第十七話 理想の恋人。(後編)
「奏、さっきはありがとう」
「当然のことをしただけだよ」
興奮状態の水谷さんを何とか宥めたわたしは奏を連れて店を出た。
他のみんなにきちんと挨拶しないまま飛び出してしまったことを後ろめたく感じつつも、いまは目の前にいる奏と話さなければならない想いが勝っていた。
「いつ日本に帰ったの?」
「夏休みが終わる直前かな。ギリギリまで向こうで過ごしたかったからね。ところで、玲はどうしてあそこにいたの?」
「え?」
「学校帰りに寄り道なんて珍しいと思って。さっきの子はほんとうに友達? 君に悪い影響を与えないか心配だよ」
「何も心配するようなことはないわ」
確かに合コンだなんて言われた時は焦ったし、初対面の男性と談笑するなんてはじめての経験だった。それでも、クラスメイトの女子が遊びに行こうと誘ってくれたのだ。どんな理由があったとしても嬉しくないはずがない。
「ねぇ、玲。僕が助けに入ったとき、誰だと思った?」
「どういうこと?」
「別の誰かを期待してたみたいだから」
「!!」
「気のせいかな? それとも……やっぱり《彼》なの?」
しなやかな手が肩に置かれ、確かめるように耳元で囁く奏。その声は穏やかで、詰問の響きなどまるでないというのに返って胸が冷えていく。このひとには隠し事ができない――
「少し失望したよ。肝心なときに君を守れないなんて役立たずだね」
「やめて。奏は何も分かってない」
「分かってないのは玲の方だよ。彼はいつか君を裏切る。それも遠くない未来にね」
加瀬がわたしを裏切る……? 威厳に満ちた言霊が鋭く心に食い込んでいく。そんなことはありえないと頭で否定しても、不安の種は一気に芽吹いて成長していった。奏の言うことはいつも『正しい』。これまで選択に誤りがあったとは思えないほど、寸分の狂いもなく導いてくれていたのだ。
「信じるかは君の自由だよ。だけどけして結ばれない運命だ。目が覚めたら僕のところへ帰っておいで。全部受けとめてあげる」
僕の女神――と、頬に口付けた奏は優しく肩を抱き寄せた。
店を出たとはいえ人通りの少なくないこの道で、強烈な存在感を放つ彼と接近している。
周囲の注目を集めていながら全く気に留めないところは相変わらずだ。そう、昔のまま。
このまま奏の側にいればきっと悩むことなど何もないのだろう。不快なものから遠ざけ、心地良いものだけを選んで与えてくれる。子供部屋をお気に入りのおもちゃでいっぱいにして、外の世界で何が起こっていても注意を払うことなく――だけどそれではあまりに寂しい。わたしはもう外の世界を知ってしまった。
「かまわない」
「ん?」
「奏――たとえあなたが正しかったとしても、わたしは加瀬と共に歩く」
「それが正しい選択じゃなかったとしても?」
「正しいか間違ってるかじゃなく、そう望むか望まないかで動いてるのよ。黙って運命に従うなんてまっぴらごめんだわ」
「玲……」
「あなたを変えようだなんて傲慢なことは考えない。それでも、早く気付いて。あなたを大切に想うひとは一人じゃないわ。あなたの身を案じる人達を無下にしないで。与えられる優しさもぬくもりも、ほんのひとかけらだって当たり前なんかじゃない」
塔子さんがわたしたちを心配した気持ちが、いまなら分かる。愛しているから守りたい、危険なものから遠ざけたいと思うのは自然なことだ。それでも現実から逃れ続けることはできない。いつか破たんを迎える狭い世界には限界があることを彼女は気付いていたのだ。だからあえて他者と関わることを望んでいた。悩み、立ち止まることでしかひとは成長できないし、また自分自身の居場所もひととのつながりでしか生まれない。
