第十八話 守りたいもの。(前編)
「あの、雪音の怪我はどうですか? 跡が残りませんか?」
「あの子はかすり傷だから心配ないよ。それより君、足首を痛めただけだと油断しないように。数日は安静にしていること。分かったね?」
「はい。ありがとうございました」
「その様子じゃ迎えがあった方が良さそうだ。ご両親に連絡をして――」
「いえ、大丈夫です。タクシーを使いますから」
「そうかい? でも……」
「ほんとうに平気です。これで失礼します」
ゆっくり立ち上がり、医師に目礼したわたしは診察室を後にした。
危うく事故に遭いかけたあと、周囲の後押しもあって病院へ向かったわたしと雪音はそれぞれ診察を受けることになった。雪音はもう終わったのだろうか?
「あ、雪音。待っててくれたの? ありがとう」
緊張した面持ちで佇む雪音を見つけて少し驚く。椅子にも腰掛けず、わたしの処置が済むのを待っていたのだろうか。できるだけ足を引きずらないよう気を付けよう。痛くない、これくらい我慢できる。
「……先生、何て?」
「数日安静にしてれば問題ないって。ちょっと足をひねったくらいで大げさだよ。それより雪音、傷の跡残らないって。ほんとによかった」
「別にこのくらいどうってことないわ」
「だめだよ! わたしの不注意で怪我なんてさせたら自分を許せない」
「どうしてそんなに必死なの?」
「モデルになるのが夢だって言ってたじゃない。雪音の夢はわたしの夢でもあるのよ。絶対叶えたいって思うわ。って、雪音はもう立派なプロのモデルさんだね。わたし、知っての通り流行には疎いんだけど、それでも毎月Colorfulの発売日を楽しみにしてるんだよ。離れていても雪音に会えるから」
「……!」
「毎回かっこよかったり、可愛かったり色んな表情をしてるね。どれもすごく楽しそうで、モデルのお仕事が大好きなんだなって伝わってくる。とっておきのお洋服に袖を通したときみたいに胸がドキドキした」
「は、恥ずかしいこと言わないで」
「ふふっ」
「なにがおかしいのよ?」
「ううん、なんだか昔に戻ったみたいで嬉しくて。雪音は何を着ても似合うけど、やっぱり素の自分を見せてくれるときがいちばん素敵。照れたり、拗ねたりどれもすごく可愛い」
不機嫌そうに顔を背けた雪音は返事をしなかった。だけど明らかに少し前まで遠くなっていた距離が縮まった気がする。それは雪音も同じらしく、どこか気まずそうにもじもじしている。
「ほんとはね、怒るつもりだったの。どうして追いかけて来たの、気まぐれに助けたりしないでって責めようと思ってた」
「うん」
「でも思い出したの。答えを聞くまでもないなって、妙に納得した。ああいうとき、玲菜は迷わず助けにきてくれる。理由なんて関係ない、気付いたら体が動いてたって言う」
「雪音……」
「ほんとはずっと分かってた。そういうあなただからお兄さまは――」
その後彼女が何を言おうとしたのか、掠れた声が物語っていた。ぎゅっと両方の拳を握り、肩を震わせる雪音に手を伸ばそうとするも、凛とした瞳にそれを拒まれてしまう。
「どうして急にいなくなったの? お父さまにもお兄さまにも黙って街を出たのはなぜ?」
「それは――」
「私たちがいらなくなったの?」
「違う! それは絶対に違うよ!」
病院の中だということを忘れて声を荒げてしまい、看護婦さんに注意されてしまった。
どちらとも強く見つめ合い、沈黙が流れる。ようやく話を切り出したのは雪音の方だった。
「毎年ね、お盆になるとお母さまのお墓に花を供えるひとがいるの。ずっと不思議だったのよ。欠かさず花が置かれているのに贈り主が姿を見せることはなかったから。だけど今年、仕事の都合で早めにお参りへ向かったお父さまが帰ったとき、気付いたの」
「優さんに聞いたの?」
「ううん。お父さまはそういうことを言わないひとだわ。だけどすごく嬉しそうに笑ってた。それからこう言ったのよ。『塔子さんが大切なひとに会わせてくれた』って。それでピンときたわ。玲菜だったんだって」
「そうだったの」
「ねぇ、気付いてた? 玲菜がお兄さまのお見舞いに来るようになってから、お兄さまは明るくなったのよ。前は誰が話し掛けても知らん顔してたのに、あなたが顔を見せると嬉しそうに笑ってた」
「うん」
