0 いつかどこか
・SF小説競作企画「あなたのSFコンテスト」参加作品です。
当作品のSF=split fiction となります。
「目でいくら見ても果てが無く
耳でいくら聞いても尽きることが無い。
かつてあったことはまたあろう。
かつてなされたことは、またあろう」
(伝道の書・一章八節―九節)
0 いつかどこか
「私たちが観測した多数の宇宙のうち、細かく調べることが出来たのはその一割に満たない。計算資源を結集し、研究者や補助知能をみんな死滅させる勢いで解析して判明したのは、五十万以上の宇宙において、あなたは――瑞穂有理は、藤沢恵理紗とは結ばれないということ」
そんなことを言われたそのときには既に、多くの物語が終わっていたのかもしれない。
誰しも「あなたにとって最も重要な物語とはなんですか?」と問えば、良く考えた上で「自分自身の物語である」という選択肢を見つけることになる。見つけて、実際選択することにもなる。
ただ、自身にとっての重要さと、他人にとってのそれは全く等価ではない。一つ一つの物語はそれぞれ個性に満ちていて、だからこそ、そんなに目立たないやつも、どうしようもないやつも、コメントしようの無い地味なやつも、物語としてはっきりと存在するわけだ。
『僕』自身の物語もまた、はっきりと地味だ。僕が生きている二十一世紀日本の教師連中はよく、「君たち一人ひとりにそれぞれ輝かしい価値があって、皆かけがえの無い宝石のようなものだ」というようなことを言うけれど、それを本気にする人間は少ない。
青空の下、気持ちのいい朝に旅客機がアメリカのビルに突っ込んだ時、僕らはまだ日本語の怪しい幼児だった。僕らが生まれるずっと前にバブルは弾けていて、それ以来は不況の二字以外聞いたことが無くて、陰湿ないじめに関する問題が全国の学校で囁かれ、若者の死亡原因ナンバーワンはずっと自殺で、そんな暗い世相を嘆きながら先進国の人間は豚肉のしょうが焼きや牛カルビ丼を飲み下しつつテレビを眺めていた。勿論数秒間に一人のペースで第三世界では餓死者が増え続けていたし、車は空を走っていなかったし、鉄腕アトムは誰にも作られていない。個性の時代と朗らかにニュースキャスターや有名俳優が語り、それにあわせて無数の企業がパターン化されたライフスタイルを企画し、商品を次々に発表する。誰でも買える服や時計や家具を適当に選んで組み合わせて皆が皆特にどうということも無い「すばらしい個性」を表現し続けた。おかげでいくらか経済が回る。でも足りないから、戦争は勿論必要になる。行き詰ったら戦争だ。人も物も限りある状態で資本主義というシステムをまわすという不可能を押し通したいなら、戦争は特効薬だ。でも誰も自分がライフルを持って後進国の誰かさんの頭蓋を打ち抜きたいとは思わない。だから代役を立てる。どこかの可哀想な国の適当な勢力を後押ししたり挑発したりして、がんばってもらう。どこかの不幸な国が通常の何倍かの紛争を経験すれば、その分先進国は楽が出来る。凄く簡単で、分かりやすい。全世界の富の大半をたった数%の富裕層が所有し、朝のニュースは爆弾テロの十倍くらいの時間を使って芸能人の性生活の乱れを報道し、当たり前のように民主主義ははるか昔のプラトンの時代と同じように衆愚政治と化していて、だから今日も政治家は安心して眠ることが出来るし、犬猫は保健所で殺処分される。
僕が生きているのはそういう場所だ。
恐怖の魔王もアンドロイドとの戦争も超光速航行もゾンビも関係ない。
だから、どうして『僕』だったのかは、最後まで分からず終いだ。不条理だとは思うけれど、まあどうしようもない。
ソフィアの奴が時折見せる、どこか諦観したような、それでいて何もかも諦めきったってのとはぜんぜん違う表情――あれはつまり、そういうことだったのかもしれない。不条理だとは思うけれど、これもまあどうしようもない。
どうにかできることとできないことが混じりあっている。僕らはそういう場所にいる。
祝福に満ちた地獄だ。あるいは、失意に満ちた天国だ。
数十万だか数百万だかの宇宙を通して学んだことがあるとすれば、つまり、僕らは祝福だけでも、失意だけでも生きていけないってこと。
何のことだか分からないだろうと思う。僕もよく分かっていないのかもしれない。
何はともあれ、中心にあるのは僕であり、藤沢恵理紗だ。
だから、無数にある物語のうち最初に、一番平凡な僕の物語を提示することになる。
冒頭聖書引用部分は、
『旧約聖書 中沢洽樹 訳 (中央公論新社発行 中公クラシックス』
459ページ 伝道の書 1万物流転
からの引用となります。