3 ・二千十四年七月
3 ・二千十四年七月
さっさと押し倒せ。
その一言が僕の頭蓋の内側で跳ね回っている間に、月日は遠慮躊躇なくずかずかと未来へ進む。ソフィアの意味深な語りの通り、一瞬一瞬に宇宙が分岐しているのだとしたら、無数の僕が無数の宇宙にいるということになる。既に押し倒した僕、あるいは押し倒された僕。
七月に入るまでに、母は二度自宅に立ち寄った。その間に二人の男性と新しく関係を築き上げていた。たっぷりの生活費を、僕が自由に使っていい口座に預け入れ、また旅立っていく。どこへでも行くがいい、永遠の放浪者よ、と僕は無関係を装う。
自分が奴の息子であること。奴のかつての夫の子供であるということ。
行き着く先が、見えない。
両親は何処へも到っていない。あらゆる革命は社会を変えていない。僕はずっと、こんな感じのまま。
梅雨が完全に明けたことが一発で分かるような快晴の日――七月一日、僕は覚悟を決めた。
押し倒す覚悟ではない。さすがに。でも、大きな決意だ。
きっと、どこかに行き着く。その先がある。価値へと、輝きへと向かえる。
かつての恵理紗の言葉を、僕は改めて心に刻み込んで、家を出た。
僕にとって行き着く場所があるとすれば、それがどんな場所であれ、欠かせない要素がある。
僕にとっての啓示。僕は、彼女が欲しい。
*
恵理紗は、僕を非常に大事な友人として見てくれている。その程度の自信は、なんとかあった。だから普通なら、上手くいくと思えただろう。恋仲への一歩を踏み出すことに関して。
けど恵理紗は、単純じゃない。僕に行き着く先が見えないのと同様、彼女は過程が見えない。
その上さらに、彼女はある意味それより先の無い、究極的な「行き着く先」を見てしまった。深く記憶してしまった。
彼女の母と姉は亡くなった。二人を亡くした父は、生きたまま虚無に落ちた。
山ほどの犠牲の上に生きる僕ら。屍の山を築き、その上を無遠慮に走り回ることでしか生き続けられない僕ら。
そんな人間の行き着く先を、恵理紗は見た。知った。決定的な喪失と虚無だ。
多くの犠牲の上に行き着く先が、そういう場所だと知ったのだ。恐ろしいほどの直感性と、生来の聡明さで、多分同年代の多くよりも、ずっとはっきりとした形で。
誰でも死ぬ。当然だ。誰でも何かを失う。当然だ。当然、当然、当然。その当然さを皆、どれくらい知っている?
なまじっか頭のいい恵理紗は、知りすぎるほどに知った。直感した。だから彼女は、容易には踏み出さない。最も幸福な道の一つと言われるそこに。女子高生の大半が憧れるそこに。
だから僕には、覚悟がいるのだった。
「やあおはよう、恵理紗、昨日はよく眠れた? ああ、じゃあよかった、それじゃ、結婚しようか」
そういう馬鹿馬鹿しいノリでいったほうが案外上手くいくかもしれない、などとアホなことを考えながら僕は学校へと赴いた。その日もまた、休日の部活日だった。
僕も恵理紗も朝早いので、二人きりの時間は夕方まで待たずとも朝にある。決意を胸に僕は恵理紗を待ち、その姿をすぐに見つけ、そして言葉も決意も浮かれた気分も飲み込んだ。それから、底抜けに馬鹿な自分がさっさと死ぬようにと、世界のあらゆる神様に祈った。
一目で分かった。恵理紗は憔悴していた。今日もまた。しかし一段と深く。
「おはよう……恵理紗」
「有理」
美しく切れた瞳が、僕を捉える。淀まず曇らず、僕を捕らえる。
「今日、泊めて。お願い」
誰もいない冬の海原で、粗末な木切れにしがみつくような一言。
勿論、と頷く。僕は、頷く。他にどうしようもない。恵理紗は、ほとんど死にかけのようだった。多分、傍目には分からない。元々クールでタフな、淡々とした印象を人に与えやすい少女だから。
けど、僕の目には、彼女がここ数年で最悪の状態だと、見抜くことが出来た。
恵理紗は、虚無的な父を見ることに、時々耐え切れなくなる。耐え切れなくなって、僕の家に来る。普段はここまでひどい感じにはならないから、多分、さらに何かあったのだろう。
散々迷ってから、僕は訊いた。
「夕食、何がいい? 何でも作るよ、明日日曜だし。好きなもの考えておいてよ」
他に何かあるだろう、と、自分でも思う。けど、何を言えばいい? 人の生の行き着く先に関して、そこそこ賢い大人でも閉口するような難しいレベルで物事を直感し、知り、迷う彼女に、僕ごとき人間が何を言う? 子供で、アホで、その上僕には、「結果」が見えないのだ。
「……ありがとう、有理。ありがとう」
感謝の言葉を二度以上繰り返すのは、恵理紗らしくはなかった。
その日恵理紗は、いつも通りに練習に参加した。的確な演出で劇の完成度をぐんぐんと引き上げた。
夕方まで続いた練習が終わると、一度自宅に戻って着替えると言って、恵理紗は僕と別れて帰っていった。
そして、そのまま、その夜恵理紗は僕の家を訪れなかった。「彼女は今日は来ない」という事実に僕がようやく気がついたのは、午前四時二十分だった。空は青みがかって朝の気配を醸し出していた。
彼女は電話に出なかった。
ひどい気分で朝を迎えた僕を、朝帰りした母が笑った。
「クマが出来てる。なに、有理、あなた徹夜って初めてじゃない?」
へらへらと笑う母の目元にも、黒ずんだ凹みがあった。
ふと、僕は気がつく。
冬の森のにおいがしていた。かすかに。とてもかすかに。母の身体から。
*
何度も眠り、夢を見た。普通の夢じゃない。いつも見る、あれだ。ソフィアの説によれば、別の宇宙――可能性の分岐した多項世界の一つ一つ、一枚一枚、一個一個。
僕は十七年ほど生きてきて、もうすぐ十八歳になる。かなり幼い頃から、ずっとこの別宇宙を見続けてきた。
それで今になってようやく、違和感の正体に気がついた。
足りないもの、欠けていたもの。
無数の世界が僕の周りに広がっている。無数の僕がいる。いろんな僕がいる。可能性のすべてが分岐するとすれば、当然だ。あらゆる僕がいて、あらゆる誰かさんがいて、あらゆる世界があるはずだった。
だけどその何処にも、僕は、僕と恵理紗が結ばれた世界を見ることが出来なかったのだ。