第三話 甘い罠は突然に。
加瀬葵。
その名前を知らない女の子は、たぶんいない。
少なくとも同じ学校内では確実に。
「きゃー! 加瀬くんよ。今日もかっこいいー!」
彼がいつ登校したか、なんて見なくても分かる。
廊下が騒がしくなって、女の子たちの落ち着きがなくなるからだ。
「おはよー」
明るい笑顔でみんなに応える加瀬はまるでアイドル。
うっとり見つめる子もいれば、「目が合ったかも!」なんてはしゃぐ子もいる。
結論から言うと、わたしはそれが非常にウザイ。なぜなら――――
「痛っ」
「あ、ごめーん。てか芦田さんいたのぉ?」
椅子の背もたれにぶつかられて声をあげると、相手は立ったままクスクス笑って視線を落とす。
加瀬の席はいつも誰かに囲まれていた。つまり、隣に座っているわたしは大迷惑。
「大丈夫? 玲菜」
透き通る声はざわめきの中でもきれいに響く。
わたしは気遣う加瀬を無視して本を広げた。昨日の事件から、一度も口を利いていない。
「やだー、感じ悪い」
「そうだよー。加瀬くんが話してるでしょ?」
何人かの低い囁きに肩がビクンと揺れる。
いやだ。注目を集めたくないのに。
「はい、そこまでー。玲菜は別に悪いことしてないから。つーかむしろこっちがうるさすぎ」
加瀬の一言は絶大な威力を発揮する。みんなは黙って気まずそうに俯いた。
「勉強の邪魔だよな。もっと静かにする」
顔の前に片手をあげて「すまん!」とポーズを取る加瀬。
それを横目で見たあと、わたしはため息だけで返事をした。
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4限目の休み時間。次は移動教室だ。
わたしは教科書類を手早くまとめて席を立った。
「ねーねー玲菜。玲菜ってば聞いてるー?」
本日何度目かも分からない台詞を聞きながら、歩くスピードをあげる。
どうやってあの集団から抜け出すのか、加瀬はしばしば私のところへ現れた。
「しつこい男は嫌われるわよ」
これを言うのも何度目? 諦めの悪い加瀬は隙を見て話し掛けてくるのだ。
おまけに後ろをついて回られるとあってはうっとうしいことこの上ない。
「むー。いいのかなぁ、そんな態度で。俺、玲菜にふられたって言っちゃうよー?」
「なっ!?」
「あ、やっとこっち見た」
思わず振り向いて後悔した。背景にひまわり畑が浮かびそうな笑顔。
加瀬は立ち止まったわたしと距離を詰めてくる。
そこはちょうど人気のない階段の踊り場だった。
わたしは本能的に身構え、胸に教科書を抱きしめる。
「なんで避けるの?」
「別に避けてない」
「避けてんじゃん明らかに。やっぱ昨日のこと? まだ怒ってる?」
「当然です」
「ふざけすぎたのは謝るよ。でも、別に深い意味は――――」
深い意味はない。そんなことは百も承知だ。だからこそ腹が立つ。
「そういうところがキライなの」
「え?」
「なんとも思ってない相手にああいうこと平気でするのね。サイテー」
思い切り侮蔑を込めた瞳で見あげた。
それなのに、少しも動じることなくけろりとした表情で微笑む。
「だってさー、可愛いって思ったんだからしょーがないじゃん」
呆れた。と同時に怒りがこみ上げてくる。こんなバカに付き合っていられない。
今日こそ決着をつけよう。
「いい加減にしてよ」
「うあ、怒られた」
「ほんとは空気読めるんでしょ? だったらほっといて」
「えー」
「バカな振りしてちょっかいかけてこないでよ。加瀬なら他にいくらでも相手がいるじゃない。わたしは暇じゃないの」
迷惑なの、と顔をしかめて辛抱強く反応を待った。
ここまで言われてもまだつきまとうつもりか試すために。
「前から思ってたんだけどさー。玲菜って超ガード固いよね」
やれやれと肩を落とした加瀬は、心を決めたのか真剣な顔で向き合ってくる。
「どーしてもイヤ?」
