第十三話 真夏の夜の夢。(前編)
「わ、空港混んでますね」
「夏休みだからなー」
八月。ついにこの日がやってきた。
スーツケース片手に現れたわたしと反対になぜか加瀬は手ぶら。
「荷物はないんですか?」
「ああ、もう送ってあるから。ちょっと早いけどもう中入ろっか」
「え? 保安検査場はそっちじゃありませんよ」
「俺たちはラウンジ通るからこっちで合ってる」
「ラウンジ?」
ちょいちょい手招きする加瀬の後を追うと、一見目立たない小さな入口が。
加瀬は慣れた様子でどんどん進んで行くけれど、こんなところ勝手に入って大丈夫なのか。
「あ、あの。これって職員用の通路では?」
「まさか。この先に上級顧客用の待合室があるんだよ。わざわざ長い列に並ばなくてもこっから検査して入れるってわけ」
赤い絨毯が広がるラウンジは空港の喧騒なんて嘘みたいに静か。
係員さんと話をした加瀬について検査を済まし、その中を通って行く。
わ、なんか別世界って感じ。
顧客用の軽食や飲み物がずらりと並び、皮張りのソファはゆったりした間隔で並んでいた。
「あ、そうだ。チケット渡しとくね。はい、玲菜のぶん」
「ありがとうございます。……え?」
ラウンジを抜けたあと手渡された一枚の航空券。
座席を確認しようと何気なく見たら『ファーストクラス』の文字。
そういえばそんなクラスもありましたね。貧乏人には縁がありませんけど。
「あの、幻覚が見えるのですが」
「え? どんな?」
「どんな? じゃありませんよ! なんなんですかいちいちハイスペックでムカついてきました!」
「ええええ!?」
「それはこっちの台詞ですっ。一体どれだけわたしに借金させる気ですかもう!」
ふん、と顔を背けると加瀬は慌てて機嫌を取りにきた。
自分で予約したんじゃないとか云々。ますます火に油を注ぎまくりだ。
人生初の海外旅行がファーストクラス利用。ぜいたくすぎて卒倒しそう。
半個室でリクライニングできる椅子はふかふかでちっとも眠れなかった。
悲しいけれど薄い敷布団に慣れた体が拒否反応したんだと思う。
六時間ほどフライトを経て無事に着陸するまでの間、わたしは食事もろくに通らなかった。
「はー、やっと着いた。こっからもっかい飛行機ね」
「乗り継ぎですか?」
「ん、まぁそんなとこ。水上飛行機だけど」
「水上飛行機?」
「これから行くのは加瀬グループのプライベートアイランドなんだ。一般の人は出入りできないから直接飛行機で乗り付けるってわけ」
「プ、プライベートアイランドですか」
はは、と乾いた笑いが漏れた。ずれたハンドバックを肩に掛け直す。
うん。ここまで格差があるといっそ清々しい。
加瀬はわたしのスーツケースを引いて誘導してくれた。
「きゃあっ!!」
「大丈夫。ほら、掴まって」
水上飛行機に乗り込んだわたしは浮かび上がると同時に揺れて驚いた。
加瀬は隣で手を握ってくれている。安心させように、ぎゅっと強く。
三十分ほどして目的地に到着した。
おそるおそる瞼を開けば、あまりの眩しさに感動が込み上げる。
「すごいです。海ってこんなに青いんですね」
「この辺は自然保護区に近い場所だからなー。水の透明度も抜群なんだ」
飛行機から降りるわたしに手を差し伸べる加瀬。
その手を取り、足元に注意して飛行機を後にした。
これからわたしの泊まる部屋へ案内してくれるらしい。
桟橋を歩く度に肌を焼く強烈な日差し。うーん、頬を撫でる潮風がくすぐったい。
「ここが玲菜の部屋ねー」
「ここ全部、ですか?」
「うん。ビーチヴィラで悪いけど」
水上ヴィラは招待客をメインに泊めたから、と加瀬は頬を掻く。
何を言っているのだろう。こんなヴィラはハネムーンでもなかなか使えない。
目前にはどこまでも続く白い砂浜にエメラルドグリーンの海。
木造のヴィラは島に建つ隠れ家のようで、完全にプライバシーが保たれている。
空高く茂る椰子の木が揺れ、ハンモックの側には読書台と冷たい飲み物が。
「俺ちょっと兄貴に会ってくるから寛いでて。このへん自由に散策していいから」
「わ、分かりました。くれぐれもよろしくお伝えください」
「そんな固くなんなってー。イヤでも後で会えるからさ。んじゃ」
加瀬が歩いた後の砂にはきれいに足跡が残る。
わたしはそれを楽しい気持ちで眺めた。まさかこんな夏休みを過ごせる日がくるなんて夢みたい。
日焼け止めを塗ったら帽子を被って海に行こうかな。
カナヅチで泳げないからビーチチェアに寝転んでお昼寝しよう。
念のため水着に着替えたわたしはたっぷり日焼け止めを塗った。
深く帽子を被り、持参した文庫本を手に波打ち際へ歩く。
砂が熱い。足の裏を火傷しそうになって駆け抜けた。
「ほんとに誰もいないのね」
静かなビーチには自分だけ。遠くに白い帆船が漂っているのが見える。
平和だ。ここだけ時間が止まっているみたい。
「玲菜みーっけ」
「ひゃっ!?」
頬に冷たい何かが当たって飛びあがる。
いつのまにかうたた寝していたらしいわたしはグラスを手に見下ろす加瀬に気付かなかった。
グラスの中でカランと氷が音を立てて沈んでいく。可愛い紙のパラソルが差さっていた。
「もうすぐ夕方だよ。夏は日が長いからまだ明るいけどね」
「そ、そうですか」
「向こうにキャンドルライトディナーをセットしてもらったんだ。せっかくだから一緒に食べよう」
「え? いいんですか?」
「機内食だけじゃ物足りないだろー? まぁけっこう美味かったけどさ」
わたしには見たこともないご馳走だったけど、と言うのはやめた。
飛行機の中でシャンパンを傾けるビジネスマンらしきおじさまを見て固まったのもひみつ。
「それで、どこまで行くんですか?」
「それは着いてからのお楽しみ!」
キャンドルライトディナーって何だろう?
加瀬は不思議そうなわたしの手を取り、浜辺の奥へと走り出した。




