第十話 満月の夜。(前編)
「ただいま」
駅前で加瀬と別れたわたしは無事に帰宅した。
目前に迫った夏休みのことを考えると不安もあるけれど胸が躍る。
学校が休みの間は加瀬に会えないと思っていたぶん喜びを抑えられなかった。
「晩ごはん何にしよう」
ワンルームマンションに一人暮らしを始めたのは高校に入ってから。
両親の離婚と再婚をきっかけに家を出ることを決意した。
正確にはそれだけが理由ではないのだが、悲観することはない。
こうなることを心のどこかで望んでいたのだ。
誰にも気を遣うことなく過ごせる自分だけの空間にひどく焦がれていた。
冷蔵庫の残り物で手早く夕飯をこしらえたわたしはテレビをつけた。
食事の間だけは音が恋しい。何気なくチャンネルを変えるうちに気になる台詞が飛び出す。
「今度結婚する彼は初恋のひとなんです」
いつもならバラエティなんて見ない。だけど自然と手が止まった。
――――初恋のひと。
その言葉が忘れられない出逢いを思い出させる。
まだ実家に住んでいた頃の話だ。
小学生だったわたしには入学してからずっと登校していないクラスメイトがいた。
宝条奏
それが彼の名前だった。
生まれつき丈夫ではないらしく入退院を繰り返しており、学校へは来ていない。
どこかの有名な大学付属病院長の息子らしいという噂だけがひとり歩きしていた。
IQが異常に高くおそろしいほど頭のキレる天才、ということも。
『芦田さん、これを宝条くんに届けてくれない?』
どのグループにも属さず勉強ばかりしている変な子。
クラスでは既に浮いた存在だったわたしは面倒な仕事を押し付けるのにちょうどいい。
まだ内気でNoと言えないわたしに対して先生はお見舞いを兼ねたおつかいを言いつけたのだ。
『分かりました』
今思えば年齢より遥かに落ち着いていたように思う。
仕事に疲れた両親の機嫌を取ろうと顔色を見るのが上手くなっていた。
だけど預かったプリント一枚が未来を変えるなんて、誰が思い描くだろう?
『ここだわ』
先生に指定された病院は意外にも学校のすぐ側だった。
受付のひとによると、どうやら彼は特別に個室を与えられているらしい。
首尾よく病室を確認したわたしがその扉を開いたとき、運命が変わった。
『きゃっ!?』
開け放たれた窓から廊下へ風が吹きこみ、勢いよく何かが舞い散る。
うっすら瞼を開けると、それは大量の紙だった。
それも、びっしりと言葉が並べられた書類ばかり。
ひらひらと降り注ぐ紙の雨――――
その中でひとり佇む男の子がいた。
心臓がぎゅっと縮みあがる衝撃。
それは恐れや悲しみからではなく、純粋な驚嘆からきたもの。
『君……誰?』
わたしを呼ぶ声は鈴音のように澄んでいた。
スローモーションで鮮やかに焼き付いた残像。
光に透けたカーテンが揺れるその前で振り向いた奏は天使のようだった。
まだあどけなさの残る面差しは感情の色が失せているものの曇り一つない。
窓越しに見える青い空。天井から降る紙は羽根のように弧を描いて落ちていく。
わたしは呆然と立ち尽くし、ただ彼を見つめていた。
「きゃあっ!?」
突然、机の上で携帯が震えた。
過去の思い出に耽っていたわたしは現実に引き戻されてビクッと飛びあがる。
箸を置いておそるおそる液晶画面を確認すると、《加瀬葵》の文字。
念のため登録してあった電話番号だ。
「か、加瀬?」
震える手で携帯を握りしめる。早く出ないと切れてしまうのに。
かけ直す勇気がないならすぐに答えるべきだわ。
わたしはひとつ深呼吸して通話アイコンを押す。
「もしもし玲菜? まだ起きてた?」
受話器から陽気な声がしてほっとした。
今さらかもしれないけど電話ってすごいな。
遠くにいるひとがすぐ側にいるみたいで心強い。
「起きてますよもちろん。あなたも無事に帰れましたか?」
「うん。できればもーちょい玲菜と一緒にいたかったけど、女の子を遅くまで引きとめる訳にいかないしなー」
「ふふっ、紳士にでも目覚めたんですか?」
「うあ、まるで俺がロクデナシみたいじゃん」
嬉しくて声が弾んでしまう。だけどそれを隠すこともない。
わたしは席を立ち、食事中に行儀が悪いと知りつつ部屋の中をうろうろした。
「それで、どうしたんですか?」
「むー。用がなきゃかけちゃダメ?」
甘えるような加瀬の声が色っぽくて落ち着かない。
顔を見ていれば平気なのに、電話ってこんなに緊張するんだ……。
ふと勉強机の上にあるメモが目に付き、ペンを片手にもう一度座り込む。
声しか頼りになるものがないのは新鮮で、気を紛らわせようと落書きを始めた。
「いえ。わたしも加瀬の声が聞きたいと思ってました」
「天然小悪魔発言きたー!」
「は、はい?」
「あのね玲菜。ちょっと正座して」
「どうしてですか」
「男は女が考えるよりずっと単純な生き物なの。気になる女の子に『いえ。わたしも声が聞きたいと思ってました』とか言われたら100%勘違いされるからね?」
「なんですかそのモノマネは気持ち悪いです」
「ぐさっ! キモイって言われたー! うわーん!」
「あ、あなたがわたしの声真似なんてするからじゃないですかっ」
「玲菜が悪いんだからなー! その気にさせといていざとなったら『そんなつもりじゃないわ』とか白い目で去っていくんだろー!?」
これだから女は怖い、とさんざん喚いたあとで加瀬はぐずるフリをした。
女の子に背中を向けられたことなんてないくせに、と内心意地悪なことが浮かぶ。
「思ったことを正直に伝えるのはいけませんか?」
「……はぁ、ダメだこりゃ」
「は?」
「これで無自覚とか反則だよなぁ。くっそー」
可愛くて抱きしめられないのが悔しい、と囁きが聞こえて赤面した。
わたしは手に持っていたペンをこれでもかというほど強く握ったせいで異変に気付く。
「いやぁぁあ!!」
「どうした玲菜!? 大丈夫!?」
わたしは落書きしていたメモを見ないように丸め、慌ててゴミ箱に突っ込む。
何が起きていたか?
加瀬と話しながら無意識に何度もハートを描いていた。
自分らしくない乙女な行動が無性に恥ずかしさを掻き立て、全身がむず痒くなる。
鳥肌が立った自分の腕をさすりながらわたしは呼吸を整えた。
「だ、だだだ大丈夫です何でもありません」
「大丈夫って声じゃなかったぞ! ほんとに平気? ヤバそうならすぐに――」
「大丈夫ったら大丈夫です!」
まさか自分で自分の首をしめることになるなんて。
想像以上に浮かれていることを認めざるをえない。