「イヤです」
「なんで?」
「黙秘します」
「またまたぁ。とか言って実は気にしてたり……」
「しません。米粒ほども入る余地はありません」
「ぐさっ! またやられたぁー」
「もういいですか? さようなら」
潮時だ。これ以上は次の授業に遅刻してしまう。
身を翻し、踊り場から下の階段へ行こうとした時、
「待って」
前に回り込んできた加瀬が行く手を阻んだ。
どうにか横からすり抜けようとしたけれど、気付けば壁際に追い詰められていた。
「俺に嘘は通じないよ」
「!!」
唐突に告げられた言葉も、顔の横につかれた手も、どことなく威圧感を帯びている。
性懲りもなく心臓が高鳴り、緊張と羞恥の混ざった苦みが込み上げた。
「避ける本当の理由を教えて」
「地球上でふたりになってもお断りします」
ここで退いたら負けだ。わたしは精一杯、平静を装った。
まるで全身をスキャンされてるみたい。曇りのない眼差しがわたしに迫る。
「どいて」
「教えてくれたら離す」
加瀬は片手で持っていた自分の教科書を放し、両方の手を使って通せんぼした。
静かな踊り場に音を立てて落ちる教科書。もちろんそれを拾おうとはしない。
小さな檻に閉じ込められたわたしは息苦しくなり、白状した。
「……私があなたを避けるのは、学年一のイケメンで女子にモテるからよ」
「へ?」
予想外の返事だったらしく、加瀬の纏う空気が緩んで緊張が解けた。
わたしは加瀬の腕を掴み、ここぞとばかりに払いのける。
「分からない? 私は目立たず地味に生きていきたいのよ! 誰の目にも留らず影のようにそっと平和に生きていきたいのよ!」
「えーっ! まさかの日陰ッコ宣言!?」
「日陰者で何か不都合でも? 波風立てないことに集中してるだけ」
自分でも分かってる。けしてカッコイイ理由じゃないことくらい。
それでも、集団の中で生き抜くためには欠かせないポイントだ。
「それってつまり、俺といると目立つからイヤってこと?」
「そうよ」
「別に目立とうとしたつもりないんだけど……あ、そうだ。もし周りの反応が気にならなくなれば側にいられるよね」
「えっ?」
「了解。そういうことなら任せて」
加瀬は困惑するわたしからふっと離れ、散らばった教科書を拾い上げた。
嫌な予感がする。とても嫌な予感。
「どういうこと? ねぇ、加……」
案の定、罠が仕掛けられていた。
問い詰めようとしたわたしの唇を指先で塞ぐ加瀬に挫けそう。
白い花が匂い立つような色気はけしていやらしくない。純粋に獲物を慮にするものだ。
心の準備なんて関係ない。築いた障壁なんてたやすく砕かれてしまう。
「すぐに他のことなんて考えられないくらい、夢中にしてあげる」
弱った隙に悪魔のようなベルベットヴォイスで誘惑する。
加瀬は危険だ。
わずかに含まれた毒はまたたく間にわたしの神経を侵す。
指先が痺れるように、感覚がなくなっていく。
加瀬のことを考えるとおかしくなってしまう。
「じゃ、また後で」
理由が分かればこっちのもの。
加瀬はそんな態度でわたしをひとり残し、先に行ってしまった。
呆然と見送った後ろ姿には自信の二文字しか浮かばない。
そう、きっとこのひとは負けを知らない。
『待って。芦田玲菜サン、だよね?』
加瀬と出逢ったあの日。
わたしは声を掛けられる前から彼の存在に気付いていた。
新入生代表挨拶のとき、壇上からたくさんの生徒たちを見渡した。
そして一目で見つけた。
彼はいちばん星だ。
たくさんの人の中でひときわ強い輝きを放つ。
それがどうしてなのかは分からない。
だけど抗いようのない引力で周囲を惹き付ける魅力がある。
外見に恵まれているだけじゃない、何かがあるような気がした。
はじまりを告げるチャイムが鳴る。
わたしは急いで次の教室へ走った。
前途多難な高校生活に、一抹の期待と不安を抱きながら。