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死生観

昨今、イスラム教徒が土葬墓地を作らせろということで論争が起きている。

ここには宗教観の違いがあるわけだが、日本のそれはあまり自明ではない。一つ再検討をしておこう。


素朴に考えて、日本においては「死の穢れ」という観念がある。

日本において火葬が一般化したのは結構近年のことだが、別に土葬を神聖視していたわけではない。むしろ「穢れ」を嫌っていた。

この背後には、感染症への恐怖があったのではなかろうか。乾燥した土地ではさほどではなくとも日本の湿気た大地ではろくなことになりそうにない。


これへの恐怖は、イザナギ・イザナミ神話で表現されている。「死」を越えようという「愛」の試みが虚しく挫折する物語だ。単に挫折するばかりでなく、これでもかと醜悪に描かれている。一日千人殺されることになり、だったら千五百人生まれるようにするぞと言う物語だ。

「死の穢れ」は当事者の間で閉じているのではない。とてつもない影響力を行使する。そういう主張が見て取れる。


イスラム教徒がなぜ土葬にこだわるのかは知らない。まあコーランでそうしろと書いてあるとかそういう話なのだろう。あるいはキリスト教では最後の審判の時に死者が墓場から甦ってくるそうなので、似たような信仰があるのかもしれない。

死後の蘇りがあるのだから死体はそのまま取っておけと言うのかな。一神教文化はとんでもなくあり得ないことを主張してきて困る。


これがインドでは、死者は輪廻して生まれ変わることになっている。これに近い死生観は日本でもなくはないようだ。魂は輪廻するにしても、死体はやはり持て余しそうだ。高温のインドでは死体処分のために、魂の永遠を説いたのかもしれない。


中国の形而上学はイマイチ理解しにくい。魂魄が魂と魄に分かれて、魄は大地に帰るとかそんな感じで聞いた気がする。魂の方は家で祭られているのかな。家の守り神とかそんな感じになるんだろうか。祭られないと祟り神みたいなものになるのかな。祭ってもらえるように子孫を残すことが何より大事だとか。


キョンシーみたいなものは即物的すぎて、理解を脳味噌が拒んでしまう。そういう死者を想像し得るほどに、中国の死生観は軽いのかなあ。


日本でも夜の墓場に行けば人魂が飛び交っているという話が昔は多かった。死体がどうこうというのはあまり聞かない。死はネガティブである。大事にとっておいてどうなるものでもない。


日本の仏教は、葬式仏教が大部分を占めている。これは日本的展開であって、元来の釈迦の教えからは遠い。

日本では「死者」は「成仏」すべきものと考えられる。現世にとらわれるのは「迷い」である。未練を断ち切るためにも死体は燃やしてしまうのがリーズナブルである。


これは万人が直ちに納得できるものではないので、初七日から四十九日、一周忌から延々とステップを踏んで深めていくことになる。長い時間をかけて徐々に未練を振り切っていくのだ。


ここで「成仏」というレトリックが採用されている。これはいかにも嘘くさい。大元は、人が修行を積んで悟りを開くことを意味していた。死んで祭られれば、悟りを開くというのはおかしい。まだ神に成るといわれた方が納得だ。


しかし人が神に成るのはただ事ではない。古代はいざ知らず近世以降では徳川家康とか、あるいは軍神として祭られた東郷平八郎とかそういうクラスになってくる。

その点「仏」というのは、原則的に「人が成る」対象なのである。かなり難しいけれど、可能性としては誰もが成れておかしくない。生きているときに「仏」を名乗るのはただ事ではないけれど、死んだ後ならまあ構わないんじゃないかということで、葬式仏教が成立してきたのであろう。


ただし、これはあまり濫発すると軽々しく見えてしまう。キリスト教でいえば「死ねばあなたは聖人認定を受けられる」といっているようなものだ。そういうのは「最後の審判」に保留しておくのがあちらの原則である。

イスラムだと、ジハードで戦死すれば天国入りが約束されているんだったっけ。北欧神話でも勇ましく戦って戦死すればワルキューレがヴァルハラに連れて行ってくれるそうな。「特別な死」を関門においている。


日本の葬式仏教がここをどう説明するのか。明示的な説明なんてどこでも聞いたことがないけれど、日本国民多数が何となく共有している世界観がある。それで何となく納得できてしまっているのである。

それは「人生=修行」というものだ。人生全てが修行の過程である。だからそれを終えたら最後は論功行賞で「仏」にしてやろうじゃないか。これが日本人の無意識にあると考える。


人は死んだら「一巻の終わり」である。冷徹な事実としてはそう考えるしかない。

現代科学はおおむねこの立場を取っている。仏教の根本理念もそうであろう。しかしそう弁えて、なお充実した人生を築いていくことはかなり難しいわけだ。


現代人の多くも「ニヒリズム」に苦しんでいる。

現代科学はここの答を与えてくれない。冷たく突き放すのみである。

ニーチェは、この世の分子・原子の順列・組み合わせが一巡する遠い未来に「今ここ」が再現されるだろうと考えた。こんなものが億兆年の億兆乗後なら実現可能だろうというわけだな。「永劫回帰の神話」というものを科学世界観の果てに設定して見せた。苦しすぎる論理遊びの世界だろう。


