第十話 満月の夜。(後編)Side加瀬葵
後編は葵視点のお話です。
「大丈夫ならいいけど。もー、あんま驚かせんなよなー」
「す、すみません」
受話器から聞こえる彼女の声。
特別なことは何も話していないのに、どうしてこんなにも癒されるのか。
安らぐのに嬉しくて落ち着かないなんて矛盾してる。
俺は内心ふっと笑みを漏らして窓辺に近付いた。
「ねぇ玲菜。今夜は満月だね」
「え? そうですか?」
「うん。窓から見える?」
「少し待って下さい」
素直に移動しているのだろう。受話器の向こうから彼女の足音がする。
少しパタパタとしたあと静かになって、俺は反応を待つ。
「わ、ほんとですね。満月です。しかも今夜は雲ひとつありません」
「だろー? さっき帰ったら電気点ける前から部屋が明るくてさ。もしかしてって思ったんだ」
「そういえば入学式の夜も満月でしたね。しばらく眺めていたんですよ」
「え、マジで? 気付かなかった」
――――入学式。
そんな言葉が懐かしい記憶を呼び覚ます。
『いいか? 葵。お前はどこにいても加瀬グループの一員だ』
きっと小学生になった頃には未来が見えていた。
それなりにいい中学、高校、大学へ進学して卒業したらオヤジの会社に入る。
生まれたとき既に敷き詰められた長いレールの先は決まっているんだ。
みんなは俺のことを「加瀬の御曹司」なんて呼んで媚びへつらうけれど、自分自身が認められていないことくらいは子供心にも気付いていた。
『今日から高校生か』
特別な感慨はない。
また人生設計図の先へ一コマ進んだだけ。
味気ない言葉が頭に浮かんで苦笑いをかみ殺す。
『きゃー! 加瀬くんよ、かっこいいー!』
『あいつが加瀬の御曹司? 意外とフツーに登校するんだな』
都会のノイズみたいに流れ込んでくる人の声。
雑踏の中で生きるのはもう慣れた。だけどけして快いものじゃない。
大丈夫。すぐに気にならなくなる。心の電源を落とせばいいだけ。
『新入生代表、芦田玲菜』
『はい』
熱気に包まれた体育館。大勢の生徒が緊張した面持ちで腰掛ける中、ひとりの女の子が立つ。
あの子が今年の首席合格者か。しかも同じクラスだ。
はじめは――正直なところ大して興味を抱かなかった。
新しい制服を完璧に着こなし、無表情のまま壇上にあがる女の子。
彼女もきっと同じように未来が見えているのだろう。
そう思ったとき。挨拶を始めた彼女の空気が劇的に変化した。
大人しそうで地味な女の子。自己主張が強そうにはとても見えない。
それなのに、これだけの人間を前に物おじせず朗らかな声を響かせている。
なんて堂々としているんだろう。それも奢った態度は微塵も感じさせない。
『……芦田、玲菜か』
気が向いたら話す機会もあるかな。
新入生代表挨拶が終わり、入学式が終わるころにはそんなふうに思っていた。
ふと教室に向かおうとしたところで芦田が視界に入る。
中学からの知り合いがいないのかひとりだ。
『あの――』
友達になるチャンスかも。俺は声を掛けようとしてはっと息を飲む。
震えていたのだ。彼女の華奢な肩が小刻みに。
『え、うそ……』
凛と前を向いているのは変わらないのに、自分の腕をぎゅっと掴んでいた。
緊張、してたのか? まさかそんなはずはない。だけど――
『待って! 芦田玲菜サン、だよね?』
考えるより先に体が動く。ほとんど衝動的に駆け寄った俺の胸に何かが焼き付いた。
焦りにも近い、どこか落ち着かない想いがふつふつと沸き立っていたのだ。
――――彼女のことは葵くんが気にやむことないわ。
古傷がズキンと痛んで俺はあえて笑顔を作った。
バカだけど明るくて愛想のいい憎めない子、そんな仮面を被る日常が役に立つなんて。
『さっきの新入生代表挨拶ちょーかっこよかった! 頭いいんだねー』
『どうも』
二度目の衝撃。自慢ではないが女の子に素っ気ない態度を取られたのは初めてだ。
年を重ねる度にどんどん伸びた身長。容姿は盗み見た古い写真の中で笑う母親に酷似していた。
