第十五話 いつか帰る場所。 (前編)
無事に加瀬のお兄さんが婚約披露パーティーを終えた翌日。
南の島から帰国したわたしは空港で加瀬と別れ、急激に日常へと引き戻されていた。
元々夏休みはバイトに夏季セミナーと予定が詰まっていて、遊びに出掛ける暇もない。
加瀬も会社絡みのお仕事が増えたらしく、なかなか顔を見れずにいた。
「あ。すみません」
八月中旬。
実家方面に向かう電車の中で着信があった。まさか連絡があると思わずマナーモードにしなかったことを反省し、こっそり携帯を確認する。新着メールが一件。加瀬からだ。
(題名 おはよう
本文 今日もこれから撮影。玲菜はバイト? 気を付けて出かけてね)
短い文の中に加瀬の優しさを感じて笑みが零れる。わたしは急いで返事を打つ。
(題名 Re:おはよう
本文 おはようございます。撮影大変ですね。あまり無理しないで下さい)
「送信っと」
今までは返事を打つのにずいぶん時間がかかっていたけれど、最近はようやく慣れてきた。
相手が加瀬ということもあってどこか安心してしまうのかもしれない。
携帯を鞄に直すと、わたしは窓の外を見た。
流れゆく景色はやがてなじみ深いものに変わっていく。自然とてのひらに力がこもった。
「……ただいま」
二時間ほど快速に揺られた後、降りた駅のホームで呟く。
ここは中学を卒業するまで過ごした街。わたしのふるさとだ。
変わらない空気。変わらない街の温度。ゆっくり歩く人々。
わたしは改札を出て目的地へ歩きだした。
しばらく見ない間にアーケイドの店が何軒か変わっている。
駅前にあるパン屋さんの店員も、いつのまにか知らない人になっていた。
『変わらないものなんてないわ』
雪音の言葉がふっと脳裏をよぎって心細くなる。
今日は大切な用事のためにここへ来た。実家に帰るわけでもないし、おそれることはない。
だけど足が震える。気分が悪い。この街へ戻ること自体が大きなストレスになっていた。
「加瀬」
知らず言葉にしたその名前はほのかに温もりを帯びて心を満たす。
わたしは自分を励ますように歩みを進めた。
毎年お盆になると必ず足を運ぶ場所がある。それは――
「お久しぶりです。塔子さん」
わたしは予め買っておいた花を、きれいに磨かれた墓へ添えた。
宝条塔子。彼女は奏と雪音の母親だ。奏の病室でよく顔を合わせていた。
『あら、玲ちゃん。また遊びに来てくれたの? よかったわね、奏。なかなか学校に行けなくて、友達ができないって寂しがってたのに』
『母さん!』
『恥ずかしがることないじゃない。玲ちゃん、今日も来てくれるかな? ってずーっと気にしてるんだから』
赤くなって顔を背けた奏は、めずらしく感情的になっていた。そう、母親の前でだけ見せる子供らしい表情。こんなときは自分のことのように嬉しくなった。はじめて奏と出逢ったあの日、紙の雨に降られる彼がひどく不安定に見えたのだ。
『お外に行きたいの?』
『え?』
『ずっと見てるから』
『……』
『ときどきここへ遊びにきてもいい?』
『!!』
『教室はうるさくて本が読めないの』
どうしてそんなことを言ったのか分からない。ただ咄嗟に口走っていた。突然の申し出に奏は戸惑いつつもどこか興奮していたのを覚えている。
『ほんとう? ほんとうにまた会いにきてくれる?』
『うん。わたしは芦田玲菜。よろしくね』
『僕は宝条奏。奏って呼んで』
その日を境に、わたしは毎日奏のお見舞いに行った。
暇な時間を持て余し、読書に耽っていた奏は家庭教師に勉強を教わりつつ、わたしと話すのを楽しみにしていた。次第に妹の雪音とも仲良くなり、三人で遊ぶようになってから奏が明るくなったと塔子さんはとても喜んでいた。奏が無事に退院して学校へ復帰してからも、わたしは宝条家に行き来して家族みんなとごはんを食べたりした。
『玲菜ちゃんも食べて行きなさいな。あのひとも喜ぶわ』
