塵抄話(じんしょうわ)
外から屋台を片づける音がした。窓に近寄ると、喧騒であふれた通りから、人や牛馬が帰路へつくのが見えた。
空には爪跡のような三日月が浮かび、東の空が青く染まっていく。昼の暑さがまだ残る夕暮れ時に、凛とした風情を漂わせていた。
「もう日が暮れた。帰らなくてよいのか」
背後の気配にそう言って振り返ると、部屋の中は既に明かりをともさねばならないくらい、暗くなっていた。
もうどれくらいこうしているだろうか。奥の方で、ころんころんと涼しい音を立てながら坏をあおぐのが聞こえた。
「今日はみな山へ登っている。菊花酒でも飲んで、なかなか山を下りられずに右往左往しているだろうな」
声の主は瑠璃の坏に紫の酒を入れて氷を浮かべた。ぐうっとこちらを見上げる顔は酔って赤くなり、重臣を震え上がらせる鋭い眼はだらしなく垂れていた。ただ口調だけははっきりとしていて、頭は働いているらしい。
「嚞子よ、今日は何用だったのだ」
嚞子と呼ばれた青年の視線がこちらの手元にうつった。白瑠璃碗に菊の花を浮かべてある。
「寂芍、お前はここにいて書物を読むのに町の喧騒が気にならないのか」
「心遠地自偏 采菊東籬下 悠然見南山。心の在り方次第だ」
そう答えると、嚞子は、詩は苦手だとため息をついた。琵琶を手に取り、それをこちらに差し出した。黙って受け取り無心に掻き鳴らす。
瀞瀞と琵琶の音を響かせながら古詩を口ずさんだ。
結廬在人境 而無車馬喧
問君何能爾 心遠地自偏
采菊東籬下 悠然見南山
山気日夕佳 飛鳥相与還
此中有真意 欲弁己忘言
「寂芍、もしその心が仙人の住まう山や谷ではなく、そこでは功徳など得られそうにない侘しい島にあったら、何に求める?」
嚞子は、何も無い乾いたところにあったら何とすべきかと聞いている。
「星だ」
「なぜだ」
「星はその座を天上に定めている。星が見えないときはその教えを心の中で繰り返すのみ。それで十分だ」
目の前の青年は憮然とし、最後の氷の欠片を坏に入れ酒を注ぎながら考え込んでいるようだった。
「山でも星は見える。山ではなぜ星を求めんのだ」
「和するべきものが周囲に無ければ天上の星に求めるべきだろう」
「寂芍。俺はときどき、魂がその島に在るように思えるのだ。人がたくさん周りにいても心はそこにない。隔たりを感じざるを得ないのだ」
夜風が簾をなでる。
「そなたは山に魂があると言った。この街中にあっても、今もそうなのか」
「ああ。どこへ行こうと同じだ。だが私の求めている安らかさと、嚞子お前の求めている安らかさは違う。だからこそ今お前に必要なのは島であり、だからこそ星を見るべきだと言ったのだ」
楽人の求める孤独と王の求める孤独は似ているようで異なるのだ。
「嚞子、むしろお前はたどるべき道を進んでいる。しかるべき時に、その星が導いてくれている」
既に氷は器の中で溶けて透明な層をつくっていた。
爪跡のような三日月は既に窓から見えなくなり、星が一つ二つと瞬いていた。
昔部活で提出したものを加筆修正したものです。