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僕が僕への反抗を止めた日

作者: 朝比奈和咲

 駅の改札を抜けたら、駅前の広場に二台のパトカーが停まっているのが見えたんだ。それと野次馬がいた。空は夕焼けが綺麗だった。ラーメン屋の前に人がたくさん集まっていた。ちょうどパトカーがここに着いたばかりだったらしくて、二人の警官が入口前を囲むように群がっていた野次馬をかき分けながら(まるでモーゼのようだった)ラーメン屋に入って行った。

 ラーメン屋の入口のドアが開くと罵声が聞こえた。男の声だとしか分からなかった。男はどうやらラーメン屋で暴れていたらしくて、何か言っているのだけど意味は分からなかった。

 やがてパトカーの中で待機していた警官もラーメン屋の中に入って行った。僕は野次馬に混じることはせずにパトカーの近くでその様子を眺めようとした。野次馬たちもつまらないことだと悟ったのか、それとも自分の身に危険が及ばないように避難をしたのだろうか、それは分からないけど一人去るとまた一人去って行き、暴れていた男がラーメン屋から連れだされて来た時にはもうほとんどいなくなっていた。

 そこでラーメン屋の入口が始めて見えたのといっしょに、警官と一人の男がラーメン屋から出てきた。男はなにか怒声を上げてたけど、警官がしっかりと押さえているせいか暴れはしなかった。

 男はラーメン屋の入口前で警官を怒鳴りつけると、今度は店の中に向かって世界を震えさせるほどの声をだした。ウソじゃない、だって歩いていた人の足を一瞬止めたし、僕だって少し震えたんだから。

 男はまた変な奇声を上げながら、やっと僕にも分かるような意味の言葉を発し始めた。「俺はもう死ぬんだ」という声も聞こえたし「誰もが俺を馬鹿にする」ていう声も聞こえたし「お前らも滅んじまえ」とか、「俺はどうせ異常なんだよ」とかいう言葉も叫んでいた。誰に向かって叫んだのか分からないその言葉は駅前の広場の隅っこまで響き渡ったんだ。

 すると、ラーメン屋の二軒隣りにあったおでん屋からおっちゃんが出てきた。決して身なりが綺麗とはいえない、みすぼらしくて道端で寝ているんじゃないかと思わせるような姿のおっちゃんだった。

 おっちゃんはその男にすぐに気がついて、そいつの方を向いた。男が「見んなよ、殺すぞ!」って言ったらおっちゃんが「うるせえ!」って言い返した。

 警察はその小汚いおっちゃんに近付こうとしなかった。というより、皆でそのおっちゃんを黙らせる権利を譲り合っているようにも見えた。

「飲むぞ! 馬鹿野郎!」

 おっちゃんが男に向かってそう叫んだんだ。男と比べると大きな声ではなかった。けど、道行く人の足を止めたんだ。僕もびっくりした。

 男がそれを聞くと、また意味の分からない声を叫んで、金切り声っていうのかな、そんな奇声を出したんだ。なんか、その男は泣きそうにも見えた。

 突然、ラーメン屋の中から一人の男が出てきた。給食で使われる鍋よりも大きな鍋を両手で持って出てきたかと思うと、いきなり奇声を上げていた男に鍋の中身をぶっかけたんだ。「死んじまえ!」って叫びながら熱湯を背中から男に勢いよくぶっかけた。

 熱湯を浴びた男は今まで聞いた中で一番の大きな声を出してその辺を飛び跳ねた。悲鳴のような声を上げて「あちぃ」という声がかろうじて聞きとれたら、それは警官が叫んだ言葉だった。男はただ叫ぶだけで、すぐに鍋を持っている男が警官に捕らえられた。

 捕えられた男は「ざまあみろ」という声といっしょに笑っていた。大きな笑いはやがて収まっていって、笑みを残したままパトカーの中に連れ込まれて行った。

 熱湯を浴びた男は「熱い、熱い」と呻きながら地べたに転がっていた。

 小汚いおっちゃんはそれを見て大笑いを続けていた。「だらしねえな、酒を飲むぞ!」って言って、右手を天高く振りかざすと、また空に向かって大笑いをし始めた。

 野次馬のほとんどが携帯電話でその光景を写そうとしていた。子連れのお母さんたちは片方の手で口を押さえながら。もう片方の手で転がる男を見ようとする子どもの手を引っ張ってさっさとどっかに行ってしまった。

 熱湯がかかった警官は「あっちい」と言ったりして。その辺を行ったり来たりしてうろつき始めた。

 僕は、その様子を黙って見ていた。ただ黙って見ていたんだ。あまりにも滑稽なその光景を、僕は笑いを堪えながら目立たないようにただ黙って見ていたんだ。


 やがて救急車がやって来て、熱湯を浴びせられた男がタンカーに運ばれて救急車の中へ入っていった。その時になると、さっきまでいたほとんどの野次馬がもういなくなっていて、いたのはここで何があったのかを知らない、さっき来たばかりの新たな野次馬たちだった。

