の可能性分岐に則って、宇宙そのものと同じようにランダムに全方向的に分岐しているかを確かめるために。結果として、『個人』なるものも、きちんと全方向的に分岐していることが判明した」
ただ、一つの例を除いては。
「それが、僕?」
「そう。瑞穂有理。君は、君であると定義できる君が存在するすべての宇宙において、藤沢恵理紗であると定義できる女性を求め――そして、どこか一つの宇宙ですら、彼女と結ばれたことが無い」
数十万のサンプリングされた宇宙。ほぼ無限にあるといっていい数の中で、たった数十万程度の数がどの程度母集団としての全宇宙を調べる役に立つのかは、分からない。
しかし、無視はできない。数十万もの宇宙から、大勢の人間を抽出し細かく調べ、その人生の分岐に「偏り」がある人間は、たった一人しかいなかった。
僕のことだ。
「待った。もし僕が例外だとするなら、恵理紗もまた例外じゃないか?」
「その通りだけど、君のほうがより、例外的なの。瑞穂有理が存在しない宇宙にも時々藤沢恵理紗は見つかったけれど、藤沢恵理紗のいない宇宙のどこにも、君はいなかったから」
恐ろしいほどの数の宇宙。今も無数に分岐し続ける宇宙。僕がいない宇宙も、恵理紗のいない宇宙も数多く存在するだろう世界。
それなのに、僕は、瑞穂有理は、恵理紗のいない宇宙にはいない。僕は必ず恵理紗のいる宇宙にいる。
それだけ聞けばなんともロマンチックだ。ブラボー。
けど僕は、それら宇宙のどれであれ、恵理紗と結ばれない。
それだけ聞けばなんともホープレスだ。ハラショー、クソッタレ。
「君は宇宙の――メタ的な時空構造を含めた『世界』の、特異点ってこと」
「…………」
しばらく僕は、黙り込む。特異点。世界の。メタ的な時空構造における。
僕はいたって尖ったところの無い、凡庸な人間だ。凡庸であることが気に入らなくて、何とか個性のあることが出来ないかと日々もがき、そのせいで恥ずかしい思い出もいくらか抱えることになった。
自分だってきっと特別な人間だと、決して口には出さないけれどそう信じながら生きて、そして毎年歳をとる度にひょっとしたらそうでもないのかと怯える。凡庸で凡骨で凡愚。
それが、『世界の特異点』なのだという。
笑い出す代わりに、僕は目の前のカップを手に取り、ものの数秒でチャイティーを飲み干した。お洒落なスターバックスには相応しくない。僕が宇宙の特異点に相応しくないのと同じくらいに。
「ありがとう。悪いけど、帰るよ」
口元を拭う。
「そう……」
目を伏せて、どこか皮肉げな顔でソフィアは自分もフラペチーノに口をつける。
「一つ、いいかな?」
「なに?」
「ソフィアの話が全部本当だとして――どうして、そんなことを僕に話す? 僕が特異点とやらで、何か困ることでもあるのかな」
「ぱんぱんに膨らんだ風船に、小さな穴が開いていたらどうなると思う?」
またも飛び出たたとえ話に、僕は首をかしげる。
「そりゃ、割れるかしぼむかじゃない?」
「そう。割れるかしぼむ。風船がそこまで膨らみきっていないか、あるいは穴が電子何個分だとかの極小サイズなら、大丈夫かもしれない。けど、いつか、風船が膨らみきるか、穴が致命的なサイズにまで広がるかすれば、風船は割れるかしぼむ」
一瞬のタイムラグを置いて、理解できた。
つまりそれが、この宇宙なのだということだろう。
発作的な笑いが込み上げる。良いときと悪いときの別なく、とにかく何か大きな馬鹿馬鹿しさにぶつかったときに笑ってしまうのは、僕の(もしくは人類の)悪い癖の一つだった。
「私たちは宇宙全体の構造やメタ的な時空構造に関して、何もかも解き明かしたわけじゃない。分からないことは多い。けれどどうやら、君は特異点で、その特異性の元に、宇宙全体が――可能性宇宙全域が、メタ的なビッグクランチを起こすかもしれない」
ビッグクランチとは、現在予測されている宇宙の終焉の形の、一つの説だ。膨張を続ける絵宇宙が、収縮に転じてしまうという。
膨れ上がる風船は、メタ的な、可能性宇宙のビッグバンから続く拡大であり、破裂からの収縮はビッグクランチとなる……そういう話らしかった。
「僕は、宇宙崩壊の原因になり得ると」
「ええ」
「ソフィアは、何者? ただの美人女子高生?」
「私は……私は、世界渡りで――観測者兼干渉者。ま、しがない労働者みたいなものかな」
「だから、僕に恵理紗を押し倒してしまえと?」
「勿論あれは半分冗談だけれど……でも、そう」
僕と恵理紗が結ばれる宇宙を実現させるために、ソフィアはここにいる。存在しない可能性というものが『存在しない』時空構造にあって、その存在を確認できない可能性――僕と恵理紗が結ばれた宇宙というものが、本当に存在しないかを確かめるために。宇宙を可能性的ビッグクランチに見舞われるかどうかを確かめるために。あるいはビッグクランチから宇宙全体を救うために。
「だから私は、あなたに頑張って欲しい。彼女とお付き合いして、結婚して、子供ぽんぽん生んで、生涯共に暮らして欲しいってわけ」
「ずいぶん人任せだね」
「他人の恋愛に干渉しない主義なの……というのはさておいて、過度な干渉を行ったことだって、十度や二十度では済まない」
今回はこういうやり方だってだけ……と小さく呟く。スタバのざわめきが、すぐに上塗りしてかき消す。
「残念だけど、僕は今、とても行き詰っている。恵理紗との関係においてね。致命的な場所にいるんだ」
「そう……」
冬の森の香りを漂わせた母。消耗し、影を色濃く纏いながら「泊めて」と言ったにも関わらず、僕の家へ来ることのなかった恵理紗。
僕は、致命的な場所にいる。
残念そうな顔を作って見せていたソフィアはしかし、すぐに表情を変えた。
面白がるような笑みが、彼女の顔面に広がる。立ち上がっている僕を、座ったままのソフィアは上目遣いに捉える。
「まあでも、もう少ししたら、嫌でも事態は進展すると思うな」
恵理紗の、直感による予測とも、一般大衆の特に根拠の無い未来予想とも違う気配が、ソフィアの一言には感じられるような気がした。
僕は足早にスターバックスを出た。
どこかに行くべき場所なんて無かったけれど、早足で歩いた。