塔子さんは朗らかで、とても優しいひとだった。あまり丈夫ではなかったものの、医師の夫――宝条優に支えられ、幸せな家庭を築いていた。わたしは宝条家のみんなが大好きだった。立派な家に住んでいてもちっとも気取らず、むしろ飾り気のない生活を好むあたたかい家族。冷たい自分の家族よりずっと心から迎えられている。そんな気がしていた。
塔子さんとの別れは突然だった。
自宅に連絡があったとき、いつもと違う雪音の取り乱した声に嫌な予感がした。
報せを受けたわたしも気が動転していたのだと思う。いつもなら上手に両親の機嫌を取れたのに、このときばかりは一秒でも早く駆けつけたい気持ちが勝って、それが仇となった。
『なんだその態度は。ちょっとこっちへ来い!』
大人の力に敵うはずもなく、わたしはその日、太陽が傾くまで部屋に閉じ込められた。
結局通夜には間に合わず、塔子さんに別れを告げる機会を永遠に失ってしまった。
『どうして来てくれなかったの!? すぐに行くって言ったじゃない。……うそつき。うそつき! 玲菜なんて嫌いよ。大キライ!』
全てが終わった時、会場へ着いたわたしは雪音に激しく責められた。
ほんとうの家族のように接してきた分、いちばん辛いとき側にいられなかったこと、約束を守れなかったことが許せなかったのだと思う。わたしは言い訳をせずただ彼女を受け入れた。泣きじゃくり、胸を叩く雪音を抱きしめ、唇を噛んだ。
『雪音。やめるんだ』
雪音の腕を掴んだのは奏だった。ドクン、と心臓が鳴って一瞬、顔を見るのを躊躇った。
だけどその頬に涙の跡はなく、驚くほど落ち着いた男の子がそこにいた。
もう顔を赤らめていた子供らしい表情はなく、大人びて凛と背筋を伸ばしていたのだ。
『お兄さまは一度も泣いてないのよ』
雪音が零した言葉は刺々しさを含み、わたしの胸を抉った。
聞けば通夜でずっと雪音の手を握り、前だけを見つめていたらしい。
――奏は強い。
そんなことを考えたわたしは本当に愚かで、子供だった。
塔子さんとの別れをきっかけにわたしと雪音の間には修復しがたい溝が生まれた。
静寂に包まれた宝条家に出入りしにくくなった頃、わたしは学校を休んだ奏を心配してお見舞いに訪れたことがある。
疲れた様子で、だけどあたたかく迎えてくれた優さん。わたしは許しを得て奏の部屋へ向かった。
ノックしようとして扉が少し開いていることに気付く。あまりに静かすぎて、不安になったわたしはそっと中を覗いてしまった。
『――!』
はっと息を呑んだわたしは激しい動悸に襲われる。
奏は泣いていたのだ。表情を歪ませることなく、声をあげずに。
どうして気付けなかったのだろう。辛くないはずがないのに。雪音や父の手前、気丈に振舞っていた奏の心痛を思うとたまらなかった。弱さを見せないことは強さじゃないと、塔子さんは言っていたのに。
『なにしてるの? あ、ちょっと!』
雪音に声を掛けられたわたしはろくに挨拶もできないまま宝条家を飛び出した。
闇雲に走って、走って。電灯の少ない道をひとり駆け抜け、自宅に帰った。
わたしは決意した。もう大切なひとが悲しむことのないよう強くなって側にいると。
集団に混ざらなければ疎外される学校で生き抜くために、誰からも一目置かれる存在になろうとますます勉強に打ち込み、やがて大人を真似て毅然とした態度を身につけた。
『はい。これを玲にあげる。お守りだよ』
先生を味方につけて両親を説得し、奨学金の獲得を条件に中学受験を決めたとき、奏はお守りをくれた。
『僕たちは似たもの同士だね』
成長する度に輝きを増す奏がわたしの心を掴むのは容易かった。
元々優秀すぎるゆえに異質な存在だった奏と、他人に心を開けずひとりでいることを選んだわたしは互いに依存し合い、なくてはならない存在になっていたと思う。
塔子さんはわたしと奏が親しくなることを喜ぶ半面、狭い人間関係で完結していることをいつも心配してくれていた。こうしてお墓に来ると、愛しげな瞳がわずかに揺れたことを思い出してしまう。




