第十四話 パーティーが始まる。(後編)
「玲菜様、こちらへ」
「? はい」
加瀬と別れてからしばらくして様子がおかしいことに気付いた。
はじめは確かにヴィラへ向かっていたはずなのに、急に進路が変わったのだ。
どこへ連れて行かれるのだろう。漠然とした不安が募る。
「失礼致します。進様、お待たせしました」
「無理を頼んで悪かったね。僕もすぐ会場に戻るから、それまで遥をよろしく」
「かしこまりました」
突然のことで言葉を失った。わたしが導かれていたのは、加瀬のお兄さんがいる部屋?
どうしてパーティーの主役がこんなところに? そもそもなんで呼ばれたの?
「座って、と言いたいところだけどその格好じゃね」
くすっと笑みを浮かべた加瀬のお兄さんはけして嫌みな雰囲気ではなかった。
だけど何だろう。激しく鼓動が脈打って何かを警告している。
「申し訳ありません」
「どうして君が謝るの?」
「これは……わたしの責任だからです」
「へぇ、君の?」
このひとはどこまで知っているのだろう。
わたしがプールに落ちたとき、見ていたのはあの子供だけだ。
助けに現れた加瀬が会場にいないことに気付いて探しに来たのはスタッフだった。
この一瞬のうちにインターカムで連絡を取り合い、面会のため時間を作ったとしたら……?
暫く待っても相手が話を切り出す素振りはない。ただ微笑んでこちらを見ている。
――嫌な予感がする。
「ご用がないなら失礼します」
加瀬のパートナーとしてここにいる以上、二度も醜態を晒せない。
長居は無用と判断したわたしは一礼して背を向けた。
「君は葵が好きかい?」
扉に手を掛けたとき、静かな声がして凍りつく。
ぴたりと動きを止めて、わたしは必死にあらゆる可能性を模索した。
彼の目的は何? まさかこんなことを聞くためにわざわざ出向いたとは到底思えない。
「悪いけど君のことを調べさせてもらったよ。芦田玲菜さん」
淡々とした口調だった。だめだ、逃げられない。
わたしは意を決してゆっくり振り向く。大丈夫。平静を装うくらいはできるはず。
「あれ。意外に冷静だね」
「知られて困るようなことはありませんから」
慎重に、言葉を選んで答えた。表向きにこやかでも友好的じゃないことくらいは分かる。
加瀬のお兄さんはソファに深く腰掛けたまま、やがて愉快そうに瞳を細めた。
「なるほど。君は面白いね。僕のフィアンセは器量はいいが、いわゆる深窓のお嬢様だ。花嫁修業を除けば教養の浅い、実につまらない相手だよ」
「……!」
ついさっきまであんなに仲睦まじそうだったのに。
フィアンセである遥さんの肩に触れ、何かを囁いている様子を何度も目撃した。
「何を驚くことがある? これが政略結婚であることは一目瞭然じゃないか」
さり気なく辛辣な言葉を投げ掛けられ、わたしは身がすくんだ。
余計なことは言わない方が得策だ。後々どう転がるか分からないし、下手をすれば加瀬に迷惑を掛けてしまう。それだけは避けたい。
「君をパートナーとして公の場に立たせることの意味を、葵は分かっているはずだ。それに対して君はどこまで応える気がある? ……葵が抱えているものは重い。君が想像するよりずっとね。それでも君は、葵と共に生きる覚悟があるの?」
わたしは固く唇を結んで加瀬のお兄さんを見据えた。
反応を待っていた彼は何も答えないと分かると肩の力が抜けたのか、タイを緩めて立ち上がる。
「ま、普通答えられないよね。もう分かったと思うけど、君と葵では住む世界が違う。いつかは別々の道を歩む運命だ。思い出を作るなとは言わない。ただそのことを覚えていてほしい。そして時が来たら君の方から離れてやってくれ。その代わり、何かあれば善処すると約束しよう。秘書に連絡してくれ」
何かあれば善処する――その響きはまるで手切れ金のようだ。
秘書のものだと差しだされた名刺を取れずにいると、彼の方から握らせてくる。
「引き留めて悪かったね。もう行っていいよ」
これ以上は時間の無駄だ、と言われたも同じだった。取りつく島もない態度が終わりを告げている。
だけどこれは何だろう? 失望よりもっと別な感情がわたしを奮い立たせている。
『信じて、玲菜。自分自身を。俺が世界で一番誇りに思う女の子を』
あの時、加瀬がくれた言葉が。
『――負けないで』
あの時、シェリルさんがくれた言葉がわたしを強くする。
「勘違いしないでください」
もう迷わない。
わたしは譲れない想いを胸に加瀬のお兄さんと向き合った。
少しだけ驚いた顔でこちらを見ている。反論すると思わなかったのかもしれない。
それでもいま、どうしても伝えるべきことがある。
「いま答えないのは答えられないからじゃありません。それを伝えるべき相手があなたではなく、葵さん本人だからです」