「それだけじゃないわ。お兄さまが外の世界に興味を持ち始めたって、お母さまも喜んでた。元々体の弱かったお兄さまが徐々に健康になっていくのをお父さまはいちばん側で見てたから分かるんだって。あなたと出逢ってからお兄さまは良い方向へ変わったって、いつも感謝していたのよ」
「そんな、わたしは何も……」
「何もしてないなんて言ったらぶつわよ? 私が自分を好きになるきっかけをくれたひとが自信を持てないなんて許せない」
「え?」
思いがけない言葉に目を丸くすると、鬱陶しそうにため息を吐く雪音。仕方がないといった表情で嫌々ながら続きを話す。
「私は珍しい瞳の色が原因で子供の頃いじめられてた。それは知ってるでしょう?」
「え、ええ」
「元々気が強くて、思ったことをすぐ口にしてしまうから敵を作りやすかったの。だからなかなか友達ができなかったんだけど、お兄さまの同級生だって玲菜を紹介された日、自分が何て言ったか覚えてる? お兄さまと同じ、すごくきれいな瞳だねって褒めてくれたのよ。見てるだけで幸せな気持ちになれる優しい色をしてるって。それから鏡を見るのが少しだけ嫌じゃなくなったの」
「! そういえば……」
「全く、物忘れが激しいんじゃない? 老けたの?」
きつい口調と裏腹に、雪音に向けられる眼差しがふいに和らいでいく。妹のように甘えてきた懐かしい記憶が蘇り、ほんの少し感傷的な気持ちになっていた。もうあの頃には戻れないのに、心が過去に還っていく。
「玲菜は昔からほんっとーに地味だったわね。目立つ要素がひとつもないというか『地味』の毛皮を着て歩いてるような日陰女だったわ。だけどいつも頑張ってた。人がやりたがらない仕事を進んで引き受けてた。誰も見ていないところでも一生懸命だった。誰かに言われたからじゃなく、褒められたいからじゃなく、自分の意志で動いてたわね。そういうとこ、すごいなって思ってた」
「え、いま何て……」
「~~~~っ、だから、雑草なりの根気強さがあるわねって話よ! 自惚れないでよね!」
「え!? あ、う、うん!」
「ほんとにムカつく女ね。お兄さまのことがなければ思いきり蹴飛ばしてたわ」
ふん、と髪を掻きあげた雪音はいつもの調子を取り戻していた。頬にも赤みが差し、気力を増したのが伝わってくる。こんなふうにもう一度向き合える日が来るとは思わなかった。あの頃とは違うけど、昔には戻れないけど――確かに存在している『今』を分け合えることがこんなにも嬉しいなんて。
「ちょ、ちょっとなんで泣いてるのよ」
「だ、だって、雪音がここにいるのが嬉しいんだもん」
「はぁ? バカじゃないの?」
「バカでも嬉しい~~」
あのね、ほんとは話したいことがたくさんあったんだ。塔子さんに最後のお別れを言えなかったこと、間に合わなくて悔しかったこと。どんなに奏や雪音に支えられてきたのか、優さんに宝物のようなあたたかい言葉をもらったのか。奏と心がひとつになったとき、近すぎてもお互いを傷付けてしまうことがあると知ったこと。守ってもらってばかりだった自分を変えたくて、強くなろうと決心したこと。それから、両親に愛されたくて「いい子」になろうと顔色ばかり見ていたこと――
ああでもほんとうに伝えたいことはもっと別のことだ。ずっとずっと、胸に抱えていた想いをまっすぐ伝えたい。
「大好きだよ」
「なっ」
「大好きだよ、雪音。奏も、優さんも、塔子さんも。どんなに遠く離れていても忘れた日はなかった。毎日を健やかに幸せに過ごせますようにって祈ってた。これから先、別々の未来を歩んでもそれは変わらないよ。宝条家のみんなと過ごした時間は何も代えがたい、わたしの宝物です」
「なによそれ。それじゃまるで――」
「大切なひとができたの」
「え?」
「自分の全てを掛けて共に生きていきたいひとを見つけたの。わたしはわたしに与えられた残りの時間全てをそのひとのために使いたい。半端な覚悟ではきっと運命に負けてしまうから、絶対につないだ手を離さないわ」
「……! お兄さまは……っ」
「奏とはもう話した。完全に認めてもらえたとは思わないけど、奏は新しい変化を受け入れてくれたと思う」
あの時――瞳を合わせた瞬間、心が悟った。それ程にわたしたちは近しい関係にあった。硬貨の裏と表が重なるように、お互いを映しだす鏡の役目を果たしていたのだ。だからこそ言葉にしなくても痛いほど共鳴するのだ。魂の、深い部分でつながっていたひとなのだと強く実感した。




