指を血で染めて
ピピ…
バシィ!
「ふぁ…」
いつものようにやかましい電子音に起こされる。
ベッドから降りて着替えようとして、妙な事に気が付いた。
あれ?上着がない。
いつも制服の上着も掛かっているはずの場所には、ズボンしかない。
部屋の中を見回すが、それらしきものは見当たらない。
…おかしいな。
ふと、カレンダーが目に入る。カレンダーが示す月は6月。
…あ、そうか。今日から夏服だった。
寝ぼけた頭を覚ましつつ学校へと向かった。
教室に入ると、当然の事ながら白が目立つ。しかし、世の中にはうっかり者は多いもので、やはり数人は上着を着た連中がいる。
うーん…ネクタイをしなくて良いというのはやっぱり首周りが楽で良い。
「いやぁ、やっぱ夏服はいいなあ! ネクタイなど締めなくていいからなあ!!」
…あの単細胞と同じことを考えていたとは、僕も堕ちたものだな。
椅子に寄りかかってウトウトしながら、そんなことを考えていると正明が登校してきた。
「おっす」
朝から爽やかに挨拶をする正明。
「ふぁ…正明、おはよう」
「お前は相変わらず眠そうだな」
正明は呆れたように言う。
「そういうお前は朝から元気だね」
「そうか? お前が元気ないだけだろ?」
「はは…朝は苦手なんだよ」
苦笑いを浮かべる。
「ところで、お前今年も長袖なのか?」
「んー…半袖のワイシャツ持ってないから」
「お前去年も同じ事言ってたけどさ、それ嘘だろ?」
「本当です」
「じゃあ、どうして半袖のワイシャツ持ってないんだ?」
「着ないから」
「どうして着ないんだ?」
「袖の短い服がないから」
「……」
正明は呆れたような顔をする。
「ん、今年は1度もループしなかったか」
「当たり前だ。2度も同じ手に引っかかるか」
「去年はこれで2周したのに」
「ぐ…、だ、だいたい、何で本当の理由教えないんだよ?」
「うーん…ほら、影のある男には秘密があるってやつ?」
「お前に影はねえだろ!」
「うーん…じゃあ、恋人には知られたくない秘密?」
「俺はお前の恋人じゃねえ!」
「ええー!…じゃああの燃え上がるような夜は何だったの?」
「誤解を招く発言はやめろ!」
「ひどいわ…正明。私を捨てるのね…」
「やめろー!」
「わかったわかった…まあ落ち着け」
「はぁはぁ…す、すまん」
正明を落ち着かせていると、ぐったりした夕希が教室に入ってきた。
「ああ、正明に慧、おはよー…」
夕希は疲れ切った表情で挨拶する。その様子からバスケ部の練習量の多さが伺える。
「おはよ。相変わらず絞られてるみたいだね」
「おはよう、高平さん。今日も大変だったみたいだね」
「そうよぉ、朝からランニングとダッシュでもうバテバテよぉ」
「これから暑くなるのに、大変だねえ。あれ?愁一は?」
「あいつは今日もギリギリまで練習だってぇ」
「あいつ、頑張るなあ」
正明が感心する。
「そうねぇ、アイツはホント化け物よ」
「お前ももう少し頑張れば?」
「無理よぉ無理。ああ、もうだめ。お休みぃ」
夕希はふらつきながら席に戻ると、程なく寝息を立て始めた。
「バスケ部は相変わらず厳しいんだな。それにしても、高平さん大丈夫なのか?」
正明は夕希を心配そうに見る。
「大丈夫だよ。恐らく昼休み頃には元に戻ってるさ」
「ああ…なるほど」
2人で気持ちよさそうに寝ている夕希を見ながら話していると、予鈴が鳴った。
「あ、そろそろSHRの時間か。じゃ、席に戻るな」
「ああ」
正明が席に戻ると、担任が教室に入ってきた。退屈な時間の始まりである。
授業が始まっても夕希は眠りの世界から戻ることはなかった。
昼休みに入る。
「ああー、よく寝た。さ、飯の時間だ」
右斜め前にいる女もすっかり元の元気な姿に戻っている。
…相変わらず、食事の時間に関してだけは恐ろしく正確な体内時計である。
「よくお休みになられてましたね」
からかい半分に、どっかで聞いたような文句で話しかける。
「ああ、もうグッスリ。これで放課後も耐えられそうだよ。ああ、腹減ったあ」
よほどよく眠れたのだろう。夕希はいつもよりご機嫌である。
「実松はやたらチョーク折ってたよ」
実松とは、機嫌が悪くなるとチョークを折ることで有名な政経の教師のことである。今日も授業開始から机に突っ伏している夕希の様子をチラチラと伺いながら、沢山のチョークを折っていた。
「ああ、あいつはいつもそうだからね。あたしにとってはあいつの授業は子守唄だよ」
夕希に悪びれる様子はまったくない。
