第二十一話 最大の賭け。(後編)
「玲菜!!」
警備員を振り払い、裏返った声で叫ぶ加瀬。首を絞められている現状に驚愕し、これまでに見たこともない厳しい表情でこちらへ駆けてくる。そして思い切り加瀬の義母を突き飛ばし、咳き込むわたしを――壊れてしまいそうなほど強い力で掻き抱いた。
「お前が私の言うことを聞かないから悪いのよ」
「……っ」
「やめて加瀬!!」
激高し、言葉を失い、怒りに打ち震える加瀬の背中にしがみつき、必死でなだめようとした。抑えていなければ、今にも相手に殴り掛かりそうな勢いだ。かろうじて理性を保っているのが分かる。
「何を怒ってるの。お前の決断を鈍らせる存在を排除するのは当然でしょう」
「――……怒ってるよ。玲菜をこんな目に遭わせて、一生忘れられない心の傷を負わせたあんたと、それを止められなかった自分自身に」
とても口を挟める雰囲気じゃない。一発触発の空気に圧倒されそうになる。加瀬は自分のせいでわたしを危険に晒したと思い深く悔やんでいるのだろう。それは違うと今すぐ伝えたいのに、できない。
「前に話したことは本当だろうな。俺が、あんたの言うとおりにすれば玲菜に手出ししないって」
「もちろんよ」
「――分かった。手続きを進めてくれ。すぐに発つ用意をする。だから今だけ玲菜と二人にして」
5分よ――と呟いた加瀬の義母が執務室を出て行く。手続き、発つ……? そんなのまるで、ここから加瀬がいなくなるみたい。そんな疑念を打ち消すように加瀬を見上げると、胸が締め付けられそうなほど、酷く優しい笑顔がそこにあった。
「ねぇ、玲菜覚えてる? 俺が初めて声掛けたときのこと。玲菜と出逢ってからの毎日は輝いていて、ずっと笑ってた気がする。世界は汚れて醜いものだと思っていたけど、どんなに厳しい環境にあっても花が咲くように、けして枯れることのない希望を与えてくれた。どれだけ感謝しても足りない」
「どうして急にそんな話……」
加瀬は答えなかった。ただ、とても辛そうにわたしの首につけられた痣を見つめ、物凄い勢いで壁に拳を打ち付ける。突然のことに面食らったわたしは、一瞬遅れてその手を包み込む。
「やめて下さい!! 何してるんですか!?」
「本当にごめん。脅迫めいたことを言われたけど、まさか直接玲菜に接触があるとは思わなかったんだ。こんなふうに危険に晒すくらいなら、あいつがいるパーティーへ連れて行くべきじゃなかった。全部俺のせいだ」
沈痛な面持ちだった。『玲菜が連れて行かれたってシェリルが教えてくれた、胸騒ぎがして駆け付けたけれど、もう少しで取り返しのつかないことになっていたかもしれないと思うとゾッとする』――そう続けた加瀬の頬は蒼ざめ、今度は怒りではなく恐怖で微かに震えていた。
「もし君を失ったら俺は……」
「何を言っているんですか。しっかりして下さい」
「心配なのは玲菜の方だよ。あんな目に遭ってなんでそんな落ち着いてられんの? 警察に行ったっておかしくないくらい――」
「加瀬がここにいるのです。何を怯える必要がありますか?」
「やめて。買い被りすぎだよ。奏の言うとおりだ。俺はいつも肝心な時に君を守れな――」
「葵。わたしを見て下さい」
「……っ、無理。合わせる顔がない」
「お願いします。わたしを想う気持ちが本物なら、どうか」
我ながらずるい。こう懇願して加瀬が応えないはずがないのだ。彼が渋りながらも視線を合わせた直後、わたしはそっと加瀬の両頬を包み込んだ。小さな子供がひどく叱られたような目で見つめられ、愛しさが込み上げる。この人を温めてあげたい――
「わたしはいつも守られてますよ。葵の全てで」
「嘘だ」
「嘘じゃない。だって今、こんな状況なのに全然怖くない。加瀬が無事で、ここにいる。わたしの手が届く場所にいてくれている。これ以上心強いことは他にありません。側にいないとき、理不尽な力に踏みにじられそうになったとしても、何度だって立ち上がる勇気が湧いてくるんです。だから怖がらないで。何か……わたしに伝えなければならないことがあるのではないですか?」
加瀬は小さく息を呑み、アイスブルーの瞳が揺れた。一瞬だけ泣きそうな顔でわたしの両手に自分のそれを重ね、困ったような微笑みを浮かべる。
「ほんと、玲菜には敵わないな。支えたいと思うのに、気付いたら支えられてるんだ。これじゃ立場が逆だ」
「葵……」
「ずっと迷ってた。これから玲菜と生きていくために、やらなければならないことがあるんだ。ただ、その決断はすげー辛くて……先延ばしにしてたんだ。だけど思い知ったよ。このままじゃ玲菜を守れない」
