第二話 レモンドロップにご注意を。
バイト明けの月曜日。
わたしはどんな顔をして加瀬に会っていいのか分からなかった。
新入生歓迎会をサボったことを他の子に知られたくない。
加瀬はもう、誰かに話してしまっただろうか?
だけどあの時、助けてくれたような気がした。
確認したい。頭の中はそれでいっぱい。
新入生歓迎会だって、別にわざとサボったわけじゃない。
事前にシフトを提出した手前、今さら穴をあけるわけにはいかないと思ったのだ。
当日の店舗は学校から離れていたし、同級生に会うとも思わなかった。
超がつくほど地味なわたしがキャンギャルの制服を着てMCなんてもはやネタでしかない。
どうにかして口止めしたい。顔を合わせたらきっと詮索してくるに違いない。
「おはよう、玲菜」
早目に登校して席に着いていたわたしは、この瞬間を待っていた。
ついに来たかと身構え、心の準備をする。それなのに、
「今日は一限から小テストかぁ。萎えるよなー」
ホームルームが始まっても、休み時間になっても。
挨拶をしたきり、続くのは世間話ばかり。
お昼休みのチャイムが鳴っても、加瀬がバイトのことを蒸し返すことはなかった。
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広い校舎にチャイムが響く。それを合図に教室が熱気に包まれた。お昼休みだ。
わたしは笑い合うクラスメイトを横目に屋上へ向かった。
いちおうお弁当を用意してあったけど、食欲が湧かない。
釈然としないまま階段をあがり、屋上へと続く扉に手を掛けた。
開いた瞬間、心地良い風が吹き抜ける。
わたしは空いた手で乱れた髪を抑え、そのまま思い切り扉を開く。
どこまでも続く青い空。
遮るもののない世界は解放感に満ちている。
カフェテリアのピークが過ぎるまでの間、ここで過ごすひとは少ない。
ひみつの隠れ家とはいえないまでも、学校で落ち着ける貴重な場所だ。
だけど今日は先客がいた。
「あ」
加瀬だ。反射的に体が拒否し、扉の影に隠れる。
音を立てないよう閉じて、深呼吸した。
逃げてちゃダメ。そう何度も言い聞かせ、もう一度扉を開く。
加瀬はコンクリートの地面に座って、背中をフェンスに預けている。
教室では邪魔が入るかもしれない。聞くなら今だ。
ごくん。わたしは唾を飲みこみ、震える足を前に踏み出す。
「加瀬」
声を掛けてもこちらを見る気配がない。ここにいることを教えようと、咳払いした。
だけどやはり反応がない。まさか無視された?
それにしたって静かすぎる。何かがおかしい。
「加瀬?」
隣にしゃがみ込み、横顔を見つめた。
そよ風に揺られて、太陽の光を浴びた金髪が煌めく。
閉ざされた瞼に視線を移し、わたしは人知れずため息をこぼす。
睫毛長いなぁ……うらやましい。
「こーら」
「!!」
パチリと開いた瞳がわたしを捉える。
空の色より深い青。
「お、起きてたの?」
「うん。気をつけないと、そんなに見つめたら大抵の男は勘違いしちゃうよ?」
「……」
わたしはしゃがみ込んだまま体育座りに姿勢を変え、スカートの裾を整えた。
「どうして」
「ん?」
「どうして何も聞かないの。てっきりあの時、助けてくれたのかと思った」
あの時。
バイト中にクラスメイトと遭遇するのを避けてくれたのだと思った。
「助けてなんかないよ。あれは俺のわがまま」
「どういうこと」
「ミニスカートの玲菜を他の奴に見られたくなかっただけ。つまんない独占欲だろ?」
呆れて言葉を失った。飄々とこんなことを言ってのける男なんてサイテー。
おまけにそれが見え透いた嘘ならなおさら。
「ふざけないで」
「んー、だめか。玲菜にこの手は通じないなぁ」
肩をすくめた加瀬は猫背を正してこちらを見た。
しばらくの沈黙。
「あのとき、気付かないふりをしたのは……」
渋々という感じで白状し始める。往生際が悪いんだから。
「玲菜が気付いてほしくないって顔してたから」
思わず返事に面喰った。わたしはそのままの形で固まってしまう。
「え。それだけ?」
「うん」
「ほんとに?」
「うん」
「うそ、信じられない。加瀬って空気読めたんだ」
わたしに驚愕の表情が浮かんだのか、今度は加瀬の方が心外という顔をした。
「おーい、さりげなく失礼だな」
「だってどう見ても賢そうには見えないもの」
「ぐさっ! ダブルショック!」
大げさによろける加瀬のシャツを引っ張り元の位置に引き戻す。
もしかしたら彼を過小評価していたのかもしれない。