「まあお前が寝てるのはいつもの事だけど、今日は鼾までかいてたからね。実松はさぞご立腹だと思うよ」
「え! あたし鼾かいてたの? あっちゃー。あとで木塚にまた言われるよ」
「いやー、見事な鼾だったよ。100枚くらい服を着たお化けも真っ青かな?」
「嘘! そんなに凄かったの?」
夕希は驚きの声を上げ、頭を抱えている。
「ああ。みんなの注目を集めてたよ、間違いなく」
「……」
恥ずかしさのあまり、真っ赤になる夕希。
…さすがにこれ以上は可哀相か。
「嘘だよ。寝息を立てていただけ」
恥ずかしさで赤くなっていた夕希の顔は、別の感情により更に赤くなる。
「あんた、あたしを騙そうとはいい度胸だね」
夕希はこちらの胸ぐらを掴んできた。
「苦しいから、離してくれないかな?」
「さて、どうしてくれようかねぇ?」
どうやら先ほどのジョークは冗談では済まなかったらしい。夕希は今にも握り固めれた右手を飛ばそうとしている。
「あー…悪かったよ。ちょっとやりすぎたね」
「わかればよろしい」
夕希は手を離す。
「まったく、相変わらずの馬鹿力だね」
ワイシャツの襟を直す。
「でも薫にはかなわないよ」
「あいつは別格だから」
「確かにそうだ。男子にも腕相撲で勝つものね」
夕希は笑っている。
夕希も運動部だけあって、普通の女子よりも腕っ節は強い方だ。しかし、薫の腕力はその遙か上を行く。男子を含めても腕相撲はクラスで最強。ウチのクラスにいるレスリング部や空手部、柔道部の猛者ですらも、全員無惨なまでに惨敗を喫した。もちろん僕も左右両方とも惨敗どころか、折られそうになった。
「薫に勝てるのはきっとメスゴリラくらいだろうね」
「あんた、またそんな事言ってると、薫に殴られるよ」
「大丈夫。聞こえていなければ問題ないよ」
「しっかり聞こえてるわよ?」
後ろから殺意の込められた声がする。もう逃げられない状況に追い込まれた事を悟り、観念して後ろを振り返る。
「…聞かれてしまいましたか」
「ええ。誰が人間の限界を超えた腕力ですって?」
薫は恐ろしいまでの殺気を放ちながらボキリと拳を鳴らしている。…うーん、完全に怒りのボルテージは最高潮だな。
…このままでは間違いなく殺されるな。少し落ち着かせないと。
「誰もそんな事は言っておりません。薫さんは逞しいと…」
「黙りなさい!!」
しかし、そんなもので薫の怒りを静められるわけがなかった。
…ああ、きっとメスゴリラの腕力ってこれぐらいなんだな。
薫の渾身の一撃を受け、派手に吹っ飛んで床に転げる時そう確信した。
薫は一発殴って満足したのか、倒れているこちらを一瞥してフンと鼻を鳴らし、席に戻っていく。
「何だ何だ?」
「また龍崎さんと雪村君の喧嘩?」
「ええ、雪村君相変わらず派手にやられたわね」
突然起きた騒ぎに教室は騒然となる。
あいたた…ちょっと避け損ねた。上半身を起こしながら、転げた際に打った背中と殴られた腹部の痛みに顔をしかめる。
「派手にやられたね」
目の前にはバカにしたような顔で夕希が立っていた。
「…言う通りだろ?メスゴリラ並みだって」
やっと少しだけ痛みも引いたところで立ち上がり、服に付いた埃を払う。
「あんたも懲りないね。まだそんな事言ってんの?」
「聞かれなきゃ問題ないって言っただろ?」
「はあ、まったくあんた達二人は仲が良いんだか悪いんだか」
夕希は呆れた溜息をつく。
「…ここまでやられて、仲が良いとは言わないと思うけどね」
「そうでもないよ。あれだけ何度も薫を怒らせるのはあんただけだよ」
「それは仲が良いんじゃなくて、単に薫が短気で冗談が通じないだけじゃあ…」
「薫は普段はどっちかと言ったら冷静だよ。たーだあんたが絡むとねえ…」
夕希はやれやれと肩を竦める。
「…薫が冷静?どこが?」
夕希の言葉に首を傾げる。
だいたい、高校に入学してから今まで、怖い顔と怒った顔しか見た事がない。…冷静な表情なんて想像付かないな。
「ま、あんたから見たらそうだろうね。まったく、あんな事ばかりしてちゃ誤解され…おっと」
夕希は何かを言いかけて慌てて口をつぐむ。
「誤解?」
「い、いや、何でもない何でもない。ところで、あんた派手に倒れたけど大丈夫なの?」
夕希は誤魔化すように話を逸らす。
「誤解って何?」
「だ、だから何でもないって言ってるじゃない」
「…ふーん」
ここまで言おうとしないという事は、何か重要な事らしい。
誤解…話の流れからして、僕が薫について何か誤解している、と考えられる。
…実は薫は冷静で知的でとっても可愛らしい女の子なんですよーとか?