怖くても逃げてちゃだめなんだ。加瀬と一緒にいたいなら、変わらなくちゃいけない。
不安と高揚感が交互に襲ってきてわたしは吐き気がした。ここで挫けてしまったら一生後悔する。
気丈に微笑むと、自然と勇気が湧いてきた。
「感謝します。あなたのお言葉で『住む世界が違う』という点に関して考えを改めました」
「どういう意味かな?」
「違いがあるということは本当に悪いことでしょうか? わたしはむしろ嬉しく思います。なぜならその分、お互いの世界を分け合えるからです」
どうしてもっと早く気付かなかったんだろう。加瀬との間に線を引いていたのはわたしの方だ。
どこかで彼とは住む世界が違うと思っていた。そして今回の旅でそれを確信した。
加瀬のお兄さんが言うように『いつかは別々の道を歩く運命』だと決めつけていた。
なんて傲慢で自分勝手だったのだろう。そこに加瀬の意志はないというのに。
「不思議なことを言うね。住む世界が違えば互いに苦労が多いだろう? 多大な恩恵には必ず犠牲が伴う。これまで自由にしてきたことが自由にできなくなる」
「わたしは始めから、何かを返してほしいとは願っていません。ただ葵さんの力になりたいんです。フォーコンチネンタルホテルグループの御曹司ではなく、加瀬葵の力に。だからこれはお返しします」
両手を添えて名刺を返した。受け取ってくれたところで深くお辞儀し、姿勢を正す。
「今夜はご招待に預かりありがとうございました。どうぞお幸せに」
伝えたいことは伝えた。いい加減こんなみずぼらしい姿を見せるのも失礼だろう。
わたしは背を向けて扉を開け、部屋を後にし数歩踏み出したところでどっと疲れが吹きだした。
『ここから先は加瀬葵じゃない。加瀬の御曹司になる。だから玲菜はそれをよく見ていてほしい』
今さら加瀬の言葉を理解するなんて間抜けにも程がある。加瀬は覚悟を決めてわたしをここへ連れて来たのだ。それを察したお兄さんに面会を求められたのだとしたら――
目が回る。なんて重圧だろう。
わたしは今の話が加瀬の耳に届かないことを祈った。きっと良い気はしないだろうし、むしろわたしを気遣って胸を痛めてしまうかもしれない。何より加瀬の肉親が本人のいないところで話を進めようとしたことがわたしの心を悲しみに染めた。
分かってる。生意気な口を利いたところで現状、わたしが一介の高校生であることに変わりはない。
「あ、あれ? どうして」
ふいに目頭が熱くなり、涙が溢れて焦った。
色んな感情がごちゃ混ぜになって、心が慟哭に近い叫びをあげていたのだ。
張りつめていた糸が切れてしまったように、何かが弾けた。
「……っ、――……っ」
わたしは人影のない方へ駆けて泣いた。声を殺し、誰にも悟られないよう。
加瀬。わたしは加瀬の信頼に応えられるひとになりたい。
雪音の言うとおりだ。誰かの背に庇われていては前に進めない。
『ほんとうは側にいてほしいなんて言う資格ないのに』
普段明るい加瀬が垣間見せる力ない瞳。諦めたような微笑みも、まるで自分を否定するみたい。
何があなたを苦しめているの? 分からない。分からないけど――
加瀬の足枷を解いて羽ばたかせたい。空高く飛ぶ鳥のようにどこまでも遠くまで、自由に。
そして誰よりも輝かせたい。本当の笑顔を取り戻したい。その時こそ変われる。そんな気がした。
「っ、……負けないわ」
濡れた瞼をこすって立ちあがる。背筋を伸ばして、わたしは再び歩き出した。
今はまだ泣く時じゃない。やれることがたくさんあるはずだ。
ひとりヴィラへ戻ると、既にスタッフの女性が待ち侘びていた。
すぐにシャワーを浴びたわたしは予備のドレスに着替え、メイクを直してもらう。
鏡に映る自分は昨日までの自分と少しだけ違って見えた。
支度を整えたわたしは急ぎ足で会場へ向かい、加瀬を探そうとして気配を感じた。
それは彼も同じだったらしく、まっすぐこちらへ歩いてくる。
ほっと胸に広がるあたたかい気持ち。これがきっと答えなんだ。
「大丈夫? 体調悪くない?」
無理はしなくていいよ、と耳打ちされて安らぎに包まれた。
だけど視界の端に加瀬のお兄さんが入って一瞬、心臓が跳ねる。
あのあとすぐに会場へ戻ったのだろう。フィアンセの隣で談笑している。
「大丈夫です」
何事もなかったように笑顔を返せば、加瀬は手を繋いできた。
目立たないよう、愛しげに指を絡ませてくる。そんな何気ない仕草に胸が震えた。
このひとに嘘はつけない。泣いたと気付かれてしまったかもしれない。
それでも、わたしに合わせてくれる優しさが。ふいに与えられたぬくもりが心を溶かしていく。
――加瀬が好き。ようやく認めた瞬間だった。