「なるほど。残念なイケメンだと思ってたけど違うのね」
「うん、なんで褒められた気がしないんだろう」
淡々と笑顔で受け答えする加瀬はやっぱり他のひととは違うかも。
見極めるにはもう少し時間が必要そうだけど。
「俺はさ、KYじゃなくてAKYなの」
唐突な宣言に瞼を瞬かせると、加瀬はおかしそうに笑った。
わたしは訳がわからない。
「AKY?」
「あえて空気読まないってこと」
「えぇ!?」
「だって毎回空気ばっか読んでたら疲れるし、自分が何したいのかもわかんなくなるだろー?」
「そ、れはそうかもしれないけど」
わざと空気を読まないなんて大技、とてもやってのける気にはならない。
一歩間違えば確実に白い目でバカにされてしまう。
「嫌われるのはこわくないの?」
「別に。気が合わなかったってだけの話じゃん」
なんでもないことみたいに言って頭を掻く加瀬。
それが強がりに見えなくて、ますます困惑してしまう。
「それに、いつどうなるかなんて分かんないし。玲菜だってはじめは俺のことウザそーにしてたけど、いまはこうして名前で呼んでくれる。いろいろ聞いてくれる。つまり、そゆこと」
まだ起きてもないことで悩むなんてハゲそうだからパス、と背伸びをする。
わたしはそんな加瀬の隣で、自分の悩みがちっぽけに思えてきた。
「なんだか色々バカらしく思えてきたわ」
深くため息をつくと、加瀬はふっと何かを思い出したようにこちらを見た。
「そういえば、なんでキャンペーンガールやってんの? てっきりあがり症だと思ってたけど違った?」
忘れもしない入学式。
新入生代表挨拶を無事に終えるため、わたしは入念に準備をした。
事前に分かってさえいれば大抵のことは平気なのだ。
ただし、突然クラスメイトに囲まれるのは非常事態に等しかった。
個人対個人であれば物怖じしないけど、集団対個人で輪に放り込まれるのは心細い。
「キャンギャルって、派遣のお仕事なんだよ。毎回行き先が違うぶん、面倒な人間関係がなくて楽なの。他のバイトに比べて格段にお給料もいいし丁度よかった。それに……」
「それに?」
「お金をもらうってことは、プロに徹するってことでしょ。お給料って絶対的な見返りがあるから、自然とスイッチが入るのよ。なんていうか、別人になれるの。仕事だから突然人に囲まれてもあがらずに対応できる」
これはバイトを始めてから気付いたことだ。
わたしも初めは人前に出る仕事を避けようとしたけれど、お給料の良さに負けて試しに応募した。
事務所に呼ばれて新人研修を受けたとき、社長の一声で視界が開けたのだ。
『いい? 一円でももらうならプロに徹しなさい。仕事をしている間のあなたは高校生の芦田玲菜じゃない。事務所のキャンペーンガールよ。派遣のお仕事はね、三つの看板を背負うことになるの。まずはうちの事務所。それから携帯ショップのある電機量販店。最後に、制服を借りるキャリアよ』
仕事をしてお金をもらう以上、プロに徹する。
自分であって自分ではない誰かになれるような気がした。
「なるほどね。優等生ならではの考え方だなー。それ、学校でも発揮できない? たぶん玲菜と話したいと思ってるやつ、他にもいっぱいいると思うけど」
「学校はこわい。だって利害が絡まないもの」
学校で明るく振舞いみんなの輪の中に入る。想像して身震いした。
「えーと……玲菜先生、分かるようにお願いします」
加瀬が困ったように首を傾げたので、わたしは言葉を付け足す。
「職場では建前を使うことが多いのよ。良い人間関係を保つために、腹が立っても露骨な態度を取るひとは少ない。まぁそういう人がいても嫌みのひとつくらいはお給料の内だしね」
「うわ、おっとなー」
「そうじゃないわ。むしろ逆」
自分でも子供じみた発想だと笑える。
わたしは両手を膝の上に乗せて呟いた。
「学校では生の反応が返ってくるじゃない。仲良くしたい者同士が集まって、折り合いが悪くなると仲間外れにする。そのうち誰を信じていいか分からずに息がくるしくなるの」
いやな記憶が蘇り、わたしは首を横に振って空を見あげた。
教室で、たくさんの友達に囲まれた加瀬を思い出す。
肩肘張らずに自然と笑い合えたら、どんなに素晴らしいだろう。
「加瀬はすごいね。自然体でみんなの中心にいられるんだもの」
わたしとはまるで正反対、という言葉を飲み込んで微笑んだ。
代わりにつきん、と胸の奥が痛む。
心の声は聞こえないはずなのに、加瀬は黙って頭を撫でてくれた。