 救急車が去って行くと、それと一緒にパトカーも去って行って、いつもの静かな駅前の広場が戻った。夕焼けが綺麗で、ほとんどの人が足を止めることなく広場から去って行くいつもの様子が戻って来た。

 僕も歩き始めた。行き先も帰る先もないけれど。とりあえず寝床を探そうと思って歩いて、いつの間にか日も沈んでいて、そんで結局マンガ喫茶で一夜を過ごすことにした。


 翌朝、僕がホームレスになってちょうど二カ月経って、久しぶりに新聞を買った。昨日の駅前の広場であったことが掲載されていないかを確かめたくて朝飯を我慢して買った。

 全国紙には載っていなかったけど、地方紙には載っていた。とは言っても小さな記事として取り上げられただけで、たいしたことが書かれていなかった。

 書かれていたことは『ラーメン屋で乱闘』という見出しで始まっていて、ラーメン屋の店主と暴れ狂った男性客が逮捕されたということと、男性客の暴れた理由が『煮卵が入っていなかった』ということで、警官にお客が連れ出された後に店主が鍋一杯の熱湯をお客にぶっかけたという、たったそれだけのことしか書かれていなかった。

 僕はここにさらに三つのことを書き足したかった。

 一つは熱湯をぶっかけられた男の叫び声がもう可笑しかったこと。僕の目の前で叫んだ男の言葉があまりにも可笑しくて、僕は腹の底から笑いそうになったこと。

 でも、これで笑えた人は幸せなんだなと思った。だから、あの小汚いおっちゃんは僕より幸せなんだろうて思った。

 二つ目は携帯電話でその光景を撮っている人たちの何人かがスリにあっていたこと。カバンの中から財布を抜き取られる様子が僕は知っている。どうして誰も気がつかなかったのだろうか。あんなに堂々と掏られていたのに。

 三つ目は、あの小汚いおっちゃんが僕よりずっと金持ちで、ホームレスの中で裕福な男だと知られていること。『おっちゃん』と呼ばれているその若い男がどうしてホームレスになったのか、そんなこと僕は知らないけど、ついでに言うとどうして小汚い格好をしてそのおでん屋にいたのかさえ僕は知らないけど、その『おっちゃん』があの光景を見て腹の底から笑っていたことが、僕にとって一番羨ましかった。

 けれども、やっと『おっちゃん』がどうして金持ちになれたのかがこれで分かった気がした。『おっちゃん』は人の心が分かるのだろう、きっと。


 昼前に『おっちゃん』が住んでいる河川敷の段ボールハウスに僕は行った。『おっちゃん』がそのハウスの中から出てきた。昨日とは違う、身なりが整った綺麗な姿だった。

「はい、ごくろうさん」と言って『おっちゃん』は僕に三万円をくれた。

「いいんですか? 僕は見ていただけなんですけど」と僕は言った。だって確かにその通りなんだから。でも、これは『おっちゃん』に指示されてやったことだった。

「いいんだよ」と『おっちゃん』が言って、ハウスに戻ろうとした。

「昨日の事件も『おっちゃん』が考えたことなんですか?」と僕は聞いた。

「ん、あれは偶然だよ。でも、それでも仕事をしないと他が動けないからなあ」

「本当はどういう作戦だったんですか? 僕は何も聞かされていなかったんです」

「ん、聞かせるつもりもなかったからなあ。そりゃ、そうだろ。

 まあいいや、教えてやるか。俺が激しく笑う。ほとんどの人が俺を見て避けるように去って行くが、中には親切な奴が近づいてくる。一人近付くと、もう二三人近づいてくるもんで、警察を呼ぼうとする奴が出てくる。そしたら俺の仲間が二三人近づいてくる。そして財布を掏る。それで終わりだ」