そんな薫を想像するだけで寒気がしてきた。
「ん? あんたどうしたの? 震えて」
「いや…何でもない。じゃ、席に戻るよ」
これ以上深入りするのはやめておこう。
「あ、ちょっと待ちなよ」
夕希は制服のポケットからソーイングセットを取り出す。
「別に縫合されるような怪我は負ってないけど?」
「違う。処置が必要なのはあんたじゃなくてワイシャツ」
夕希が取れかかったワイシャツのボタンを指さす。
指さされたところを見ると、確かにボタンが取れかかっている。
「はは…服の方は耐えられなかったみたい」
「貸してみな。直してやるから」
そう言って夕希はソーイングセットの箱から針と糸を出して、針に糸を通す。
「裁縫できるの?」
「失礼だね。ボタンつけるくらい出来るよ」
憮然としながらも、さっさとワイシャツをよこせと言わんばかりに手を出す夕希。
…夕希が裁縫ねえ。まあ面白そうだからやらせてみるか。
「じゃあ、お願いするね」
ワイシャツを脱いで夕希に渡す。
「ああ、任せて」
ワイシャツを受け取った夕希は早速席に戻って裁縫を始めた。
……
5分経過。ワイシャツのボタンが付け終わる気配はいっこうに無い。その代わりに、夕希の『痛い!』という声が何度も聞こえてくるばかりだった。
…ボタン付けなんて、数分でできるぞ。一体どんな裁縫して…げ!
夕希の様子を見て仰天する。
ボタンをシャツに縫うどころか、ボタンに糸すら通ってない。そして、夕希の左手の指先と、左手に触れるワイシャツの部分が真っ赤に染まっている。
止めないと夕希の指と僕のシャツが大変な事に。
「……夕希、もういいよ」
「もう少しなんだから待ってなよ」
しかし夕希は聞く耳を持たず、再びワイシャツと格闘しようとする。
「…あれから5分も経ってるのに、ボタンにすら糸が通って無い。それに、僕のワイシャツを血だらけにする気かい?」
「……」
夕希はそれでもまだボタンに糸を通そうとする。しかし、ボタンの穴を狙った針は指を刺す。
あ、また赤いのが…。…見ていられない。
夕希からワイシャツを取り上げる。
「ストップ」
「あ!何するんだよ!」
「夕希、手が血だらけだよ」
「このくらい、大丈夫だよ」
「いや、もういい加減にしたほうが良い」
「でも…」
「でもも何もない。出来ないなら出来ないでいい」
強い口調で夕希を諭す。
「……」
夕希は無言で項垂れる。
…手、治療してやらないと。僕にお節介焼いてああなったんだし。
「ほら、手を出して」
「……」
夕希は刺し傷だらけの左手を出す。
ポケットからティッシュを取り出して血を拭い、傷口を確認する。
…針の刺し傷だから、絆創膏で充分か。
ポケットから絆創膏を取り出し、傷口に合わせて貼っていく。
「……ごめん。迷惑かけた」
申し訳なさそうにうつむく夕希。
「…別に良いよ。そうやって何とかやり遂げようとするのがお前の良い所だからさ。はい、終わったよ」
「…ありがと。でも、あんたのワイシャツ血だらけになっちゃったね」
「ああ…突然鼻血が出たとか言って誤魔化す。針と糸、借りるよ」
余った絆創膏をしまい、取れかかったボタンをつけ直す。
ボタンは5分とかからずに元通りになった。
「慧、あたしなんか余計な事しちゃったみたいだね」
夕希は元通りに付けられたボタンを見てがっくりとうなだれている。
「別に良いよ。わざとこうしたわけじゃない事くらいわかってるしね」
ボタンをつけ終わったワイシャツに袖を通す。血が付いた部分は一応ティッシュで拭いたが、跡ははっきりと残っている。
「でも…」
「…さーて、もう時間もないし急いで弁当を食べようかな。お前も食べるだろ?」
「う、うん…」
今ひとつ元気が出ない夕希。…仕方ないな。
「…唐揚げが入ってるけど、いる?」
「え?ホ、ホント?くれるの?」
「…ああ。針と糸借りたお礼」
「食べる食べる! あたしもうお腹ぺこぺこだよ」
夕希はすっかり元の調子に戻ったようだ。
やれやれ…すぐにどん底まで落ち込む割に、立ち直りは早いんだよな。
こうして、夕希と一緒に昼食を食べた。
それにしても、帰ったら漂白剤付けないとな。