第九話 君の見てる世界。(前編)
「あ、雨」
わたしは靴箱で上履きを脱ぎながらがっくりと肩を落とす。
雨は嫌いだ。この季節は特に。
たったっと音を立てて降り注ぐ雨は次第に勢いを増し、既に校門へ向かっていた生徒たちが声をあげながら走っていくのが見えた。
そう、もう六月だ。
湿気を含んだ空気が肌にまとわりつき、暗い雲に覆われた空が重い。
「今朝の天気予報では晴れだったのに」
他の人の邪魔にならないよう隅へ移動し、わたしは鞄を床の上に置いた。
きっと通り雨だろう。しばらく待てばやむはず。
「あれ、玲菜?」
左手に傘を持ち、靴箱から出ようとした加瀬と目が合った。
意外と用意がいいんだ、なんてそんなことを考えてしまう。
「いまなんか失礼なこと考えただろ」
「別に。置き傘なんてあなたにしては珍しいと思っただけです」
「うあ、やっぱ考えてた! ひでー」
「褒めてるんですよ」
「むー。俺だって傘くらいちゃんと準備するし」
拗ねたように唇を尖らせたあと、ふっと口元を綻ばせる加瀬。
「なーんてね。ほんとは友達に借りたんだ」
「え?」
「二本あるからどうぞって帰り際に渡された。優しいよな」
「よかったですね」
「あれ。何ヤキモチ?」
「どうすればそんなに幸せな思考回路に育つんですか?」
「俺の半分はハッピーで出来てるんだよー」
軽い口調で笑ってみせるから、あきれて物も言えない。
靴箱の軒先でポンと傘を開いた加瀬はわたしに向かって手招きした。
「じゃあ帰ろっか」
「はい?」
「傘ないんでしょ? 一緒に入ればいいじゃん」
「ええぇ!?」
「小学生じゃないんだからこれくらいで照れんなよ。ギュウまでした仲なのにー」
「なんなんですかそのポーズは変態ですか!?」
傘を持ったままぎゅっと自分の両肩を抱きしめる加瀬。
もはやどこから突っ込んでいいのか分からない。
「とにかく。語弊のある言い方はやめて下さい」
「いーのかなー? 素直にならないと……」
「三秒以内に何かする気でしょう? はぁ。毎回この手はずるいです」
「細かいことは気にしないの。ほら、早くおいで」
にこにこして待っている加瀬を見れば反抗する気力も萎えていく。
わたしは床に置いた鞄を握って加瀬の側へ向かう。
あれほど目立ちたくないと釘を刺したのに。ため息を吐いて周りを確認した。
突然の雨に降られたおかげで生徒たちはクモの子を散らすように去っていく。
わたしは加瀬に傘を差し掛けられ、肩が触れるかどうかの距離で歩き出す。
濡れた地面は少しぬかるんで、ところどころ足跡がくっきり残っていた。
いつもより柔らかい土の感触が歩く度に踵へ響く。
「この傘さ。男が使うには可愛い感じだけど、玲菜が一緒なら自然だろー? こう、彼女の傘を持つ彼氏的な」
「いますぐ黙らないと傘から出ますよ」
「えぇ!? なにその脅し方新しいんですけど!」
「わたしはずぶ濡れになってもかまいませんから」
「うそつきー。玲菜さぁ、ほんと嘘つくの下手だね。そんなんじゃ悪い奴に騙されちゃうよ」
傘の柄を持ったまま顔を覗き込まれて胸が鳴る。
こうして並ぶとやっぱり加瀬はずいぶん背が高いんだって思う。
「嫌いなんだろ。雨」
「どうして分かるんですか」
「靴箱で雨宿りしてたとき、そんな顔してた」
「加瀬。そんなにわたしのことを見て……」
「玲菜……」
熱い視線が重なり、一瞬の沈黙が生まれる。
わたしはゆっくり唇を開いて囁いた。
「ストーカーですか?」
「そういうオチ!?」
「他人の顔色を読むのは反則です」
「ちぇっ、ちょっとイイ雰囲気だと思ったらこれかぁ」
加瀬は前かがみにしていた体をすっと起こし、残念そうに唸った。
「たいていの女の子は話しかけたらにっこりしてくれるのにー」