天然のプラチナブロンドに碧い瞳。日本では珍しいのか常に注目を集めてしまう。
中学生になって成長した俺は周囲の著しい変化に驚いていた。
ぶっちゃけていうと、人気者になっていた。それも凄まじい勢いで――女の子に。
『加瀬くん、一緒に帰ろうよ~!」
『あー、ずるい! 今日はわたしたちの番なんだからねっ』
デートに誘うのも電話番号を聞いてくるのも向こうから。
俺はいつも相手の興味が失せるまでのらりくらりとやり過ごしてきた。
「加瀬葵ファンクラブ」なんて一般人には縁遠い組織まで創られたときにはさすがに萎えた。
せっかく普通の中学・高校へ入れたのに、変な噂が立てばオヤジは容赦なく転校させるだろう。
親が裕福というだけでふんぞり返っている妙なエリート意識の高い連中の元へ。
『君と同じクラスなんてラッキー! これから一年よろしくな。あ、俺は加瀬葵。葵って呼んで』
彼女――芦田玲菜はことごとく期待を裏切る。良い意味で。
握手を求めてここまで露骨に嫌な顔をされたのもこれが初めて。
『ところでさ。君、彼氏いる? どんなひとがタイプ?』
『……』
顔を覗き込んできめ細やかな肌に気付く。
化粧ひとつしていないというのにくっきりした大きな瞳が印象的だった。
深い栗色の、意志が込められた眼差し。
『ねーねー教えてよー!』
『越後の龍』
『へ?』
『上杉謙信よ。知に富み義に厚く、女に惑わされない武将』
きっぱりとした口調で背中を向けられ絶句した。
つれない。冷たい。掴めない。まるで3T。それが芦田玲菜の第一印象だった。
『うえすぎけんしん?』
誰だそれ。ってか現代人じゃないのは確かだよな、うん。
後で携帯使って調べよう。俺は気を取り直して芦田の後ろ姿を追いかけた。
『あ、待ってよ芦田サン。一緒に教室いこ!』
『ひとりで平気です』
うわー、完璧にウザがられてる。いっそ清々しいほど。
腹が立つどころかだんだん楽しみな気持ちが込みあげて俺は口元が緩んだ。
芦田玲菜
いつのまに心の中へ棲みついてしまったのだろう。
その名前を聞く度に、呼ぶ度に幸せな気持ちが溢れてくる。
理屈じゃ到底片付けられない想いが既に芽生え始めていた。
『あなたはきっと、周りを悲しませないように生きてきたんですね。だから相手のことによく気がつく。欲しい言葉をくれる。さり気ない優しさも、明るい笑顔も、それが貴重だって知ってるから』
誰にも気付かれないと思ってた。だけど彼女は気付いてくれた。
――俺の秘密に近付いたのはこれで二人目だ。
心の奥底で握りしめていた想いを、彼女はそっと拾い上げて包み込んでくれる。
くしゃくしゃになってもまだみっともなくすがっていた俺の過去を知らなかったとしても。
「それで……って、加瀬。聞いてます?」
「へ?」
「へ? じゃありませんよ。さっきから生返事ばかりして、一体どうしたんですか?」
「あー、ごめんごめん! ちょっと考え事してて」
「電話をかけたのはあなたの方ですよ」
「ごーめーん。許して。玲菜のこと考えてたんだ」
「!!」
とたんに言葉に詰まる玲菜。きっと今頃真っ赤な顔で携帯を握りしめているだろう。
普段は隙がないくせに、俺の言ったささいなひとことで狼狽する彼女がとても可愛い。
あまりいじめてはかわいそうだと思いつつ、はじらう玲菜が癖になっていた。
「加瀬はずるいです」
「知ってる」
「確信犯ですか。性質が悪いです」
「自覚あるだけ良心的だろー?」
不満げに呟く彼女は頬を染めて俯いているに違いない。
今年の夏休みはきっと忘れられない思い出になる。
ふくらむ期待の一方で、俺はまだ重要なことを見落としていた。
既に夢中になりかけていた玲菜。
彼女が俺にとってどれほど大切な存在になるかなんて、このときは知る由もなかった。
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これからたまに葵(奏、雪音も?)視点のお話を書く予定です。
どうぞよろしくお願い致します。




