第十六話 もう少しだけ。(中編)
玲菜視点に戻ります。
食事を終えたわたしたちは人気の少ない公園へ足を運んだ。
なんとなく会話が途切れてひたすら並木道を歩く。
奥まった場所にベンチを見つけて腰掛けたとき、話を切り出したのは加瀬だった。
「んーと、何から話せばいいんだろ。薄々勘付いてるかもしれないけど――俺、ちょっと面倒な問題を抱えてて」
「それは……お兄さんに関することですか?」
「兄貴に何か言われた?」
「詳しいことは何も。ただ、加瀬が抱えている問題は重いとだけ」
ふたりの間に沈黙が流れた。加瀬は少し考え込んだあと、意を決したように口を開く。
「それで、玲菜はどうしたい?」
「え?」
「兄貴の婚約パーティーで見た俺は怖くなかった?」
「そんな、怖いなんて――」
「言い方を変えようか。『加瀬の御曹司』は加瀬葵とは別人だっただろ?」
「……別人なんかじゃありません。あの夜、わたしをエスコートしてくれたのは確かに加瀬でした。いつもとは雰囲気が違いましたが、それでもあなたであることに変わりありません」
「そうかな。玲菜には無理させてた気がするよ」
「隣で必死に耐えてるみたいだった」と付け足されては返す言葉がない。
大勢の人間が集まる豪華な空間は、正直あまり居心地の良いものではなかったのだ。
おまけにパートナーとしての役目を果たすどころかプールに落ちて迷惑を掛けてしまった。
わたしがしょんぼり肩を落とせば、慌てたように手を振る加瀬。
「あー、ごめん。違うんだ。責めてるんじゃなくて、むしろ逆。愛想尽かされたんじゃないかって不安だった。多少贅沢はできたかもしれないけど、あの場所――俺が生きてきた場所には、何でも揃ってるようでほんとうは何もないから」
「それはどういう……」
「飾りなんだよ、全部」
「飾り?」
「そう。俺には笑顔も褒め言葉も全部嘘にしか思えないんだ。仮面の下ではみんな自分のことしか考えてなくて、利益を得るためだけに近付いてくる。それならこっちもそのつもりで接した方が楽だろう? 利用価値がなくなれば掌を返せばいい」
「……!」
「俺は玲菜が思うほどお人好しじゃないよ。相手の望みを察してそれに合う自分を演じてきただけ。その方が生き易いから」
以前、『俺に嘘は通じないよ』と迫った加瀬が脳裏に浮かぶ。単なる脅しかと思ったけれど、自信に裏打ちされた態度を思えばそれには訳があったのだ。加瀬には並み外れた洞察力が備わっているのだろう。だけど――
「玲菜。俺が怖い?」
「え……」
「これまでの言動や行動が信じられない? 全部嘘だと思う?」
――嘘だった? これまで見てきた加瀬の全てが?
『ねぇ、玲菜。側にいてよ』
『え?』
『俺の側にいてよ。これからもずっと』
『な、なにを……』
『何もいらないから、ただ側にいて笑っててよ』
あの日――わたしを抱きしめた加瀬は震えていた。躊躇いがちに発せられた言葉のひとつひとつが祈りのようで、人前で明るく振舞う彼の寂しさに触れた気がした。
『なんでか自分でもよく分かんねーんだけどさ。玲菜と一緒にいたら、ずっと探してた答えが見つかりそうな気がするんだ』
ずっと探してた答え。それが何なのか、追及するべきではないと踵を返したわたしはそれを受けとめるだけの覚悟がなかったのかもしれない。だけど今こそ踏み込むときだ。
「怖くなどありません。たとえあなたがわたしを欺いていたとして、それが何ですか?」
「え、何って」
「あなたは確かにわたしを救ってくれました。あなたに出逢わなければ知りえなかったことがたくさんあります。わたしにとってはそれが紛れもない真実」
クラスメイトにバイトがバレそうになったとき、さり気なく逃がしてくれた。
山で遭難しかけたわたしを探しに戻ってくれた。プールに落ちたわたしを助けに来てくれた。
数え出せばきりがないほど、何度も何度も。わたしは加瀬に救われたのだ。
「誰かを信じるのが不安なのは加瀬のせいじゃありません。信じるに足る相手に出逢わなかっただけの話です。それならわたしが信じられる人間だと証明すればいい。何度でも試して下さい。その度にあなたの信頼を勝ち得るだけです」
「玲菜……」
「それに、自然体で振舞えないと悩んでいたわたしに対して『人に嫌われるのは怖くない、その時はその時だ』と言ったあなたの言葉は偽りと思えません。生き易くするために機嫌を取る相手がいても、心から失いたくないと思える相手がいなかったのでしょう?」
「……!」
わたしにとって血の繋がった両親は安らげる存在ではなく、家という名の居場所を守るため機嫌を取る相手だった。離婚前には既にそれぞれパートナーを見つけていた両親に「ひとり暮らししたい」と提案したのはわたしの方だ。わたしには宝条家の人間が家族であり、失いたくないと思える存在になっていた。もし奏に出逢わなければ、わたしも加瀬と同じく疑心暗鬼に陥っていたかもしれない。
「他人と向き合うのが怖い気持ちは分かります。わたしもそうでした。だけどいまこうして告白しているのはなぜですか? それは信じたいと思ってくれたからじゃないですか?」