ああ、こういうところが極上なんだ。
空気が重くならないようにさりげなく気遣ってくれる。
わたしはもうそれに気付いてしまった。
「ほんとはね。入学式の日、声を掛けてくれて嬉しかった。と思う」
「と思うって、中途半端だなー」
「だって自分でもよくわからないんだもの。絶対関わりたくないと思ってたのに」
いまのは本音を言い過ぎた。
はっと気付いて顔を背けても遅い。恥ずかしい。耳が熱い。
「ね、さっきの話、まだ有効?」
「え?」
「玲菜のバイト、みんなにバラすかもって心配してたんだろ。じゃなきゃ玲菜から俺のとこ来るなんてありえないし。だからさ、ごほうびちょうだい」
ごほうび。口止め料ならまだしもごほうびとは予想外だった。
わたしはもう一度、確かめようと口を開く。
「ごほうび? 黙ってたことの?」
「うん。いい子にしてたごほうびちょーだい」
加瀬は子犬のように人懐っこい笑顔でわたしを見てる。
見えない耳としっぽがついてるようでたじろいだ。
「ごほうびって言われても……あ」
わたしは制服の胸ポケットからドロップを取り出し、蓋を開けた。
「MCって喉がだいじな仕事でしょ? だからいつも持ち歩いてるの」
加瀬の手を取り、てのひらにコロンと転がす。
レモンイエローの四角い粒を見て、わたしは落胆した。
「これ一番酸っぱいやつだ。もう一個出すから待って」
「これでいい」
「え? でも」
「これがいい。食べさせて」
食べさせて。
確かにいまそんなことを言われたような……いや、幻聴かも。
「食べさせて」
にこにこ満面の笑みを浮かべて瞳を細める。
一瞬、妄想かと思った。というかそうであってほしかった。
「これくらいはいいだろー? キスしてって言ってるわけじゃないし」
「わ、分かった」
すっと眉間にしわを寄せたわたしに追い打ちをかける加瀬。
もう逃げられない。大丈夫、食べさせるだけ。深い意味は何もない。
「はい。どうぞ」
できるだけ早く済ませたい。
焦りからか、ドロップを落としてしまいそうになる。
加瀬は抜群の反射神経でそれをキャッチし、そのまま口に運んだ。
「んー」
ま、まさかこの展開は。
加瀬は唇で軽くドロップを挟んだまま、わたしの手をちょんちょんとつついてくる。
押し込め、というのだろうか。
わたしは高鳴る心臓を無視して人さし指を伸ばす。
軽く押しただけでドロップは中に入っていった。
安心して加瀬の目を見て、時が止まる。
『玲菜』
あの日、教室で隣にいた加瀬が見せた妖艶な表情。
瞳は口ほどにものをいうとはこのことだ。
いつもふざけているくせに、気を抜けば全く違う一面で攻められてしまう。
その絶妙なギャップにわたしは打ちのめされていた。
認めたくないけど、単純に、魅せられていた。
「あ……っ」
加瀬は動けないわたしの手を取り、そのまま自分の唇へ寄せた。
瑞々しい唇の感触が指の腹を通じて伝わってくる。
ぞくりと背筋に衝撃が走り、わたしは身をよじった。
「こっちも美味しそうだね」
至近距離で囁く加瀬の碧い瞳に射抜かれる。
わたしは成す術もなく胸元に引っ張られ、空いた方の手で唇の輪郭をなぞられる。
他にはどこも触れられていないのに、体中の血液が沸騰しそう。
太陽を背にした加瀬の顔に影が差し、互いの吐息だけで距離を測る。
だんだん目眩がして、正しい判断ができなくなっていく。
「冗談だよ。びっくりした?」
突然、ぱっと手を離した加瀬が頭を撫でてきた。
ぽん、ぽん。子供にするのと同じあたたかさで。
わたしは頭の回転が急速に鈍くなっていた。
しばらくしてことの経過を思い出し、たちまち頬が紅潮するのを感じた。
「前言撤回。あんたはわたしの天敵よ!」
叫ぶのと同時に立ちあがる。
もう恥ずかしいのか悔しいのか、訳がわからない。
とにかく頭にきて、冷静さをうしなっていた。
「加瀬のバカ! 二度と触らないで」
「あ、玲菜」
「あんたなんか大キライ!」
わたしは溢れそうになる涙を拭って走り出す。
加瀬が追いつく前に屋上の入口へ戻り扉を閉めた。
「はぁ、はぁ」
まだ呼吸が収まらない。冷たい扉を背にずるずると座り込んだ。
触れられた唇が熱い。ドキドキする……
なんでもいいから落ち着きたい。
ほとんど無意識にドロップを取りだした。
震える手でコンコン、と缶の底を叩く。出てきた色を見てますます落胆した。
「サイテー」
さっき加瀬にあげたのと同じ、レモンイエロー。
いちばん酸っぱい、苦手な味。
わたしは座り込んだまま、加瀬だけは絶対好きにならないと誓った。