「僕は本当に見ているだけなんですね」

「そうだ。分かったらさっさと帰れ。それともうこの仕事は店じまいだ。俺もここから消える。じゃあな」

 そう言って『おっちゃん』は中に入って行った。腑に落ちないことがいくともあったんだけど、僕もさっさとそこから去って行った。


 駅前のラーメン屋は休業になっていた。当たり前だな、と僕は思った。

 何を食べようか考えながら歩いていたら、後ろから声を掛けられた。振り向くとそこには警官がいた。ぼくは何だろうと、少しびっくりした。

 警官の言うことに逆らえなかった僕は、すんなりと財布の中から保険証を見せた。保険証を見た警官は僕にそれを返さずに、いくつか質問をしてきた。

「昨日のことをご存知ですか?」

「はい」

「昨日、ここで何件かの盗難があったのですが、知っていましたか?」

「いいえ」 動揺を隠しながらも僕はそう答えた。『おっちゃん』との約束では、誰にも口外しないということだったから。

「そうですか。怪しい人は見ませんでしたか?」

「いいえ」

「ありがとうございました」と警官は言って、振り返って僕に背を向けた。僕はさっさと警官から離れたくて、さっさと歩きだそうとした。

「着いて来てくれます?」

 警官が僕にそう言った。僕は頭が真っ白になった。スリの協力をしていたのがばれたのではないかと思ったんだ。

 逃げ出したかったけど、僕はすんなりとその警官に着いて行った。警官に逆らえる気がしなかったんだ。

 連れていかれた場所は人気のない静かな駐車場だった。どうしてこんなところに連れてこられたのかが不思議だった。

 警官が言った。「お前は馬鹿だな」って。

 やがて一台の白いワゴン車がやって来るのが見えた。ワゴン車が僕と警官の近くまでやって来て停車した。停車すると、ドアが開いて中から『おっちゃん』が出てきた。

 そのときになってこの警官が偽物だと僕は気がついたんだ。僕は馬鹿だな、と思った。

「で、どうだった」『おっちゃん』が偽警官に言った。

「いや、本当に何もしゃべらなかった」偽警官がそう答えた。

「そうか」とだけ『おっちゃん』は言って、そして僕の方を向いた。

「とりあえず三万円さんまんを返せ。お前にはその三万円さんまんは必要ないだろ」

 いやだ、と言いたかったけど偽警官が僕の保険証をちらちらと見せつけて、ライターで炙り始めようした。それを失くしたら困る僕は、渋々三万円を『おっちゃん』に返した。

 『おっちゃん』は偽警官に保険証を僕に返すように言った。偽警官はさっさと僕に保険証を返してくれた。

 『おっちゃん』が車に乗り込むと偽警官も車に乗り込んだ。

「さっさと家に帰れ」と偽警官が僕に言った。「帰る家なんてない」と言ったら二人とも笑って「探せ、馬鹿」と言った。

 車のエンジンがかかり、僕はそれを呆然と見ているしかなかった。助手席に座っていた偽警官が窓を開けて笑いながらこう言った。

「おい、良かったな、生きていられて」

「知るか」って言い返してやった。言い返したつもりだった。

 車はそのままどこかへ行ってしまった。

 僕はそこに立ちすくんでいた。上を向くと天高くある太陽が眩しかった。ついでに青空が綺麗だった。

 どうしよう。もう有り金は尽きてしまった。金が欲しくても働けない。一人で勝手に働ける年齢じゃない。財布に金が無かったら何もできない。

 けれど家にも戻りたくない。やっと見つけた仲間にも裏切られた。

 どうしよう、どうしよう、と思いながら僕は駐車場から離れて、そして駅前に向かった。

 駅前に着いた僕は、何をしていいのか分からなかった。ぐるりと周囲を見回した。いつもと変わらない、日常って言うのかな、そんな風景が見られた。

 ただ、ラーメン屋が休業になっていた。当たり前だな、って僕は思った。

 ラーメン屋の入口のシャッターに一枚の紙が貼られていた。


― 玉子をいつもケチるからそうなったんだ! ばーか! ―


 僕はそれを見て笑いが堪えられなくなって、腹の底から大きな声で笑ったんだ。笑ってやったんだ。ずっと笑っていたんだ。すると数人ぐらいが足を止めて僕の方を見て来たんんだ。

 パトカーがやって来て、やがてパトカーから出てきた警官が僕のところにやって来たんだ。僕はそいつらに「本物か?」って言ってやったんだ。

 あいつら卑怯だから質問に答えないで、僕のことをさっさとパトカーの中に連れて行ったんだ。そして、僕はパトカーと共にあの駅前広場から消えて行ったんだ。

 パトカーの中で警官に聞いたんだ。「正しいって何?」聞いてみたんだ。

 でも、あいつらはやっぱり卑怯だから答えもしないでそのまま僕を警察署まで連れていったんだ。何でか知らないけど、警察署の連中はみんな可哀そうな目つきで僕のことを見ていたよ。


 分かってるよ。正しいなんて、もうどこにもないんだ。真実だなんて単なる思い込みにすぎないんだ。

 だから、そのことを再認識するきっかけになったあの事件を僕はいつまでも覚えておくことにするよ。それが、いまの僕の正しいことだと思ったんだ。

 警察署でどうして僕がホームレスになったかを言ったらみんな呆れていたよ。「単なる家出じゃねえか」っていう声も聞こえたよ。

 もう、それでいいよ。嫌でも帰るよ、家に。それが正しいんだろ、世間では。だったら、帰るさ。帰って、また、何をすればいいのか分からないけど、静かに暮らそう。そうするよ。反抗期っていうのかな、僕のそれはもうこれで終わりにするよ。


 お読み頂きありがとうございました。

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