一気に言い募れば加瀬が目を丸くした。わたしの決意が伝わればいいと、切に願う。
やがて困ったように笑みを零した加瀬は、どこか吹っ切れた様子で呟いた。
「やっぱり玲菜には敵わないなぁ」
「話してくれますか?」
短く頷いた加瀬は迷いのない瞳でわたしを見た。これから話されることが加瀬にとって重要な意味を持つことなのだと改めて実感する。
「俺はね、玲菜。ほんとうは加瀬グループに居ていい人間じゃないんだ」
「え?」
「親父が今の母親と結婚する前、恋人だった女がいてさ。それが俺の母親だった。結局、家柄の格差が原因で結婚を認めてもらえなかったらしい。それから親父は今の母親と政略結婚して兄貴が生まれた。だけど密かに俺の母親とも関係を続けていて、しばらく後に俺が生まれたんだ」
はっと息を呑んで口元を覆ったわたしはどう反応していいか分からなかった。
加瀬のお兄さんをひとめ見た瞬間に抱いた違和感――。
胸騒ぎがしたのは奏に近い何かを本質的な部分で感じたからだと思っていた。それがこんな形でつながるなんて。
「当然、隠し通せることじゃなかった。兄貴の母親は激怒してさ。詳しいことは知らないけど、金で問題を解決しようとしたらしい。だけど俺が生まれてすぐ母親が失踪して、親父が俺を引き取ったんだ。世間体を考えて血の繋がらない『養子』として加瀬家に迎えられた俺はまぁ、周囲からあまり良く思われなくてさ。愛人の息子を引き入れたのは後々遺産問題を避けるため、なんて噂されたけど、実際は違った。全ては復讐のために仕組まれたことだったんだ」
復讐――。おぞましい言葉にすっとみぞおちが冷たくなった。
加瀬は静かに、淡々と続きを述べていく。
「俺は兄貴の駒として育てられた。加瀬家の正式な後継者である兄貴を生涯支え、手足となって働くために。実の母親のことは全然記憶にないんだけど、容姿が生き映しらしい。加瀬グループの広告塔として俺を使うのは、ある種の見せしめだって聞いた。どこかで生きているかもしれない俺の母親が、俺を見る度に苦しめばいいと思ってるんだろ。悪趣味だよなー?」
はは、と乾いた笑いを漏らした加瀬はふいに瞳を揺らした。
どこか悔しそうに唇を噛み、先ほどより小さな声でぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「子供の頃はさ、何度か反抗したことがあったんだ。親は関係ない、自分は自分だって泣きながら訴えたこともある。その度に拒絶されて――生まれた時から俺の手は汚れてる、一生誰かを愛することなく、また愛されることなく死んでいく運命なんだって振り払われた。親父は俺の教育を母親に任せる条件で引き取った手前、口出しできなくて。それでも後ろめたいんだろうな。ときどきふっと寂しそうな目で俺を見るんだ。はじめはそれでもよかった。どんな理由でも自分を気にかけてくれる存在が心強かった。だけど一度だけ、親父が母親の名前を呼んだんだ」
「それは加瀬に対してですか?」
「ああ。その瞬間、理解した。親父が俺を引き取ったのは母親への未練を断ち切れなかったからだと。スキャンダルのリスクを負って俺を側に置いたのも、加瀬グループの御曹司としてメディアに晒されるのを止めなかったのも、むしろ好都合だったからだろうな。母親をおびき出すための餌になる」
「そ、んな」
「それなのに俺はずっと、もうずっと何年も――親父の面子を保つためだけに働いていたんだ。兄貴より優秀であってはいけない。必ず一歩下がった場所から補佐に留まるのが俺の役目。それを忠実に守りつつ、加瀬の御曹司に恥じない程度の教養を身に着けていた。それがどんなにバカげたことか思い知った時、何かが弾けた。全部どうでもよくなったんだ」
あまりの仕打ちに呆然としながらも、なぜか頭の中がクリアになっていく。
ああ、そうか――謎が紐解けるようにパズルのピースが埋まっていった。
『時間には限りがあります。ベストを尽くすために準備は怠れません』
『まいったなぁ』
『勉強は特に日頃の努力が――』
『いいんだ、そういうの』
『え?』
『努力とか、そういうのはいいんだ』
どれほどの時間をひとりで耐えてきたのだろう?
察するに余りある心痛を思えば胸が張り裂けそうだった。だけどわたしが泣けば加瀬が話せなくなってしまう。今を逃せば永遠に聞けなくなるような気がして、わたしは佇まいを直した。
「家を出ることはできないのですか?」
「あいつらは俺を手放さないよ。現状、生きるためには加瀬グループから逃れられない。ただ、一方的に搾取されるならできるだけ楽をして過ごそうと思ってた。今の高校に入学したのはせめてもの抵抗だよ。だけど心が晴れることはなかった。ずっと……胸にわだかまってた。どうして俺は生まれてきたんだろうって。誰にも望まれずに生まれた人間はどこへ行けばいいんだろうって」
加瀬が探し続けてきた答え――それは『生まれた意味』?