「ここを離れるのですか?」
「――……。実は、支援を申し出てくれている会社があるんだ。前にいつか独立したいって話したよな。今、ようやくスタートラインに立てた。加瀬の看板以外、何の実績も持たない俺を信じて将来に期待してくれてる。だから、義母から留学の話があったときは好都合だと思った。日本にいるより根回しし易いし、何より、玲菜と距離を置けばとりあえず玲菜の安全を確保できる。それなのにそうしなかったのは俺のわがままだ」
『どれくらい長く離れるかも分からない、成功すると約束もできない、それなのに、一方的に待っていてほしいと頼むのは無責任すぎて告げられなかった』と――眉根を寄せた加瀬の内心を察して胸がいっぱいになる。だけどわたしと向き合う加瀬の瞳には既に、強い意志を持つ者の輝きが宿っていた。
「自分勝手なのは分かってる。だけどこれだけは譲れない。他の何を差し出しても玲菜だけは――君の笑顔と幸せだけは俺が守る。その役目は誰にも渡さない。そしてもうひとつ、玲菜が教えてくれた大切なこと――人を信じ、信じられる力を形にしていきたい。俺は俺を信じてくれる人たちのために戦って、真摯に想いに応えたい。それができて初めて玲菜と並び立てる気がするんだ」
「加瀬……」
――『これから一番見たくないものと向き合って、決着をつける。他の誰にも脅かされない未来のために、幸せを掴む努力をする。過去を受けとめて、乗り越えて、糧にする。辛かった日々は自分を成長させるために必要な尊いものだと気付かせてくれたから』……
将来、フォーコンチネンタルホテルグループから独立して必ず活路を切り開くと――心通わせたあの夜に立てた誓い。加瀬はあれからずっと考えていたのだ。自分の進もうとしている茨の道と、それを切り開くために必要なもの。ならば、わたしにできることはただひとつ。
「葵の手を取ったあの日からどこかで覚悟していました。共にありたいと真に望むなら、側にいられないこともあるだろうと。だからいいんです。葵が苦渋の末に選んだ答えなら、たとえそれが痛みを伴うものであっても喜んで受け止めます」
「え、玲菜人が良すぎるよ。責めないの? こんなに大事なこと勝手に決めておまけに隠してたんだよ? 振られても文句言えないレベルの裏切り行為じゃない?」
「いつあなたがわたしを裏切ったのです。あなたは二人の未来のため、逃げずに立ち向かおうとしている。それをどうして責めるんですか。むしろ、大局を見据えて目先の利益に惑わされないあなたを誇りに思います」
「……っ」
「そうだ、写真を撮りましょう! 次いつ会えるか分かりませんからね。確かポケットに携帯が――」
わたしは急いでポケットを探り、携帯を出す。複雑そうな加瀬に「笑って」と頼んで肩を寄せた。シャッターを切ったあと、画面を確認する。少しぎこちない、だけど確かに笑顔のふたりがいる。
「ふふ、なんだかおかしいですね。ついさっきまで学校にいて、文化祭だって浮かれてたのに」
「俺もこれが夢であってほしいと願ってるよ」
「そうですね」
「ごめん。俺が不甲斐ないばかりに苦労させて」
「水くさいですよ。謝らないで下さい」
「ありがとう」
「それはわたしの台詞です」
「許してくれるの?」
「うーん。そうですねぇ……」
ちょっと悩んだフリをして背伸びした。不意打ちで唇を奪うと、耳まで真っ赤になった加瀬がうろたえる。いつもは余裕のある加瀬のこんな可愛い姿を見れるのはわたしだけの特権だ。
「しょうがないから、今ので全部許してあげます。だから元気でいてね。離れていてもずっと」
加瀬が大好き――そう思うだけで自然と笑顔が零れた。二度と会えないかもしれない不安がないと言えば嘘になる。ただ、ここで引き留めても困らせるだけだ。足枷になるような真似は絶対にしたくなかった。加瀬は新しい環境できっとたくさんの人の心を掴むだろう。わたしは加瀬の可能性を伸ばしたいし、全身全霊を賭けて彼の背中を守りたい。『いつか帰る場所』となって。
「玲菜」
『愛してる』と同じ甘さで囁かれ、どちらともなく唇を寄せた。この瞬間に加瀬の全てを刻みつけたくて、わたしは小さな体で精一杯受け止める。やがて扉がノックされるまで、体温を分け合うようにキスをした。そして――まるで明日も会えるような明るい笑顔で――ほんとうに、いつも通り別れた。
この日を最後に、加瀬は私の前から姿を消した。
次回は今月中に更新予定です。遅くとも六月中には更新しますので、残り数話、お付き合い頂けますと幸いです。