「わたしを『たいていの女の子』に含めないで下さい」
「含めてないよ最初から」
「え?」
「これでも特別扱いしてるつもりなんだけどな」
サラッと何気ない口調で恥ずかしいことを言う。
加瀬は無自覚なのか確信犯なのか、ときどきこうしてわたしを困らせるのだ。
「だ、誰にでも優しいひとは信用できません」
「まぁそうだよね。俺は誰に対しても同じ態度で接したいと思うけど――一秒でも長く一緒にいたいと思うのは玲菜だけだよ」
トクン。体の奥が熱い。
ちょうど同じことを考えていてくれたことが嬉しくて、ただ嬉しくて。
言葉の力ってすごい。たった一言でこんなに幸せな気持ちになれるんだ……。
靴箱を出て校門に向かう間、わたしたちは他愛のない話をした。
どうやら学校の最寄り駅まで同じ方向ということが分かり気分が明るくなる。
せっかくだからと加瀬は少し遠回りを提案してくれた。
普段であれば雨の散歩なんてごめんだけれど、このときばかりは素直に頷く。
わたしは慣れ始めた通学路とは違った景色に心が躍った。
濡れたアスファルトの急な坂道にさしかかり、わたしたちは歩みを遅める。
傘に当たる雨粒は規則正しく曲を奏でた。
何を話す訳でもなく、肩から伝わる互いの体温だけを微かに感じる。
誰かとふたりきりで沈黙が続くのは辛いはずなのに、むしろ安らげるのはどうしてだろう。
「うわ、この道すごいな。紫陽花だらけ」
しばらくして目の前に広がる梅雨の風物詩。
溢れんばかりに咲き誇る色とりどりの紫陽花が道に沿って整列していた。
こんな場所が学校の近くにあったなんて。
瑞々しい紫陽花は水滴を受ける度にちいさく震え、すぐ側で美しい涙を流している。
わたしは通り抜ける途中でみるみる舞いあがっていた気持ちが沈んでいった。
子供の頃、よく傘を忘れて雨宿りしたことを思い出す。
他の子供たちは友達の傘に入れてもらったり、家族の迎えを待っていた。
だけど……。
急にさびしくなって自然と鞄を握る手に力が入ってしまう。
そんなわたしのささいな変化に気付いたのか、加瀬は少し距離を詰めてきた。
「これから紫陽花を見たら玲菜を思い出すな」
「え?」
「この道を一緒に歩いたことも。相合傘したことも」
鈍い痛みが胸に広がり、わたしは唇を噛んだ。
まるで思い出にしてしまうような響きに心が張り裂けそう。
「やめて下さい」
そんなこと聞きたくない。これ以上、離れてほしくない。せめて今は。
道にはみ出して零れてしまいそうな紫陽花から目を背け、足元に視線を落とす。
「なんで? 大切に思える場所やものが増えるのって嬉しいじゃん」
水を弾くローファーを見ていたわたしに顔を近付けてくる加瀬。
あ、だめ。このままじゃ泣いてしまいそう。
この頃ほんとうに変だ。妙に涙腺が緩んでしまう。
瞼の奥にこみあげる涙を必死で押し留めると、加瀬は慌てて言葉を付け足した。
「わわ、違うんだ。あー、えと、悪い意味で言ったんじゃなくて」
「え?」
「つまりね。お互いの見ている世界を分け合えるってこと」
「お互いの見ている世界を?」
「それぞれ別の場所にいても、同じものを見かけたらきっとお互いを思い出す」
「あ……」
「幸せな気持ちになるよね、そうゆうの。自分を思い出すきっかけをくれるものが少しずつ増えていくなんてさ」
思いがけない答えに体の芯からぬくもっていく。
まるで魔法みたい。
これまでは紫陽花を見る度に悲しい思い出が蘇っていた。
だけど不思議。遠くにいてもふたりをつなぐきっかけになると思えばキラキラして見える。
春風のような加瀬の微笑みは心を解かし、息吹を与えた。
来年また紫陽花を見かけたら、きっと幸せな気持ちになる。
そんな予感がした。