そのことに気付けたのは加瀬との出逢いがあったからこそで、ひとりでは辿り付けない答えだった。
過去の自分にそれを伝えたところできっと、何かを変えようとはしなかっただろうことも分かる。
わたしは奏の優しさに甘えて殻にこもっていた。甘い夢を見せてくれる都合のいい殻を割って出ようなどと考えもしなかった。そう、あの頃の自分はひどく臆病で――傷付くのを恐れていたのだ。
「ねぇ、奏。傷付くのはもう怖くないわ。怖いのは傷付くのを恐れて何もできなくなってしまうこと。表面に気を取られて本質を見失ってしまうこと」
理想の恋人なんていらない。ただ甘えを満たしてくれるだけの存在ならきっと、わたしは加瀬を選ばなかった。彼はいつも新しい『気付き』を与えてくれるひとだ。それが真実に近付き、心を痛めるものであったとしても――目を逸らさずに立ち向かう強さをくれる。
「ありがとう奏。あなたが側にいてくれたから、自分のことを大切にしようと思えた。誰もいない形だけの『家』に帰っても、両親がわたしを見てくれなくても、ここにいていいんだと信じられた。優さんも、雪音も、家族として大切に思ってる」
どんなに感謝してもし足りない。どれほど救いになっていたかを言葉にし尽くすことは難しい。
だからこそ心から願わずにはいられないのだ――このひとの幸せを。少しでもわたしが傷付くのを見過ごせない一方で、どんなに自分が傷付いても弱音を吐かないこのひとの安らぎを。
「強くなったね……玲」
「うん。あなたが守ってくれたように、守りたいひとができたの。認めてくれなくてもいい。ただ、わたしを信じて」
だいすきよ――。複雑そうな奏の手を取り、自分の頬にあてた。てのひらから伝わる体温は紛れもなく奏のものだ。わたしはこの愛しいてのひらから巣立つときがきた。永遠の別れではなく、むしろ新しい始まりに向かって翼を広げるときがきたのだ。
「僕が君を信じなかった日はなかったよ」
「……っ、そうだね。そうだったね」
いっそ責めてくれれば気が楽なのに、と身勝手なことを考えてしまう。裏切り者だと、薄情な女だと嫌いになってくれた方がずっとよかった。怒りも憎しみも妬みさえも、真っ白な心の前ではくすむのだ。曇りのない瞳にはただひたすら、一途な愛情が満ちている。ずっとあなたの側にいると、この手を強く握れたならどんなによかっただろう? だけどもう戻れない――
「お兄さま……?」
溢れそうになる涙を必死でこらえていたそのとき、不意に声がして振り向いた。
とたんにみぞおちが締め付けられて息を呑む。蒼白な顔で立ち尽くしていたのは――雪音だった。
「どうして日陰女と……まさかいつもこんなふうに二人で……?」
「ご、誤解しないで雪音。今日は偶然会っただけで――」
「僕が玲に会いにきたんだよ。彼女はそれに付き合ってくれただけだ」
「へぇ、そうなの。ねぇお兄さま。どうしてですの? どうして――どうしてお兄さまは玲菜しか見てないの!? 誰よりもお兄さまを愛してるのはわたしなのに、どうしてそんな嘘つきなんか!!」
「やめなさい雪音。玲に失礼だろう」
「お兄さまもお兄さまよ! どうしてそんな女にこだわるの? 一方的に与えるだけで何も返してはくれないのに!」
「世界中の誰よりも彼女を愛してる。それだけのことだ」
「……!」
よどみなく答えた奏は落ち着き払っていた。一方、衝撃を隠せない雪音はひどく打ちひしがれた様子でわたしを見た。憔悴の色をにじませた瞳は揺れ、唇を噛んだ直後に背を向け走り出す。
「雪音!」
「大丈夫。あの子はちゃんと理解してるよ。ただ認めたくないだけだ」