ここで一般人のための方便が追求されざるを得ない。ここでいろいろな宗教的説明が立ち上がってくる。「最後の審判」もそうである。「天国・地獄」の類もそうである。


人類史を通してかなり普遍的なのは、「子供は自分の分身」という考えである。自分の本体は死んでも、分身が生きている限りは自分は死んだことにならない。

これはかなりメジャーな考え方で、世界の到るところで見ることができる。

しかしこれに対する「個人主義」の考えが存在する。「自分は自分」、「子供は子供」、混同してはいけないというものだ。近年はこの影響力が大きくなってきている。


現代科学では、遺伝子の研究が「子供は自分の分身」を説明してのけた。また進化論が、かなり強力な補完説明を提供している。

一方で脳科学や生理学は「個人」ベースの営みを支持している。

この両者はかなり対立的で、遺伝の影響をどの程度見積もるかで結構論争を起こしている。


国際政治的には、グローバルサウスでは親族主義・氏族主義が優勢であろう。これは権威主義体制に結びつきやすい。

欧米先進国は個人主義を採用し、政治的には民主主義を選択してきた。


西洋の個人主義の背景には、実はカトリック教会の影響が存在している。古代ローマや古ゲルマンには親族組織の影響が強かったのだが、カトリック教会は親族内の婚姻を制限することを千年単位で遂行してきてこれを骨抜きにしてしまった。「神の前の平等」を謳いつつ、そこでの実権を教会が独占していくものだった。

そのやり過ぎが嫌われて、「科学革命」で無神論が広まった。それでも「バラバラの個人」が科学法則と「国家の法」で束ねられるという「個人」原則は生き残ったわけだ。


今日のグローバル世界は、科学法則を過信して成立してきた。これは強力だからこれを採用するなら当然個人主義を採用し、政治体制も民主主義に収斂するだろうと思われたわけだ。

しかしながら存外に権威主義体制がしぶとい。工業商品を利用するだけなら科学法則に無知でも問題なかったわけだ。それよりは歴史文化背景の共通性が重視されてしまった。


西洋個人主義は、キリスト教信仰を否定して生まれた。これは「神の否定」からニヒリズムに走りやすい。その間隙を埋めたのが「富の獲得」への信仰である。「資本主義」はこの結末である。


さて、ここで日本人の価値観を再検討しよう。ここには、かつての「家制度」に代表される血縁主義がかなり大きな意味を持っていた。

しかし東アジア規模で見ると、他との違いが見て取れる。それは地縁主義がかなり大きいことだ。「遠くの親戚より近くの他人」とか「郷に入らば郷に従え」のことわざが、日本の地縁主義の大きさを示している。


戦後社会では地方自治は空洞化が進んだけれど、代わりに会社単位で「共同体」意識を育てることが流行した。これは地縁主義の亜流としての社縁主義と名付けて良かろう。


また日本には、個人の価値観に基づいた「知縁」主義というものも古来から成立していた。これは師弟関係を縦軸とし、メディア空間を横軸とするものだ。宗教文化・芸能文化・職人文化・武芸文化等が含まれる。これらが世俗化して現代サブカルやネット言論にも通じてきている。


日本の「世間」はこれらの混在したものであった。血縁・地縁・社縁・知縁等がさまざまに交錯する。神も法則も知ったことではないが、「縁」こそが人の生きる基盤であった。

「縁」は人にさまざまの「生きがい」をもたらす。どれもあやふやだが、多少は「生きる力」を与えてくれる。「袖すり合うも多生の縁」、そこから「生きがい」を仕入れながら人は生きて行く。


ここでは「人は死んだらどうなるか」などを考えている暇はない。ただひたすら「人生修行」を続けるのみである。運が良ければ大往生。逆縁に恵まれれば歎きながら死ぬしかない。悲しむ暇に、徳の一つも積んで逝け。


今際の際に、人は自分の積み上げた陰徳を思う。そこで満足できるか、不本意に苦しむか。未練は尽きないが、どこかで終わりは必然である。良くも悪くも「一巻の終わり」。


ここで一番の慰めは、子や孫の笑顔の記憶だ。血縁に恵まれなければ、弟子や顧客の笑顔でもいい。最悪、近所のすれ違った子供の笑顔でもないよりマシ。


人はそうして「成仏」していく。そういうものとして見送っていきたい。

これが日本人の死生観である。


どうせ「死ねば終わり」である。しかし「人として生きて死にたい」。

来生も天国も信じないけれど、誰かの「記憶に残る」死に方をしたい。

最期の死に様は、いかに生きたかの集大成だから、あまりみっともない様は晒したくない。


裸で生まれてきたのだから、裸で死んでいくのである。

富も名誉も、生きているときの手段に過ぎない。

死に際に頭をよぎる思いにこそ全振りしておくべきである。


人とは、「悟り」と「未練」の狭間で生きていく存在である。

きれいごとを貫く努力も立派だが、無様な自分を愛おしむことも同じくらいには重要である。


形式を守れば天国に行けるというのは、怠惰な言い訳に過ぎまい。

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