「それでもほっとけないよ。奏はここで待ってて、雪音を連れて来るから!」
「玲がそう望むならいつまでも」
力強く頷き返し、わたしは雪音を追った。彼女はどこにいても目立つからすぐに見つかるはずだ。
まずは誤解を解いて話し合おう。気まずいからと避けていては何も変わらない。
人混みの中をすり抜け、息を切らしながら周囲を見渡した。視界の端に見慣れた立ち姿の少女を見かけて安堵する。駆け寄って声を掛けようとした矢先、鋭く睨まれてしまう。
「余計なことしないでよ」
「雪音……ごめ――」
「謝らないで!! ――……っ。なんなの? なんなのよあんた? 自分から離れて行ったクセに今さら現れないでよ!」
小刻みに肩を震わせる雪音はぐいっと瞼を拭って顔を背けた。
華奢な体躯は儚げな空気を纏っているというのに、強情なところだけは昔と変わらない。
奏やわたしにべったりで甘えん坊だった雪音はもうどこにもいないのに、つい愛しい面影を重ねてしまうのはあたたかな思い出が後ろ髪を引くからだろう。
「雪音、戻ろう。奏が心配してる」
「触らないで!」
「痛っ」
肩に乗せた手を払われた瞬間、長い爪に引っ掻かれた。手の甲にうっすらついた傷跡を見て雪音がハッと息を呑む。
明らかに滲み出た動揺に驚いたのはわたしの方だった。雪音の、まるで自分自身が傷付いたかのような表情――
いまどんな顔をしたのか、鏡で見たかのように焦る雪音。見られたくないものを見せてしまった後悔からか、再び背を向け走り出す。
「待って雪音! 走ったら危ないわ!」
「ついてこないで!」
雑踏の中で必死に追った。どうしてかこのまま雪音が消えてしまいそうな気がして――嫌な予感がした。心臓がひときわ大きく跳ねたそのとき、赤信号のまま横断歩道に突っ込もうとする雪音の姿が見えたのだ。急ブレーキを踏んだ車が真近に迫り、わたしは渾身の力を振り絞って雪音を引き戻す。
「きゃあああっ!!」
信号待ちをしていた人達から悲鳴があがって辺りが騒然となる。
接触しそうになった車をかろうじて避けると、怒ったようにクラクションを鳴らして去って行く。
雪音を思いきり抱き寄せたはずみで転倒し、コンクリートに叩きつけられたわたしは鼓動が収まらなかった。あと少し、タイミングが遅かったらと思うと心臓が別の生き物のように暴れ出すのだ。
「い、た……」
呻き声を漏らした背中に手を回し、無事を確認するようにさすると雪音は飛び退いた。
咄嗟に庇った形のまま地面に倒れていたわたしを恐怖で引き攣った目で見ている。
ガクガク足を震わせる雪音を安心させようとゆっくり起き上がった。
「っ、大丈夫だよ。もう怖くない」
幸い、お互い軽傷だったと悟ったわたしは一気に体の力が抜けた。とたんに緊張の糸が切れて、涙が零れた。雪音が無事だ。自分も生きてる。もう少しで大切なひとを失うところだった。もう少しで加瀬を――大切なひとを悲しませるところだった。
「よかった。何も失わずに、済んで」
気付けば加瀬と同じことを口にしていた。溺れかけたわたしを助けたとき、加瀬はこんな気持ちだったのだろうか? 抱きしめられた腕の力強さが、掠れた声の弱々しさがリアルに蘇り、目眩がする。今とてもあなたに会いたい――
『玲菜』
名前を呼ばれた気がして振り向いた。そこにいるはずのない、愛しい姿を心に描く。
ああ、そうか。離れていても守られてるんだ。ひとりでいてもひとりじゃない。加瀬が側にいる。
呆然とする雪音を前に沈黙が流れた。そうしている間に周囲の人が集まってくる。「早く病院へ」――慌ただしく変わる景色の中で、わたしは確かなものを感じていた。




